8
途中胸糞注意……念のため
「んっ……?」
「やぁ、目が覚めたかね」
意識が戻ったリックが初めて知覚したのは枯れたような野太い声だった。
薄っすらと目を開けて、今自分が薄暗い場所にいる事を把握。
そこで自分がどういう状況か、起きる直前に何があったのかを思い出す。
「ぐっ!?」
すぐさま腰に手を当て、大刀を確認しようとしたが、それができない事に気付いた。
(拘束されている……か)
まるで磔刑に処せられたように、両腕を大きく広げられた状態で両手両足を鎖のような頑丈な何かで何重にも縛られている。
(壁か何かに立てかけられた十字架みたいなものに拘束されているのか? 今すぐどうこうされる様子はないようだけど……)
リックは落ち着いて速やかに己の現状をチェックする。
大刀、無し。
両腕、両足共に力は……入らない。薬を一服盛られたのか、倦怠感がある。
服、スーツの上着は脱がされ、白シャツとズボン姿になっている。
場所、屋内。気配は目の前の一つのみ。窓があり、外はまだ夜。地下ではない。木々が見える。
音、耳を澄ますと外から葉擦れと虫の声がする。おそらくはまだ山の中だろう。
次に周囲を見て、夜目が利くリックはここが何かの作業場のようだと思った。
作業台のような大きなテーブル、ランプが不規則に点滅しているデスクトップパソコン、乱雑に積まれた厚紙のような紙束と薄っぺらいシールのような山。
カッターナイフ、机上に転がっている無数のペン、ストローの刺さった小瓶の群れ、イスの背もたれに掛けられたタオル、開かれたままの本。
部屋の隅にはぎっしり詰め込まれた本棚。
床には寝袋もある。
ログハウスのような木でできた室内は、妖怪の住処とは思えないほど人間の生活味に溢れていた。
「くっくっく。抵抗は無駄だ。いかな退魔術士といえど、マジックアイテムも無い上にしびれ薬を盛られ、多数の魔封じの札で拘束された状態では脱出できまい」
真正面から声が投げかけられる。
最後に改めて視線を前に向けると、目の前には非常に毛深い猿顔の小男がいた。いや、猿が人間の格好をしていた。
ラフな服を身に付け、チューインガムをくちゃくちゃと噛み、手首にはグランドセ○コーの腕時計を身に付けている。
「こんなキレイな顔をした女の子が手に入るとは……あんな事やこんな事、えっちぃ事がし放題だなぁ。げへへへへへ。たぁっぷり可愛がってやるぞ」
猿の視線がリックの全身を舐め回すように動く。
背筋に毛虫が這ったような嫌悪感を覚えるも、なんとか表には出さずにリックは気丈にも睨み返す。
「ほう! これはこれは、気が強い女子だなぁ。いいぞいいぞ。怯える顔も嗜虐心が満たされていいが、こういう凛々しい女の子――」
「オレは、男だ」
「――を屈服させるのも興が乗るというものだ! ……なに?」
饒舌に話していたエロ猿がピタリと止まる。
それからマジマジとリックを見て、鼻で笑った。
「ウソはいかんなぁ。ワシにはオスとメスの違いが鼻で一発で分かるのだよ。まがう事なき、キミは女の子だ。そうやってウソを付いて助かろうとでも思ったのかね? 残念だったなぁ……まぁ少し人間とは違うようだが……人間タイプなら一向にワシらは構わん!」
「……オレは、男……なんだ」
もう一度同じ言葉を繰り返したが、もう猿は取り合わなかった。
「さぁ、今どんな気持ちかね? 拘束され、薄暗い部屋に見知らぬ男と二人きり。これからキミに待ち受けるのは18歳未満禁止な事だ。ククク……さあ遠慮はいらん。感情の赴くままに叫ぶがいい。さあ、さあ、さあ!」
執拗に煽ってくる猿。
絶対的強者である事を確信し、目の前の少女の運命を握っているのは己だという事に酔いしれているのか、彼はひどく有頂天だった。
「お前は……何者だ。オレを連れていたはずの大きな兵主部はどうした」
「おっと、自己紹介が遅れたな。ワシはヤマコだよ。グリズリー・ショップという名で活動している」
「ヤマコ……お前が。女性を誘拐したのはお前か?」
「うん? 誘拐? ああ、彼女の事か。そうだとも。兵主部については、彼は友人でねぇ……こうして色々と協力してもらっているのさ」
「なるほど、グルか」
「同士と言ってくれたまえ。彼は日本全国の男達に夢を届けるお手伝いをしてもらっているのだ」
「夢……?」
「おっと。いかんいかん。無駄話はここまでだ。さあ! 邪魔者はいない。これからたぁっぷり二人の夜を楽しもうじゃないか。夜は長い、まずはビデオを回して……」
部屋の片隅から取り出してきたビデオカメラ。それを猿は慣れた手つきで電源ボタンを押し、録画を始めると撮影ポイントを何度か試行錯誤した後、ビデオカメラを固定した。
そしておもむろにリックに近づき、ニヤニヤと笑いながらその毛むくじゃらな指をゆっくり伸ばしてくる。
「くそ、くそっ」
リックはなんとかして拘束から逃れようとするが、無駄な抵抗でしかなかった。
なんとかしてここを脱出して、恐らくはここのどこかにいるであろう誘拐された女性を救出しなければならない。
もし別の場所に捕まっているのなら、この目の前のグリズリー・ショップとかいう猿か、或いはあの大きな兵主部から居場所を聞き出さなければならない。
だというのに、この現状では他人の救助どころか己の貞操すら危うい。
猿の毛深い指がリックの白Yシャツの胸元にかかり、一気に引き下ろされる。
Yシャツのボタンが次々に弾け飛び、柔肌が露になった。
縦一直線に開かれたそこからは胸元に巻きつけられた白いサラシと、十五歳の若々しい白い肌が見える。引き締まった少女の肌だ。
「……っ」
「ほう、悲鳴はあげんか。げへへ、その気丈さがどこまで持つかな……」
わずかに頬を紅潮させ、鼻の下を伸ばし、好色な目でリックの顔、胸、ヘソ、股間、太ももと舐め回すように何度も何度も往復する。
劣情を向けられたリックは思わず顔を顰めた。
「だが、この白い帯はいらんな。邪魔だ」
猿がサラシの上を滑らせるように軽く指を上下に動かす。
それだけで、リックの胸の肌に傷一つ付ける事なくサラシが断たれ、ハラリと解けた。
「これでよし。ふへへ、眼福眼福。実にいい眺めじゃぁないか。そう思わんかね」
リックは睨む。
睨む事しかできない。
「……」
腕に力を入れようとするが、やはりろくに動かない。
このまま自分はこの猿によって体を好き放題に蹂躙されてしまうのだろうか。
リックは元男だったから知っている。
猿の股間の膨らみの意味を。
それがじきに己の股の間に突き入れられるその瞬間を想像するだけで恐怖が込み上げてくる。
猿に無理矢理抱かれ、未知の痛みを味わい、己の体内に……
そして最悪孕まされてしまう未来。
男だと思っている自分が、こんな何者かも知れない目の前の猿の子を腹に宿すという、すぐにでも発狂したくなる未来。
「ぅ……ぅう……」
初めて、リックの目から涙が溢れた。
悔しかった。
ただ、悔しかった。
悔しくて、悔しくて、自分は男なのにどうしてこんな事に怯えなくてはならないのか。
どうしてこんな目に遭わなくてはならないのか。
「どうして……」
締まりの無い顔をした猿の手がリックの胸へと伸びる。
耐えられずリックは顔を背け、目を閉じた時。
プルルルルルルルル――!
「ぬっ、いかん!」
部屋の片隅から電話の着信音がしたかと思ったら、ヤマコはリックを放り出して慌てて電話に出ていた。
「あっ、すいません。イラストはもうちょっと待ってくれませんか? え? いえ、大丈夫! 大丈夫ですよ! 締め切りまでには必ず! 今、もうちょっとで神が降りてきそうなんです! はい、はい、任せてください! プログラムと音楽の方は……あ、もうほとんど完成。それは良かった。はい。ええ、そうですか、分かりました。でき次第するメールで送りますので。わざわざこんな夜更けにすいません。では」
ピッ。
「…………おい」
「さて、いつでも泣き叫んでいいぞ。どうせ誰も助けには来んがなぁ! ぐへへへへへ!」
「おい! 今のはなんだよ」
「さーあ、お待ちかねのエロタイムだ! しっかりワシを楽しませてくれよ、子猫ちゃん!」
あくまで電話前の空気で押し通すつもりのようだった。
半眼のリックをガン無視して今度こそ荒い息づかいと共に猿はガチャガチャと己のズボンのベルトを外そうとし――
「おらぁ――――――――ッッッ!!」
部屋の一方の壁が爆発したかのように吹き飛んだ。
「リック! どこだ! 無事かぁ!」
「その声、ハル!?」
室内の電灯が明滅し、崩れ落ちた壁の穴から現れたのはでっかい鶏に乗った晴義だった。その片手にはあの巨体の兵主部がぐったりとした様子で引きずられている。
「そこか! おい、服破けてるけど大丈夫か?」
「あ、ああ。ちょっと危なかったけど、無事だよ」
「おし、なら良し。話は大体こいつから聞きだした」
ぐいっとボロ雑巾になって気絶している巨体の兵主部を持ち上げて晴義がギロリと睨む。
その先には頭を抱えているヤマコがいた。彼の前には部屋を揺るがした振動で勢いよく横倒しになって電源が落ちたパソコンがある。
「ああああ……データが……イラストが……まだ保存してなかったのになんてことを……」
「うるせえ」
晴義は偽・風伯鞭を猿に向けながら慎重に小屋の中を進み、リックを拘束から解放していった。
「どこも悪くはなさそうだな」
「ああ。ヘマして悪かった。しかも捕まるなんて……」
「わはは。いーってことよ! それでだな、こいつらなんだが……」
話すかたわら、晴義が道服の懐から取り出した縄をポイっと空中に放る。
宝貝『断識縄』。
それは勝手に動き、コッソリ逃げようとしていた猿目掛けて飛び掛り、グルグルと巻きついた。
「なっ、なんだこれ――……」
途端、猿はバタリと倒れて動かなくなった。
断識縄は捕らえた相手の五感を奪い、最後に意識を奪う捕獲専用の宝貝だ。一般人や魔法を防ぐ術を持たない相手にはこれ一つで行動不能にする事ができる。
「こいつら、ドージン? って商売をネットでやってるらしくてな、なんでもエロいゲーム作って大儲けしていたらしい」
「は? なにそれ」
「よくわからんが、ネット上のDなんとかっていうサイトでそのゲームを販売していてだな、それで○万回ダウンロードされたゲームをいくつか作ったとか言って、滅茶苦茶な額稼いでやがった」
成人女性ほどの体格の猿と2mを超える筋肉ムキムキの兵主部二体を霊獣・青眼睛鶏にくくりつけ、引きずりながら晴義が移動を始める。リックも服の前を結んでから近くにあった上着を羽織り、その後ろに続いた。
「で、その儲けた金で催涙スプレーとかガスマスクとかスタンガンとかモデルガンとか色々買い込んでいたらしい」
外に出る。
少し離れた場所にもう一つコテージがあり、中に入ると部屋の中のハンモックでぐーかぐーか安眠している女性が一人。
誘拐された女性だった。
上下ジャージ姿で傷一つなく、至って健康そのもの。
端っこのゴミ袋の中にはブランド牛の空パックがいくつも詰め込まれ、ビールの空き缶が散乱し、焼肉の残り香が漂っていた。
「うーん……くっちゃ寝生活サイコー……」
女性の寝言である。
人の心配も露知らず、たまらずリックは脱力してしまった。
「お前やこの女性を攫ったのは、ゲーム作りの一環、リアリティの追及だとさ。ゲームが完成したら解放するつもりだったらしく、なんか三次元はクソ、二次元こそ至高とかよく分からん事を熱く抜かしやがってたけど、とりあえずきっちりシメといた」
こうして事件は一応の解決をみた。
★★★☆☆☆
エロ同人ゲームのイラスト担当のヤマコ、及びそのファンである兵主部らは即日警察に引き渡された。
警察には妖怪専門の窓口があるため、そこに連絡すると連中を引き取ってくれたのだ。
退魔術師の業界では関係者が一般人を傷つける事を御法度としている。一般人を誘拐した彼らには、処刑も視野に入れた処分が検討される事だろう。
なお同人ゲームの他のメンバーはイラスト担当が妖怪などとは夢にも思っていなかった。連絡やデータのやり取りは全てメールや電話などを介して行っており、完全な覆面イラストレーターとして活動していた。
そのため、彼らは自分らのイラスト担当がスランプの果てに女性を誘拐して警察に捕まった事を知ると阿鼻叫喚となっていた。
既に同人ゲームの告知サイト上では発売中止のお知らせがアップされ、マスターアップを期待していた日本全国のユーザーらはやり場のない怒りと悲しみを別のゲームで発散する事になった。
今回作成していたゲームのヒロインがサキュバスだったのは、一体何の因果だったのやら。最近小さくブームが来ているらしい、サキュバスの。
女性は無事、家へ帰ることができた。
家族の前では心細そうに小さく震え、目に涙を湛えながらの家族との感動の再開を果たしていた。
女性は大なり小なり皆女優である。
そして。
「おーい、リックー、入るぞー」
ドンドンガチャ。
晴義が部屋のドアを開けると、カーテンで閉め切られた室内には明かり一つ点いていなかった。
「うわ、暗っ!」
「ハルか……」
「今クリスが帰ってきて……って、お前学校から帰ってまだ制服着替えてなかったのか。何そんなベッドの上で膝抱えてんだよ」
「あぁ……そう」
いまいち反応の鈍いリックに、晴義はドアを閉めてベッドまで歩み寄った。
「今日一日ずっと塞ぎこみがちだったけど、なんだ、そんなにあのでっかい兵主部に遅れをとったのがショックだったのか?」
「違う……」
「んじゃ、何だよ? クリスにすっげえ心配された事で気にしてんのか?」
「違う……」
「んー、備前小反秀光の大刀はちゃんと回収しておいたし、あ、昨夜の一戦で歪みでもできてたとか?」
「違う……」
「じゃあ、うーん……前に届いた新しい戦闘用スーツが気に入らないとか?」
「違う……」
「じゃあー……うーん、分っかんねぇなぁ……何なんだよ。何をそんなに気にしてるんだよ」
リックの膝を抱える手に力が篭った。
「もう………………イヤだ」
「ん?」
「もうイヤだ!」
「おお?」
それは人当たりの良い優秀なリックの、珍しい怒声だった。
「オレは! オレは男だぞ! なのに、なんでこんな目にばっかり遭わなきゃならないんだ!!」
暗闇の中、見上げる夢魔のアンバーの瞳が雫を湛えながら、怒りの炎で燃え盛っていた。
「高校では男子達にエロい目で見られ続け! オレの女の体目当てで寄って来る男どもは後を絶たず! 中には体に触らせろと要求してくる奴もいる! 物陰からチラチラ見てくる男子はずっといるし、それどころかストーカーみたいに後をつけてくる奴だっている! オマケに体育から戻ってきたら時々筆記用具が無くなっているわ、他にも五時間目の体育の後に教室に戻ってくれば弁当の箸が無くなっていた事だってあった! 市街に出ればろくでもない連中に声をかけられ! 夕暮れに一人普通に歩いているとサングラスにコート姿のハゲたオッサンが辻で待ち伏せしてて! あげくにはだぞ!? 昨夜はあの猿に犯されそうになった! ふざけんな! なんでオレが男にヤられなきゃならないんだ!! くそったれ!!」
「……」
少女となった親友のその激白を晴義は黙って受け止めていた。
やがて胸の内を全て吐き出し終えたのか、息を荒げたリックは立てた膝に額を押し付け、悔しそうに一度だけ泣いた。
「オレは……男なんだぞ……男なのに……」
弱りきった親友を前に、晴義は真剣な面持ちで片膝を立てて屈み込む。
そしてリックの肩に手を置いて力強く宣言した。
「ああ、お前は男だ」
「…………ハル……?」
突然の肯定に戸惑いと怯えが混じった顔で晴義を見た。
リック自身、自分が既に女であると理解はしているのだ。そして受け入れなければならないとも思っている。ただまだ心が、感情がついていかないだけで。
そして周り全てもまた、自分が女である事を否定させてくれない。当然だ、体は既に女性のそれなのだから。
だから、晴義の力強い肯定の言葉にうろたえ、混乱した。
だが晴義はそんなリックに構わず、真正面から向き合って言う。
「お前は男でありたいんだろ。女の体であっても、心は男でいたいんだろ」
「あ、あぁ……」
「なら他の誰がお前の事を女と言おうが、俺はお前を男だと言おう。俺はお前をこれまで通り男としてやっていく。俺だけはお前が今も男だって知ってる。そしてこれからもそうだ」
「ハル……」
「だからな、そんなにしょげるなよ親友。あんまり力にはなれないかもしれねーけど、俺はお前の味方だぜ。愚痴だっていくらでも聞いてやれるし、しつこく追い掛け回してくる奴らは俺が全部ぶっ飛ばしてやる! 外面のいいイケメンのお前だとこういう荒っぽいマネはそうそうできっこねーだろうしな!」
「……ありがとう、ハル」
「当然だろ」
晴義は笑う。
リックはその至近距離の笑顔を前に、込み上げてくる嬉しさと共に顔に熱を感じて思わず俯いてしまった。
親友の眩しい笑顔を、どうにも気恥ずかしくなって真っ直ぐ見れなかった。
「……じゃあ、今後ともよろしくな、親友!」
「おう、親友!」
拳を突き合わせ、親友同士の二人はまた以前と同じような明るさを取り戻して笑いあった。
一方。
「…………」
ドア一枚を隔てた廊下、そこにはクリスが気配を殺して立っていた。
姉の珍しい大声を聞いて二階に上がり、ドアをノックしようとした直前のポーズのまま、彼女は静止していた。
晴義とリックにとってクリスは大事な妹分だ。同じ家で暮らす家族だ。
だから別に気配を殺す必要などない。
必要などないはずなのに……中の二人に用事があって来たはずなのに、クリスは気配を殺したままそっとその場を離れていった。
「………………………………………………………………」
部屋の中の二人は、ついにそれを知ることはなかった。
★★★★★★
それから約10分後、リックは一人部屋にいた。
リックはまだ制服のセーラー服姿から着替えもせず、小さく浮かれた気分でベッドに腰掛けている。
「まったくあの熱血バカめ……あんなセリフを堂々と言うなんて……ははっ」
リックは上機嫌だった。
まださっきの余韻が体を包み、高揚している。
心が、温かかった。
たった一人だけでも自分が男として認められている事の喜びを噛み締めていた。
「親友……か。ふふ」
晴義が口にした親友という言葉。
堂々と面と向かって言われると少し気恥ずかしい気持ちになるが、それはなんとも心強い響きだった。
「……ん?」
気のせいか、親友と呟いた瞬間に胸にかすかな違和感を覚えるも、すぐに消えてしまい、それが一体なんだったのか分からない。
「んんー、なんだろう。なんか少し引っかかるな。こう、喉まででかかってる感じ……なんだ?」
正体不明な己の心を探り当てようと唸り始めた時、不意にドアがノックされた。
「姉さん、ボクだけど」
「ああ、クリスか。どうした?」
ドアを開けて中学校のセーラー服姿のクリスが部屋に入ってくる。
「うん……あのね」
おや、とリックは思った。
いつものおどおどとした様子が少しなりを潜めていたのだ。
声からもいつもの遠慮がちなものはなく、ハッキリとしてどこか力強さを感じる。そう、まるで何か決意を秘めたような――
「ボクね、ボクもねハル兄さんの言った事に賛成するよ」
(あ、そういう事か)
リックはそこでクリスのいつもと違う空気の理由を察した。
「なんだ、聞いてたのかクリス。まああいつの大きな声じゃ聞こえてもしょうがないかな。なんだ、わざわざそれを言いに来てくれたのか?」
クリスは小さく頷く。
それにリックは「恥ずかしい所を聞かれたな」と苦笑いをする。
そして顔を上げた時、クリスが目と鼻の先にいた。
「え……」
リックは呆気にとられた。
いつも愛らしい妹に対する油断か、浮ついた気分からの間隙を突かれたのか。
剣士として、懐に入られた事にまったく気がつかなかったのだ。
そんなリックの混乱と驚愕をお構いなしにクリスはガッシリと姉の手を両手で掴み、握り締めた。
そこには有無を言わせぬ何かがあった。
「兄さんは男として生きたいんだよね。ボクもそれに協力させて欲しいんだ」
「あ、ああ。ありがとう」
クリスの目は純真だった。
それは大事な人の事を考え、慮っている目と声だった。
「兄さんは男の人と付き合うなんて嫌だよね。兄さんの心は男の人のままだから、普通に考えて男の人とキスしたり、抱き合ったりするのって気持ち悪いよね」
「う、うん。そうだな」
リックは内心、珍しく積極的なクリスに少し気圧されていた。いつもと何か違うものを感じ取るが、それが何なのか分からない。
片やクリスは、リックが頷いた事にパッと顔を輝かせ、笑顔になった。
「だよね! それが当然の事だよね! 大丈夫だよ、兄さんは間違ってなんかない。それが正常なんだから。だから男の人を好きになんかなるわけないもんね」
何故かこれでもかというくらい念押ししてくるクリスに、リックは知らず知らずの内にベッドの上で後退っていた。
「そ、そうだな。勿論ならないさ」
「うんっ。ボクはそんな兄さんの力になるよ。何か困った事があったら言ってね! ハル兄さんには相談できないような事でも、ボクなら話を聞ける事ってあると思うんだ」
そしてリックが下がれば下がった分だけ、クリスが更に前へと詰めてくる。
「あ、ありがとうな。その気持ちだけで十分嬉しいよ、クリス」
「……大事な兄さんだもん。当然だよ」
息がかかる距離でとても愛らしく微笑むクリスは正に天使のようだった。
少しの間、姉妹は真正面から目と目を合わせ、見詰め合う。
先に視線を外したのはクリスだった。
「用件はそれだけ。ごめんね、兄さん。急に押しかけてきちゃって」
「いや、まあちょっと驚いたけれど、こんな事になったオレを心配して来てくれたんだろ。なら怒る事じゃないさ」
「……うん」
そしてクリスは姉の手を離し、スカートを気にしながら楚々と背を向ける。
「ねえ……兄さん……………… 約 束 だ よ 」
パタン。
最後に何かを呟いたようだが、常人よりはるかに耳のいいリックでも聞き逃してしまった。
その呟きを残してクリスは部屋を出て行った。
「ぷはっ……ふう。クリスのやつ、何かちょっと様子が変だったな……ん?」
そこで初めてリックは気付いた。
「あれ、何か汗が……うわ、いつの間にか全身に汗かいてた。なんでだ、別に暑くもないのに……」
じっとり汗ばんだ手を見ながら、リックは首を傾げていた。
汗は冷たく、心臓は普段より速く鼓動を刻んでいた。
それがどうしてなのか、リックには分からなかった。
終われ
ジャンルをホラーにするか迷った作品。
なお、これ以後はモヤモヤリックと怒涛の攻勢をかけるクリスと何も分かっていない晴義の三角関係が繰り広げられる模様。
それからリックは変わった。
女体化後どこか硬かった雰囲気が柔らかくなり、少しずつクラスメイトにその存在を受け入れられていった。
高校生活を過ごす内に計りかねていた距離感も、互いに最適な距離を探りながら徐々に適切なものを見つけていく。
それに従って、いつしかリックは女子と行動する事も増え、着替えも女子と一緒にするようになり、談笑する姿も見るようになっていった。
一年をかけて、リックはゆっくりとクラスメイト達に、学校全体に馴染んでいった。
そして二年に上がる頃にはもう、すっかりと自然体で女子生徒として溶け込んだリックの姿があった。
よく親友、悪友として晴義とつるんでおり、その隣にいる事が多く、周囲からは美女と野獣として評判の二人だった。
無論、相当数の生徒が二人の仲は彼氏彼女のものではないかと噂していたが、二人はそれを公式に否定。
あくまで親友だという立場を貫いていた。
「ぐあああああ! またフられた! 何故だ!」
「あらら。ドンマイ、ハル。五人目玉砕記念に今日はカラオケにでも寄って帰るか」
「ぬかせ、ちくしょー!」
何気兼ねする事なく気軽につるめ、居心地のいい親友というポジション。
二人は楽しく学園生活を送っていた。
――――――だが。
「以上を持ちまして、私達新入生の誓いの言葉とさせて頂きます」
春が来て、晴義とリックは二年に上がった。
そして新入生が入ってくる。
その中に、二人の妹分であるクリスの姿があった。
元々は三人の中で一番頭のいい彼女は新入生の代表として答辞を務めていた。
日本人離れしたその姿、小さく可愛らしい金髪美少女が壇上で堂々とスピーチする姿は早速皆の印象に強く刻み込まれる事となる。
「テレビとか写真の中でしか見た事ないレベルの女の子がいたよ……」
「なんでもあの子、セドリックさんの妹さんだってよ。姓が一緒だ」
「ええ、マジかよ。姉妹であのレベルとか……すげー」
状況が変わる。
「兄さん!」
二年生の教室前。ただでさえ目立つ一年生で、しかも金髪碧眼の小柄な美少女。
それが人目も憚らず、クリスは晴義に駆け寄り、腕を抱き寄せる。
はにかむように笑いかけるその姿。
それは周囲に大きなどよめきを生み出した。
「これからよろしくお願いします、リック姉さん、そして晴義先輩」
「おー! よしよし何かあったらこの先輩兄貴に頼れよー!」
「ああ……」
それからも他人の目を気にせず、子犬のように晴義に懐き、慕い、駆け寄っていくクリス。
隙あらば晴義の傍にいる彼女の姿は、学校でも有名になりつつあった。
そんな晴義とクリスの姿を見て戸惑う自分を自覚し、動揺するリック。
そしてそんな二人を見るたびに、少し落ち込む自分に気のせいだと言い聞かせる日々。
晴義は二人の気持ちを華麗にスルー。というか気付いていない。
いつものようにバカ笑いしながら親友と妹分とじゃれ合っていた。
三人の不協和音は小さく、しかしハッキリと響き始める。
青春の高校生活が、始まる――
ウソです。
始まりません。