遠津淡海の戦い
三人称視点です。
堀江城城主、大沢基胤は弱冠17歳でありながら、名門大沢家の当主である。
父であり前城主の元相がおよそ二年前の安祥城攻略に従軍し討死した事で、若くしてその跡を継いだ。
戦国武将の中でも屈指の歴史の長さを誇る名門の跡取りとして、彼はこれまでの人生を順風満帆に歩んで来た。
父の早過ぎる死は、そんな基胤に初めて訪れた試練であった。
しかし、彼はこの試練を乗り越える。乗り越えようと試みる。
嘆き悲しむよりも、この悲劇を力に変えて、大沢家の維持と勢力拡大に尽力しようとしたのだ。
同じく安祥城攻略戦で宗家の当主を討たれた、宇津山城の朝比奈家をはじめ、遠江の今川家家臣、今川方の国人衆と親交を深め、連携を強化しようとした。
周辺の土豪を取り込み、協力の約束を取り付け、領地の安定化を目指した。
大沢家の譜代家臣である中安家は、代々この辺りを支配していた堀江氏の分家だ。
現当主、中安定安の父堀江清泰は名君として領民に慕われていた。
彼が死去した際、領民が今川家に村の名前を堀江村に変えて欲しい、と陳情したほどである。
清泰が没した際、定安は幼かった事もあり、叔父である中安豊種の養子となり、中安姓を名乗る事となった。
言ってしまえば堀江の名が断絶した事になるのだが、村の名前として残っているので構わないとでも思ったのかもしれない。
あるいは、豊種による宗家乗っ取りか。
堀江家のお家騒動はともかくとして、そのような清泰の子であったから、定安も領民からよく愛されていた。
大沢家の周辺統治に、彼の助力があったのは言うまでもない。
浜名湖の水運を取り締まる権限を与えられ、先代基相の時代には今川家から加増までされている大沢家は、今川家の遠江支配の要であった。
宇津山城が三河との国境を守る軍事力の要とするなら、堀江城は西遠の南北と中遠を繋ぐ、物流の要だった。
ここを押さえられると、軍事物資や兵力の輸送だけでなく、城下の経済活動まで制限されてしまう。
言うなれば、西遠の心臓部とも言うべき城であり、家だった。
安祥家が遠江に進入した際、堀江城から北東にわずか一里(約4キロ)の距離に砦を築いたのは、自分達への牽制だと大沢家は警戒した。
今川家からの要請で、手懐けていた土豪が、安祥家に寝返ったとされる井伊家の討伐に動いていたためこれを防げなかったのだ。
砦を築かれ陸路が塞がれたため、大沢家は水運による連携の強化を図ることを余儀なくされた。
しかし同じ頃、浜名湖周辺の最大勢力である、宇津山城が囲まれたという知らせも届く。
宇津山城が落とされると浜名湖西側の守りは立ち行かなくなる。物資と人員をすぐに輸送する必要があった。
だが、安祥家が井伊家との挟撃で、井伊谷城を攻めていた土豪連合を蹴散らし、返す刀で刑部城を落城せしめてしまった。
刑部城に安祥家の主力が入った事で、浜名湖東の勢力が急激に態度を硬化させてしまう。
更に、浜名湖南の守りを任せられている、松田城の中山家から、安祥家の別動隊に攻められているという報告が届いた。
治政のみならず、軍略にもその才覚を発揮していた基胤は、すぐさま安祥家の狙いに気付く。
難所であるが故に守りの手薄な南側から浜名湖を東へ進むつもりなのだと。
だが、その意図を隠すためか、松田城を強襲した安祥軍は船や筏を曳いていないという。
それを知り、基胤はすぐさま浜名湖南、西岸周辺の船を隠すよう指示を出す。
それから三日。
安祥軍が刑部城に入ったまま動かない事に安堵していた。
堀江城は三方を湖に囲まれ、城自体も小高い山の上に築かれた堅城。
これを落とすのは容易ではなく、時間をかければ遠江の中央から東の勢力が刑部城に攻撃をしかけるだろう。
今川家の本隊も、田植えの時期が過ぎれば援軍に来るはずだ。
堀江城を無理攻めしても良い事など一つもない。
それがわかっているからこそ、安祥長広も浜名湖南部を渡るなどという、無謀に近い戦略を取ったのだ。
だから、基胤は安堵していた。
このまま初夏を待てば、遠江の防衛は叶うと。
油断していたところへ凶報が齎された。
正体不明の艦隊が、浜名湖と太平洋を繋ぐ今切から湖内部へ侵入してきたという。
そして、彼らの帆に掲げられていたのは『織田木瓜に影星』。
「これが狙いか!」
その知らせを受けた基胤は、自らの至らなさを呪った。
安祥軍の狙いは艦隊を浜名湖に突入させて、水上輸送を阻害。各城の連携を断つ事だったのだ。
この艦隊突入を防ぐはずの船は、基胤の指示によって片付けられてしまっている。
「安祥の船はどうだ? 兵部」
「海戦の話は聞かないので詳しくは。ただ、西尾湊を整備し、三河湾の東西を繋いでいるそうですので、甘く見る事はできませんな」
定安に尋ねると、そのような評価が返って来た。
「やれると思うか?」
「やらねばならんでしょう」
放置すれば、大沢家の船は悉く沈められてしまう。輸送が滞れば、囲まれている宇津山城や松田城は干上がってしまう。
特に、宇津山城は周辺の兵力をかき集めて、五千もの大兵力が城に入っているという。
田植えの前のこの季節に、どれだけの兵糧を用意できていたか怪しいものだ。
そして松田城もそれは同じだ。
間違いなく、宇津山城が囲まれた時点で、船により兵糧を始めとした物資を宇津山城へ運び込んでいるだろうからだ。
そういう意味では、まだ宇津山城の方が長持ちするだろうか。
「どちらにせよ、輸送路を扼されれば落城は時間の問題となろうな」
「お任せくだされ、安祥のにわか水軍ごとき、蹴散らしてご覧にいれますよ」
長年浜名湖の水運を取り仕切って来た大沢家の水軍が、練度的に稚拙だなどと思う筈がない。
そのようなところへ突入してくるという事は、安祥家の水軍は、大沢家を叩き潰す自信があるという事の筈だ。
それでも定安が敢えて強い言葉を使ったのは、若い当主を少しでも安心させるためだった。
「安祥家の艦隊です! 南方、三町(約330メートル)先!」
「突っ込んで来るのか? 舳先をこちらに向けたままで?」
部下からの報告を受け、船上の人となった定安は怪訝な表情を浮かべた。
多少なりとも海戦の心得があれば、それが無謀な事だとわかるというもの。
確かに、海戦の多くは弓で決着がつく場合は少なく、焙烙玉や火矢による接近戦。
あるいは接舷しての乗り込みが主流だ。
そういう意味では接近を重視するのはわからないではないが……。
「構わん、弓隊、構え……」
相手の狙いがなんであれ、やる事は同じだ。
特に相手が接近を狙っているというなら、それは防がなければならない。
特に、安祥家は火薬を利用した兵器を用いた戦術を得意とすると聞いている。
「せ、接近、一町!!」
「馬鹿な、速過ぎる! 横風だぞ!」
あっという間に弓の射程内に入って来た安祥家の艦隊に対し、定安は驚愕の叫びを上げた。
この時代の日本の例に漏れず、大沢水軍が使用していた船もその多くが小早であり、関船が幾つかあるだけだった。
船底が平らで、浅瀬などでも航行でき、整備された港を必要としないため、これらの和船は日本中で重宝されていた。
南蛮のみならず、既に明などにも外洋を渡る事のできる大型の帆船は存在していたが、日本の勢力は持っていなかった。
昔から日本は、外国へ向かう時には外国の船を使うものだという認識があった。
そのため、国内で使う分には、安く、生産も整備も容易な和船が多く用いられていたのである。
そしてこの和船と南蛮や明で使われる船との大きな違いは、内部構造は勿論だが、帆にあった。
単純に言えば、和船は四角い一枚の帆が備えられていただけだった。この帆では、順風以外では進む事ができない。
海流の向きと風向きが、季節ごとにほぼ決まっている日本ならばそれでも大きな問題ではなかった。
逆風や横風、潮流に逆らう時には帆を畳んで人力で進むのが基本だった。
これに対し安祥軍は、長広の提案により風向きに依らずに進める船の研究開発が続けられていた。
主流だった莚帆から木綿布の帆に変え、飛行機の翼の形にヒントを得て(実際には鳥の翼に例えて説明したが)、表側は若干膨らませ、裏側は平らでつるりとした造りにした。
これにより、横風の場合、揚力を利用する事ができ、順風を受けた和船と比べても非常に高い速力を得る事ができた。
また、帆の固定を上と片側だけとし、帆に繋いだ縄を上下に動かす事で帆の形と向きを変え、逆風でも進むことができるようになっていた。
ちなみに逆風の場合の最大船速は、舳先を風上に対して右45度の方角に向け、帆の角度を風向きと平行になるように調整した場合に発生する。
この速度差を見誤り、定安は接近を許してしまったのだ。
横風ならば大した速度は出ない、という思い込みがあったのも大きい。
「ゆ、弓隊、放て!」
それでも定安は部隊に命令を出す。
陣太鼓が打ち鳴らされ、定安の乗船している船のみならず、周囲の船からも太鼓の音と共に矢が放たれた。
しかし、その矢は碌に当たらなかった。
ただでさえ不安定な船上では命中率は著しく下がるというのに、安祥軍は細い船体で舳先を大沢軍に向けている。
所謂前方投影面積が小さくなっているのだ。
「あの形状はなんだ!? 南蛮の船……? にしては小さいが……」
「て、敵船、速度変わらず突っ込んできます!」
「馬鹿な、このままではぶつかるぞ!」
高速で接近しての乗り込み。
定安はそう考えていたのだが、安祥軍は一切速度を落とさずに近付いて来ていた。
そして目の前に安祥軍の船が迫り、恐怖に水夫達が悲鳴を上げる中、定安は激しい揺れを感じると同時に、空中に放り出される感覚を覚えた。
「じ、状況確認!」
船の中央に拵えられた、指揮所の手摺に捕まって衝撃に備えていた伊丹雅勝が、そのままの姿勢で声を張り上げた。
すぐに陣太鼓が鳴らされ、それに呼応するように、他の安祥軍の船からも陣太鼓が聞こえて来た。
「大破なし、中破四、小破多数!」
「我が船はどうか!?」
「航行及び戦闘可能です。人員の被害に関しては現在確認中!」
今回用いられた安祥軍の船は、全て研究が終了し、開発が成功した竜骨船だった。
縦方向の衝撃に強い竜骨船だが、それと肋材、梁だけでは船で体当たりなどできない。
ぶつけられた側だけでなく、ぶつかった側にも甚大な被害が出るだろう。
ローマやギリシャのガレー船が体当たり攻撃を得意としていたのは、その船首水線下に突撃衝角を備えていたからだ。
ただし和船は喫水線がそもそも浅いので、この突撃衝角による体当たりが上手く決まらない可能性があった。
そのため安祥軍の船は、船首水線下から舳先にかけて鉄板を分厚い木の板で挟んだブレード状のものを備えていた。
これにより、相手の船腹を突き破る従来の形の突撃ではなく、側面を切り裂くような攻撃へと変貌し、凶悪さが増す事となった。
それでも安祥軍側の船も無傷とはいかなかった。
どうやら航行不能なほどの損傷を受けた船はいないようだが、それでも被害は甚大だ。
今回は速度と確実性が大事だというのでこの作戦を採用したが、二度とやるまい、と雅勝は心に決めた。
「敵船は!?」
「こちらの体当たりを受けた船は壊滅したようですな。被害を免れた船も遠巻きに見ておるだけのようです」
突然の、十隻を超える艦隊での突撃戦法により指揮艦を失えば、仕方ない反応だと言えた。
「火焔矢を射かけ、焙烙玉を投擲せよ。逃げる船は追わなくても良い」
「はっ」
雅勝が命令を下すと、伝令が走り、陣太鼓が打ち鳴らされる。
暫くして、艦隊の周囲で爆発が起こり始めた。
「突入は成功のようだな」
雅勝が見上げる先には、彼らの目標である堀江城が見えた。
距離にして五町程にまで近付いている。
「これ以上近付くと城からの反撃を受けてしまうな。西尾丸はどうか?」
「先程半島の岬を越えたばかりだと手旗伝達で知らせがありました。もう二刻ほどかかるでしょう」
西尾丸は西尾湊で建造された巨大帆船だ。
新型の竜骨船は勿論、従来の安宅船でもいまだまともに活用できない木製大筒を運用するために開発された大型船である。
船首に二門、船尾に一門、側面に四門ずつ。合計十一門もの大砲を同時に運用可能だった。
あくまで理論上の話だが。
これを用いて水上から堀江城を攻撃。
勿論、最初は威嚇射撃だ。これにより降伏を促すつもりだった。
また、そのような事実を知れば、浜名湖の周囲に築かれた城を居城にしている勢力は悉く降るだろうと思われた。
何せ、これまで自分達を守ってくれていた湖が、何の障害にもならなくなるのだ。
突然堀と城壁を失ったようなものである。
そのような城、簡単に落ちるだろう事は、誰にでも予想できた。
序盤が前回と少々被ってしまいました。
この時代の船や海戦に関しては色々と説があるようですので、拙作では本文のように設定させていただきます。
ご了承ください。
定安の結果は詳しく描写していませんが、「鎧兜を身に着けた者は助かりますまい」でどうなったかは察してください。