第一話 presto
昼休み、弥生は図書室に居た。
以前見つけた面白そうな本を手にとっていつもの席に座る。
この図書室は、蔵書数は眼を瞠るほどあるというのに、ほとんど生徒に使われないという実に残念な場所である。政治、経済、文学、エッセイ・・・。幅広いジャンルで豊富な種類の本が所狭しと並べてある景色はいっそ感嘆するほどだ。入学してから卒業するまで毎日通っても読み切れないだろう。
弥生が今読んでいるのは推理小説の本だ。
このジャンルの本は自分でも犯人を推理したりと頭を使うのでたまにしか読まないが、暇つぶしにはもってこいの本だ。
「弥生、こんなところに居たのね」
「ん・・・あぁ、伽凛。どうかしたの?」
読むのを止めて顔を上げれば、芸能科の伽凛が目の前に立っていた。
「どうかしたの、じゃないわよ。今の校内は弥生の噂で持ちきりなのに・・・・・・その様子じゃ何も知らなさそうね」
「・・・・・・知らないって何が?」
伽凛の言っている意味が分からず首を傾げると、彼女は大げさに溜息を吐いてみせた。
「弥生・・・今、音楽科に一条優っていうピアニストが来てるのは知ってるわよね」
「それはまあ・・・でも、普通科の私には関係ないことでしょう?」
学科同士の接点などほとんど無いに等しいのに、何故その名前が出てくるというのだ。
「それがあるのよ」
「・・・は?」
伽凛の言葉に弥生は間の抜けた声を出す。とはいっても、顔は無表情なのだから端から見ればさして驚いていないように見えるだろう。
けれど、長い付き合いの伽凛には弥生が十分に驚いているのが分かる。無表情に見える顔も微かにだが眉間に皺が寄っている。
「一条さんがね、今度の学園祭のコンクールで自分の伴奏で生徒に歌ってもらうのを了承したらしいのよ」
その言葉で頭の中に一つの答えが導き出される。だが、それは弥生にとって認めたくないものだった。
「で、条件として相手は一条さんが選ぶっていうことで話はついたんだけど」
「・・・その先は聞きたくない」
無理やり話を切って頭を抱える。パニックになってもおかしくない状況なのに、冴え渡っている自分の頭が恨めしい。
「その一条さんが後日――というか今日の朝、先生たちに相手の生徒の名前を言ったらしいの」
伽凛は弥生の言葉を無視してなおも話を続ける。
「でも、その名前の生徒は音楽科にはいないの。音楽科の先生たちは頭を傾げてたんだけど、その話を聞いた学園長があの『浅見兄弟』の一人だろうって言っちゃったのよ」
その言葉に一気に学園長に対しての殺意のような感情がふつふつと湧き上がってくる。
あの学園長・・・。自分が暇だからって人を暇つぶしの材料に使いやがって・・・!!
暇が大嫌いな学園長は校内でも有名で、たまに生徒を使って暇つぶしをしているという話はよく聞く。
「で、夏紀ちゃんのところへ聞きにわざわざ先生が行ったのよ。それで騒ぎが生徒に洩れて、あなたの正体が表に出てきましたって話。・・・大丈夫?」
「・・・・・・これが大丈夫に見えるとでも?」
机に突っ伏して頭を抱えている様子は確かに大丈夫とは言い難いだろう。
「というか、何で私なの?声楽やってる子の方がよっぽど良いと思うけど」
「さあ?それはご本人に聞いてちょうだい」
そう伽凛が言った途端、図書室の扉が勢いよく開かれる。
入ってきた人物はきょろきょろと辺りを見回している。当然――ではないはず――だが、弥生がいつも座る場所は入り口からは絶対に見えない。
「・・・・・・悪い、伽凛。私帰るね。あの人には入れ違いって言っといて」
そう言うが早いか、弥生は学生鞄――もともと早退で帰ることになっていたので持っていた――を持って本を元の位置に直すと本棚の影に隠れながら出口を目指す。幸い、扉は開け放たれたままなので音を立てることなく脱出に成功した。
図書室を脱出したあと、弥生はそのまま昇降口へ歩いていった。靴を脱ぎ換えて外へ出るが、正門のほうへは行かなかった。
生徒は基本的に正門から出入りをする。早退届は前以って提出していたため、教室に行ったであろう教師は弥生が居ないことに気付いて、正門を見張っているかもしれない。逆に、裏門は校舎とは少し離れた場所にあって教師もあまり見に来ない。
周りに教師が居ないかを確認しながら足早に裏門を目指すのは些か疲れる。けれど、あと少しで裏門が見えるはずだ。そう考えると足も軽くなる。
門まであと数メートル、といった距離まで来ていた。だが―――。
「今だ!」
普通科の男性教師の掛け声と共に一斉に教師たち――今の今まで草むらに隠れていたのか、服や髪に葉っぱがついている――が飛び出してきた。
「・・・は?」
随分と間抜けな声だったと自分でも思ったが、時既に遅し。教師たちに押さえ込まれてしまった。
「今正門のほうにいる先生たちにも連絡しました」
今年入ったばかりの、音楽科の女性教師が壮年を迎えた頃の男性教師へ報告する。
「いやぁ、やはり相馬の読みは当たりますね」
相馬、の名前に弥生がぴくりと反応するが、教師たちはそれに気付かない。
「常日頃から、生徒たちをよく見ている証拠でしょう」
彼女がいれば安心ですね、と弥生を捕まえている教師と呑気に言葉を交わしている。
相馬といえば、この学院には数人いるが教師の口に上る名前の持ち主は一人しかいない。相馬昴――現生徒会長で、弥生の友人だ。
おそらく、彼女は教師たちに乞われ、正直に情報を与えただけだろう。だがしかし、友人に売られたと思ってしまうのは弥生だけなのか。
言いたいことはいろいろあるが、ここはひとまず抑えるべきだろう。ここで教師からの印象をぶち壊すような真似はしたくない。
「・・・あぁ、浅見。相馬からこれを渡すよう頼まれたんだが」
教師をパシリに使うとは・・・。
相も変わらずな友人の人使いの荒さに嘆息しながら、小さく折りたたまれた紙切れを受け取り、素早く眼を通す。
書いてあったのはたった一言だった。
『見苦しいわよ。』
弥生は紙切れを片手でぐしゃりと握りつぶす。
その様子を見ていた教師たちは息を呑んで思わず後ろに下がってしまった。
大きく溜息を吐いたかと思うと、不機嫌オーラ丸出しで教師たちのほうに振り向いた。
「・・・・・・どうぞ、連れて行ってください」
怒りなど微塵にも感じさせないほど静かに発せられた声は、かえって不気味な怒りを思わせた。
「あ、あぁ・・・」
教師たちはその言葉にはっとして、弥生を連れ立って校舎の中に消えていった。
昴は結構いい性格をしてる子です。
出来れば敵に回したくないかも・・・(笑)
読んでくださってありがとうございます。