7
夕暮れの東城家の庭でシャツとズボンの少女が一人、真剣を片手に難しい顔をしていた。
彼女は張り詰めた空気のまま、大刀を上段に構え――振り下ろす。
極々小さな空を切る音。空に浮かんでいた数枚の花びらが全て二つに断たれ、思い出したように大刀の巻き起こした気流に吹き飛ばされていった。
花びらという、小さく軽い物を空中で斬る。
それは相当な腕前を要求される技術だった。
「……やっぱり本調子じゃないな」
少女――リックは納刀後、肩の力を抜いて苦々しい顔でそう一人ごちた。
(体が変わった事で、体の動かし方に微妙な誤差がでている。以前までの精密さを取り戻すにはまだもう少し調整が必要か)
手足の長さや体重などが変わった事で、太刀裁きに影響がでていたのだ。
そしてまたリックは真剣を振り始めた。
今度は様々な角度から斬撃を繰り出し、或いは技の型を確かめていく、
より本来の動きを取り戻すために。
体の重心を覚え、足運びを繰り返し、間合いを把握する。
女体化した後に初めて大刀を手に取った時、十分程度扱うだけでほとんどの誤差は修正済みだった。今はより微細な誤差、感覚を取り戻しているところだった。
(今夜から依頼で数回山に入るからな……回されてきた調査結果を読んだけれど、久しぶりの実戦になるかもしれない、なるべく勘を取り戻しておかないと)
次第に勢いとキレの増す大刀は、ヘリコプターのプロペラのようにいくつもの残像を残し、その風圧は庭にいくつもの暴風を巻き起こしていた。
「……しかし、どうしても胸に違和感が……中々慣れない。困ったな」
大刀を止めたリックはうんざりした顔で自らのシャツに視線を落とす。
程よく火照った体は汗ばみ、唯一着ているシャツが体に張り付き、少女の瑞々しい肢体を露にしている。ライトブラウンの髪からはわずかに汗の雫が滴り落ち、アンバーの瞳は憂いを帯びていた。
胸とは無論、男には無かった膨らみの事だ。
学校や外に行っている間はサラシを巻いているが、どうしても窮屈なので居候している家ではそのままにしているのだ。
故に今の彼女は珍しく、シャツを下から押し上げる二つの小山がその存在をしっかりアピールしていた。
「帰ったぞー」
「ただいま」
門の方から声が二つ。
「お。ハルと……クリスも一緒か? あいつおばさんと二人で買い物行ってたんじゃなかったのか?」
果たして、GパンにTシャツ姿の晴義と、レースブラウスとフリルスカートの可愛らしいお嬢様スタイルのクリスが庭先に現れた。二人とも手に買い物袋を引っさげている。
「よっ、やってるな」
「ただいま、姉さん」
「おかえり。クリス、ハル。ハルは近くの龍穴に瞑想しに行くって、後二時間は戻らないんじゃ?」
龍穴とは、大地の下に流れる気の噴出地の事である。大小複数箇所存在し、野生動物や妖怪なども立ち寄るパワースポット。ここで気を浴び続けると、一時的に魔力が活性化し、退魔術の威力などが向上するパワーアップするのだ。
これを始めとした様々な効果があるため、大きな神社や城などは大きな龍穴の上に建てられていたりする。
「ああそれな、今日は先客がいたから諦めた」
「先客?」
「猫又の嬢ちゃん。隣に座ろうとしたら、尻尾で往復ビンタされたあげく睨まれたぜ」
猫又とは年を経るなどして魔力を持ち、尻尾が二つに裂かれている猫の妖怪だ。
「ああ……なら仕方ないな。あの方、無理矢理どかすと引っ掻いてくるしな。というか……引っ掻かれたんだな」
「おう。なら抱っこして一緒に浴びようとしたら、顔をバリっとやられた。わはは」
晴義が頬を触る。そこには赤い線が一本走っていた。
今夜の活動に備えての事だったが、生憎とその龍穴近辺を縄張りとする猫又嬢に追い返された晴義だった。
なおこの猫又、齢千年の大妖怪である。人に化けた時は小さな少女の姿だが、なんでも平安時代の初めての飼い主の姿らしい。
「それで、帰る途中でクリスとおばさんに捕まったのか?」
「おう。訓練がてらに風遁の術で隠れて風に乗ってた俺を気配だけで見つけ出しやがった。俺の術もまだまだだな」
「……あぁうん、そう」
晴義の話を聞いたリックの瞳からは光沢が消えていた。
一方晴義の後ろのクリスは、見つけ出せたのが自慢なのかちょっと鼻が高そうだった。
「それよりハル、時間空いたのなら課題のプリントを夕食までに一気に済ませるぞ。オレももう訓練を切り上げるから、オレがシャワー浴びてる間に準備しておけよ。勉強見てやる」
「えぇ? 俺、これから苦手な光遁の術の訓練しようと思ってたんだがなぁ……」
「依頼終わった後の深夜に眠気と戦いながらやりたいのか? 学校始まってすっぽかすなんてもっての外だ。すぐ授業についていけなくなるぞ。ほら、早く行った行った」
「ちぇー。じゃ、クリス、行ってくるわ」
「はい、頑張ってねハル兄さん」
「お前もな。今夜は博多でスナイパーの会合があるんだろ」
「うん……今回依頼に一緒に行けなくてゴメンなさい」
「なーに、依頼の調査報告書を見たが、今回の相手はD級、悪くてもC級だろ。俺とリックの二人で十分だ。B級でもない限りそうそう遅れはとらねーよ。わはは!」
胸を張って自信たっぷりな晴義。
それを後ろ背に聞いていたリックは、バカに付ける薬はないとばかりに空を仰いだ。
だが思い直したように一度ため息を吐いて。
「けれどまあ実際九州の、いや西日本の十代の若手の中だとオレ達がトップクラスなのは事実だしな。ハルもブレーキを誤らなければ強いんだよなぁ……一旦ノるとオレでも止められないし」
今まさに調子に乗って風遁を使い空中でクルクル回って踊っている晴義を背に、リックは庭石の上から書類を手に取る。それは依頼人からの内容をまとめ、一次調査員を派遣した結果の報告書だ。
昨日既に目を通しているので、要点だけを再チェックする。
その報告書にはある妖怪の名が挙げられていた。
「ヤマコ、か」
☆☆☆★★★
ヤマコ。
それは山に住む年老いた猿の妖怪だ。
体長は成人男性よりやや低く、腹以外が毛で覆われている。
彼らはオスのみでメスがおらず、人間の女性を攫って子を産ませるという特徴を持つ。
そんな人間にとって害悪な妖怪だ。
そういうわけで今回の事件の被害者は無論女性であり、車で山道のドライブを楽しんでいた若い男女のグループの一人だった。
彼らは裕福な家庭のコミュニティからできたグループで、今回も軽いイベント気分でで集まっていた。
そして山奥の渓谷でたっぷり自然を満喫した後、車に戻ろうと山を下りる途中だった。最後尾にいた女性が突然小さい悲鳴をあげ、振り返るといなくなっていたのだ。
近くに流れていた川に落ちた音もなく、どこかで転んだわけでもない。声だけを残して失踪。
グループの皆が慌てて探すも見つからず、下山して警察沙汰になった後、グループの一人が親のツテで民間の退魔術士にも声をかけたというわけだ。
すっかり夜も更け、人里の明かりも喧騒もない静寂の中、晴義とリックの二人は霊獣・青眼睛鶏に乗って山を直線で駆け上っていた。
青い瞳をしたでっかい鶏のような霊獣は悪路も急な傾斜もものともせず、もの凄いスピードで二人を現地まで運んで行く。
「さて、依頼人が事件にあったっていうのはこの辺りか……よっと」
リックが一人、青眼睛鶏から降りる。彼女は軽やかな音を立てて着地した。
地面に降り立った彼女は、真新しい女性用スーツに身を包んでいた。スカートではなくパンツスタイルである。以前までのはさすがにサイズが合わず、リックが慌てて注文したら店がそのまま女性用としてスーツを仕立て上げ、納品してくれたのだ。
てっきり以前の男性用改造スーツがサイズを変えて新しく手元に届くと思い込んでいたリックは、女性用の現品を前にがっくり両手両膝を付いて落ち込んでいた。
リック痛恨の注文ミスである。
「山中の遊歩道の横を流れる川……確かにここだな。案内板もある。んじゃ油断すんなよ、リック」
「当たり前だ。忌々しいことに、本当にヤマコだったら真っ先に狙われるのはオレだろうからな」
不機嫌そうに吐き捨てるサキュバスの美少女、リック。
「ヤマコならその習性から言って女性はまだ生きてはいるだろうし」
「急いで見つけねーとだな」
「ああ」
リックが腰に下げた大刀を抜き放ち、晴義もまた青眼睛鶏の上で偽・風伯鞭を握る。
臨戦態勢の二人が渓谷に足を踏み入れる。
ザワリ、と山が大きく波打った。
山に巣食う魑魅魍魎、それらが怯え、震えるように。或いは牙を剥き出しにした猛獣が外敵に敵意を向けるように。
チリチリとした殺意が山を満たし始める。
そしてそれらの反応を意にも介さず歩を進める晴義とリック。
依頼の初日、夜の捜索が始まった。
「卦だとこっちの方角か……この山は結構広いからな。対象を素通りしないようにしねーとな」
足元もろくに見えない中二人は妖怪の気配を探りながら生い茂った草花を掻き分けて手がかりを探す。
宙に浮かぶ動物の頭蓋骨、おそらくキツネのものと思われるそれが、空洞の眼窩にほの昏い炎を宿してさ迷っている。それらは晴義とリックが『視える』と分かった途端、ガチガチと歯を打ち鳴らして蛇行しながら飛来してきた。
だが二人は足を止めない。
「ふっ」
気負いも力みもなく、一瞬の早業。
頭蓋骨は呆気なく両断され、霧のように消えていった。
リックは結果をチラリと一瞥だけしてまた正面を向く。一度大刀を持ち上げて刀身を見た後、青眼睛鶏にくくり付けている荷物からドリンクのようなビンを取り出した。中身を大刀に振り掛けると、わずかに清浄な気配が大刀を包む。
聖水だ。
不浄を祓う聖気の付与の効果がある。
一応神社が卸している正規品ではあるが、あくまで大量生産品にすぎない安物であるため効果はさほど高くない。
学生アルバイターにはまだローマ印や伊勢印のブランド物は高嶺の花なのだ。
だがリックの高校生離れした退魔術士の腕なら、低級霊ごときこれでお釣りがくるほどに十分にすぎた。
「低級霊がそこそこいるな。もういっそ俺の青眼睛鶏で散らすか?」
「コケ?」
鶏の鳴き声は退魔の力が宿っている。青眼睛鶏のそれは、最下級の妖怪であれば一発で追い払う事も可能だ。
鳴く? 鳴けばいいの? とばかりに首を傾げる霊獣だったが。
「いや、鳴き声は広範囲に渡るからな。下手すると目標の妖怪を刺激して、逃げられる可能性がある。大体の方角の当たりはついているんだ。このまま周囲の妖怪の気配を探りながら進むぞ」
「へーい」
そんなこんなで山中行軍を始めて三時間が経過し、そろそろ休憩を挟むかといった時だった。
「――リック」
「ああ。何かいるな。少なくともそこらの動物霊とは別格の妖怪が」
「上だ!」
素早く晴義が手綱を操り、主の意を受けた青眼睛鶏がバックステップをする。
続けてすかさずリックは前に跳んだ。
咄嗟に挟み撃ちにする腹積もりだった。
二人の中間地点に見上げる程に大きな何かが重々しい音と揺れと共に着地する。
「なんだ……こいつ」
「ヤマコ、なのか?」
「いや、違う! こいつは体中が毛むくじゃらだが頭がハゲている……兵主部か!?」
現れたのは丸太を持った、人型をしたハゲ頭の妖怪だった。
河童の一種であり、身軽な身のこなしで風のように山を飛び回る。
本来は人間大の大きさのはずであるが、目の前の固体は2mを優に上回る巨体であった。突然変異か、或いは成長に恵まれたのか。
種としてはD~C級の下級妖怪に位置するのだが、目の前のその威圧感は確実にメジャー妖怪レベルなC級の上位に届くものだった。
「ハル、周り! 次々来てるぞ! 囲まれる!」
「チッ」
更に複数の妖怪の気配が急接近して来る。
囲むように周囲の木の上に現れたのは目の前の妖怪と同じ兵主部だった。ただ彼らは一様に一般的な160cm程度の兵主部であり、やはり地上の兵主部が別格なのが窺い知れる。
どうやら地上の兵主部が樹上の群れを統率しているらしく、木々の葉に隠れながら樹上の兵主部は地上の兵主部を伺っている。その数、およそ20。
暗闇の中、どこそこから爛々と輝く瞳が覗いている。
「一旦退くぞリック! この数、この雰囲気、なんかヤベエ!」
「兵主部がこんな数で群れるなんて聞いた事ないぞ!?」
2m超の異常な固体と、異常な群れの数。
通常であれば兵主部の20体や30体、襲われたところでやられる二人ではないが、巨体の兵主部という未知の存在が二人に一時撤退を選ばせた。
だがわずかに遅い。
「ヒョーーー!」
巨体の兵主部が数回鼻を鳴らした後、甲高い声で鳴いた。同時に彼は二人の逃げ道を塞ぐように素早く回り込んでくる。
鳴き声の直後、樹上の兵主部らが後ろ手に隠し持っていたスプレー缶のようなものを一斉に放り投げてきた。
空中のスプレー缶から音と共に勢いよく煙のようなものが噴出する。
その量は凄まじく、一面モヤで覆い尽くされてしまった。
「疾っ!」
咄嗟に晴義が偽・風伯鞭を掲げ、風の渦の防壁を張って煙から己らの身を守る。
「なっ……これ、催涙ガスか!? こいつら、ただの妖怪じゃないぞ!」
夜目が利くリックが目ざとく見つけたのは浮き上がったとある空のスプレー缶。そこにはデカデカと『防犯用催涙スプレー』と日本語で書いてあったのだ。
次の瞬間、体当たりで風の防壁を突破してきた巨体の兵主部が勢いのまま飛び掛ってきた。
そいつはいつの間にかガスマスクを着用していた。そしてリックを間合いに捉えると同時に両手で持った丸太をフルスイングする。
「リック!」
「っと」
リックは腕利きだ。それも頭にとびきりの付く。
即座に半身になり、リズムを合わせて大刀を振るう。大刀は丸太を容易く両断した。
閃光の如く、返す刀で二の太刀を打ち込もうとした時。
「!?」
巨体の兵主部は止まらなかった。
使い物にならなくなった丸太を放し、そのままその豪腕で殴りかかってきたのだ。
もはや大刀を止められないリックは、せめて先に一撃入れる事で相手の勢いを殺そうとする。
が。
斬りつけは浅く、逆に巨体の兵主部の拳がリックの腹を深く抉る様に突き刺さった。
あまりの衝撃にリックの体は宙に浮き、薄っすらと漂う催涙ガスの中に吹き飛ばされる。
「しまっ……間合いを、誤った……ぐっ」
変わってしまった肉体。手足の長さ。筋力。
咄嗟の事に、反射的に男だった頃の癖が出てしまい、ベストの間合いと重心が狂ってしまった。
その結果、リックの一撃は威力が乗り切らないポイントで当たってしまう。
そして逆に痛恨の一撃をもらう事になったわけだ。
「リック!? このヤロ!」
すかさず晴義が偽・風伯鞭を振りかざしてリックのフォローに入ろうとするも、間髪入れずに邪魔が入る。
「なっ、こいつら!」
樹上にいた兵主部らが一斉に晴義へ圧殺せんとばかりに踊りかかってきた。
元々低級であるD級の妖怪なので晴義の敵ではない。偽・風伯鞭が巻き起こす激しい気流に巻き込まれて次々に地面に叩き落されていく。
群がる敵を歯牙にもかけず、晴義は青眼睛鶏を繰ってダウンしているリックの元へと駆けつけようとした。
だが群がった兵主部らが稼いだわずかな時間で、巨体の兵主部が先にリックを追撃する。
「――か、はっ」
鉄棒すら捻じ曲げる握力で首を掴まれ、宙吊りにされる。
リックもまた剛体による身体強化で耐えていたが、それ以上の力で締め上げられ、徐々に酸欠になっていく。
空中で溺れていく中、リックは自分が持ち上げられたままどこかに連れ去られて行くのを感じる。
そして最後に見たのは、走るように流れる風景と、遠くなっていく後方で怒涛の竜巻が突如発生し、周りの木々ごと兵主部を天上へと巻き上げていく光景だった。