第9話 屈辱の献上
条約文は、机の上に置かれた瞬間から“重さ”があった。
紙は厚く、封蝋はまだ温かい。各国の監査印が空欄のまま並び、署名欄がやけに広い。あれは、後で揉み消せないようにするための余白だ。誰が何に同意したか、永遠に残すための余白。
広間の外では、風が鳴っていた。結界裂け目の方角から流れてくる黒い匂いが、時折、扉の隙間を叩く。遠くで悲鳴も聞こえる気がする。現実が、政治の机に手を伸ばしている。
国王は条約文を見下ろし、指が震えていた。
軍務大臣は、紙よりも先にリリィを見た。拘束の光の輪の中で、彼女は泣き顔を張り付けたまま、口だけ動かしている。
「こんなの、おかしい……私は……私は……」
誰も聞かない。
泣き声が価値を持つのは、嘘が確定していない時だけだ。
公爵が淡々と告げた。
「署名の前に確認する。貴国は条件を受諾するか」
国王の喉が鳴る。
答えは分かっているのに、口に出すのが屈辱なのだろう。
「……受諾、する」
広間がざわめいた。祖国側の文官が青ざめ、神官が歯を食いしばる。カイルは椅子の背に手を置いたまま、立っているのに倒れそうだった。
軍務大臣が、低く、硬い声で言う。
「ただし、王都の結界が持たねば、署名しても意味がない。応急安定化器を……いま、起動できるのか」
私は一歩前へ出た。
胸元のブローチを指で押さえ、声を落とす。
「起動できる。でも、無条件ではできません」
国王の目が揺れた。
反射で“頼む”と言いかけた顔。私はその言葉が出る前に切った。
「署名は今。条約が成立した瞬間に、応急処置を行います。逆なら意味がない。あなたたちは、危機が去ればまた嘘を吐く」
黙っていた監査団長が頷き、記録水晶に手を置き言った。
「その通りです。先に契約。次に措置。順序を入れ替えれば、契約とは言えません。」
国王は唇を噛み、震える手でペンを取った。
その手が、宙で止まる。
「……貴族たち、民たちは、私を許すだろうか」
誰に向けた問いか分からない声だった。
軍務大臣が答える。
「許されるかどうかは後の話です。まず生かさねば。陛下」
国王は目を閉じ、深く息を吐き、そして署名した。
インクが紙に染みる。
その一本の線が、祖国の世界を変える音がした。
続いて、軍務大臣。
中立国の使節。
監査団。
公爵。
最後に、祖国側の欄へ視線が集まった。
証人として、近衛隊長カイルの署名欄がある。
彼は一瞬、動かなかった。
自分の名前を書けば、今日まで自分が守ってきた“物語”が崩れる。書かなければ、王都が崩れる。
私は彼を見なかった。
見れば、勝ち負けの感情の話になりそうで。ここは清算の場で、私は感情を材料にしたくない。
カイルが、ようやくペンを取った。
震えていた。力が入らないのではない。重さを感じている震えだ。
署名が終わる。
公爵が言った。
「条約成立を宣言する。祖国は、国境要衝の割譲と緩衝地帯の設定、ならびに技術都市としての独立領を承認した」
「また、禁忌術式使用の疑いについて、国際監査団による調査権を認めた」
「そして――アリア・ノーランを『アイギス』開発責任者として公式に認定し、追放処分を撤回する」
最後の文言が、私の胸の奥を小さく叩いた。
許したわけではない。
ただ、“奪われた名前”が戻る音だった。
私は静かに言った。
「では、約束通り応急処置を打ちます」
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応急安定化器――位相調律器は、ここにはない。
ここに持ち込めば奪われる。壊される。だから私は、遠隔起動の構成にしてある。
私は机の端に、薄い金属板を置いた。回路が刻まれた、掌ほどの板。『遠鳴り』の発展形。私の署名魔力を鍵に、王都の『アイギス』副核へ“位相だけ”を送る。
研究区画で作った三基のうち、最も安定する一基を国境の中継塔へ設置してある。そこから王都へ波を飛ばす。距離があるから完全には揃わない。だからこれは、応急の止血。
「今から送るのは、循環の噛み合わせだけ。魔力を増やすわけではありません。無理に押し込めば壊れます。することは、ねじれを一瞬だけ正すこと」
私はそう説明しながら、金属板に魔力を落とした。
共鳴石が低く鳴る。空気が薄く震える。
広間の中央に、淡い像が浮かんだ。
王都の夜空。見えないはずの結界が、裂け目の線をうっすら光らせている。
亀裂が、増えている。
自己保全の兆候――内側へ閉じようとする圧が、空気の濃度として見える。
「間に合うのか……」
祖国の文官が、喉の奥から絞り出した声。
私は答えない。答えは、結果でしか出ない。
魔力を一定に保ち、位相を合わせる。
鍵穴に鍵を差し込むように、慎重に、少しずつ。
――像の中で、結界の線が、わずかに動いた。
亀裂の端が、ぴたりと噛み合う。
裂け目から漏れていた黒い風が、細くなっていく。
「……止まった」
誰かが呟いた。
私は、そこで初めて息を吐いた。
完全に塞がったわけではない。
でも“広がる勢い”は止めた。自己保全が発動する前に、循環の歪みを戻した。今夜の破局は回避できる。
像の中で、王都の警鐘が一段、弱まった。
現場の神官たちが泣き崩れ、兵が膝をつく。救われたのは誇りではなく、命だ。
私は金属板から指を離した。
「これで数日。持って一週間」
「その間に、根治の道筋を整えるか、移設の準備をするか、選んでください」
「ただし根治は条約履行の進捗と連動します。反故にするなら、次はありません」
脅しではない。契約だ。
契約は感情より残酷で、嘘が効かない。
国王が、かすれた声で言った。
「……ありがとう」
私は、首を振らなかった。
肯定もしなかった。
「感謝は要りません。契約を履行してください」
その言葉が、広間の“空気”を変えた。
祖国は、ここでやっと理解したのだと思う。助けは慈善ではない。奪ったものの代金を払うまで、何も戻らないのだと。
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署名が終わり、応急が成功した後も、公開審問は終わらなかった。
むしろ、ここからが本題だった。
監査団が禁忌物証――小瓶と霧の残滓を封印箱へ収め、封印の印を重ねていく。
その手つきは迷いがない。罰を与えるためではなく、再発を防ぐための手つきだ。
軍務大臣が一歩前へ出て、リリィを見下ろした。
「聖女リリィ。禁忌使用、国家攪乱、国家魔導具の簒奪。お前を守ってきたものは、もう何もない」
リリィは首を振り、泣きながら笑った。
「……やだ。私は聖女よ。民が私を……。アリアがいなければ何もできないって、みんなが――」
その言葉が、最後の自白みたいに響いた。
自分で気づいていない。自分の言葉で、自分を殺している。
軍務大臣は顔を歪め、次にカイルを見た。
「近衛隊長カイル。お前も同席しろ」
カイルが、ゆっくり前に出た。
彼はもう、英雄の歩き方ができていない。背筋は伸びているのに、足元だけがぐらつく。
「お前は禁忌の存在を知らなかった、と言うだろう。だが記録がある。お前は“象徴のために真実を切り捨てる”と明言した。そして作り手を追放し、国防を危機に晒した」
カイルの喉が動く。
「……俺は、国を――」
「国を守った?」
軍務大臣が遮った。
「ならなぜ、真っ先に守るべき結界の作り手を追放した。守ったのは国ではなく、お前の出世だ」
カイルは言葉を失った。
言い訳は出せる。
でも、その言い訳を聞く余裕が王都にはない。嘘に費やす時間が、命になる場面だ。
公爵が淡々と追い打ちする。
「貴国の内政裁判は貴国でやりなさい。だが条約に基づき、禁忌関連の審理は国際監査団が立ち会う」
軍務大臣が、短く頷いた。
カイルの肩が落ちた。
彼は“象徴”を守るために私を切った。だが象徴は、彼を守らない。
私は、ただ見ていた。
見て、何も言わなかった。
言葉はもう十分だ。
記録があり、署名があり、国が屈した。私の清算は、進んでいる。
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解散の後、私は公爵に呼ばれた。
別室。地図と、赤い線と、黒い点。
独立領として承認された区域が、太い枠で囲まれている。
「ここが、お前の領土だ」
公爵は淡々と言った。
声はいつも通り冷たいのに、その言葉だけは妙に現実的だった。
私は地図を見た。
国境の要衝。街道が交わり、川が近い。物流も軍事も押さえられる場所。技術都市として発展させるには最適だ。最適すぎる。公爵の利害が透けて見える。
「いい場所ね」
「お前が生きるための場所だ。こちらが欲しいのは“安定した緩衝”と“技術の拠点”。利害は一致している」
私は頷いた。
利害一致は、友情より強い。少なくとも、裏切りの形が読みやすい。
「お前の祖国は、これから必死に取り戻そうとする」
公爵が続ける。
「名誉も、領土も、象徴も。――お前の身柄も」
私は答える。
「取り戻させない。もう二度と」
公爵は小さく目を細めた。
「その意気だ。次は、国を作れ。お前のやり方で」
私は地図の枠を指でなぞった。
冷たい紙の上に、未来がある。
扉の外から、遠くの警鐘が微かに聞こえた。
応急処置は効いている。だが“痛み”は消えていない。祖国はまだ、崩れかけたままだ。
私はブローチを握りしめた。
次に必要なのは公開処刑ではない。
次に必要なのは、築くことだ。
奪われた分だけ、積み上げる。
そして二度と、誰にも功績を奪わせない仕組みを作る。
地図の上で、私の国が静かに息をしていた。




