第7話 どなた様でしたか?
国際会議の会場は、城塞都市の中でもいちばん“音”が死ぬ場所に用意されていた。
分厚い石壁。高い天井。外の風を遮断する二重扉。床には盗聴を弾く沈黙の結界膜が敷かれ、柱には記録用の水晶が等間隔に埋め込まれている。言葉は必ず残り、後から捻じ曲げられない――そういう部屋だ。
長い机の中央に、公爵が座っていた。背筋は真っ直ぐ、視線は揺れない。旗と旗の間に置かれた地図は、もう戦場のそれではなく、取引のそれになっている。
対面に祖国の代表団。
軍服と神官服が混じる、不自然な取り合わせ。
近衛隊長カイルは、椅子の背にまっすぐ身体を預けることもできず、膝の上で拳を握っていた。あの澄んだ目は健在だ。健在だからこそ、彼はここで壊れやすい。
その隣に、白いドレスの聖女リリィ。涙を作る準備が整った顔。肩をすぼめ、世界に守られることが当然の仕草。
さらに奥には、祖国国王の代理として来た文官と神殿の高位神官が座っていた。国王本人は来ていない。来られないのか、来ないのか――どちらにせよ、逃げの匂いがする。
開会の宣言は簡潔だった。
「議題は二つ」
公爵が低い声で告げる。
「第一、結界裂け目の封鎖と治安維持。第二、停戦と今後の結界運用。――祖国は“祈りで鎮静”と公表したな」
祖国側の神官が咳払いをし、優雅に頷く。
「はい。聖女の加護により――」
「死者数は」
公爵が遮る。
神官の頬が僅かに引きつった。
「……詳細は調査中で」
「嘘は要らない」
公爵は机上の紙束を指先で弾いた。
「裂け目の周辺で確認された死者、千を超える。負傷者はその三倍。魔物侵入は継続。――調査中ではなく、隠しているな?」
沈黙が落ちた。
沈黙を破ったのはカイルだった。
「情報統制は混乱を防ぐためだ。民衆が動揺すれば、さらに――」
「民衆はもう動揺している」
公爵は目も動かさず言った。
「結界が割れれば、動揺では済まない。国が終わる」
カイルの喉が小さく動く。反論を飲み込んだのが分かる。彼は、現場を見ている。見たうえで、まだ“象徴”を守ろうとしている。
公爵が続けた。
「我が軍は裂け目周辺を封鎖した。名目は治安維持だ。だが貴国はこれを侵略と呼んでいるな?侵略と呼びたいなら呼べ。代わりに、貴国は“守る手段”を示さなければならない。祈りではなく、実効性のある手段を。責任がとれる、な」
リリィが、小さく息を吸った。
涙が一粒、頬を滑る。
「……公爵閣下。どうか誤解なさらないで。私は、民のために祈って――」
「祈りは否定しない」
公爵が淡々と言う。
「だが祈りだけで回路は直らない。歯車は噛み合わない」
その瞬間、祖国側の誰かが「回路」という言葉に反応した。
神官ではない。文官でもない。カイルの目だ。
彼は、“技術の言葉”を知っている。
私と過ごした時間が、まだ彼の中に残っている。
公爵は、その視線の動きを見逃さなかった。
「では次に、こちらの提案を提示する」
公爵が手を挙げる。扉が開く。黒い外套の護衛に守られて、私が入室した。
会場の空気が、目に見えて変わった。
祖国側の神官が眉をひそめ、文官が息を詰め、リリィの瞳孔が僅かに開く。
そして、カイルの目が、私に刺さった。
私はフードを外した。
視線が一斉に集まる。冷たい空気。
「……アリア」
カイルが、声にならない声で名前を呼んだ。
私は、公爵の隣――技術顧問席に立ち、淡々と頭を下げた。
「公爵家技術顧問。魔導具師アリア・ノーランです」
その名が会場に落ちた瞬間、祖国側の文官が青ざめた。
リリィは、わざとらしく涙を増やし、震える声で言った。
「アリア……生きてたのね。よかった……お願い、助けて。民が――」
私は彼女を見なかった。
先に、カイルが立ち上がった。
「アリア。話が――」
私は、初めて彼に視線を向けた。
そして、丁寧に、刃のように言った。
「失礼ですが……どなた様でしたか?」
空気が凍った。
カイルの顔から血の気が引く。
私が忘れるはずがないと分かっているのに、“忘れられた”形で突き刺された。
「……俺は、カイルだ。近衛隊長――」
「そうでした。カイルでしたね」
私はそれ以上、何も足さなかった。
あの日、私に“奉仕せよ”と言って切り捨てた相手に、情を返す理由は一つもない。
公爵が机上の地図を指で押さえ、淡々と議事を進めた。
「提案する。祖国は裂け目周辺の管理権を暫定的に我が国へ委任する。代わりに我が国は封鎖を継続し、難民の受け入れと治安維持を行う」
「さらに、祖国の国家結界魔導具『アイギス』について――技術顧問が“応急安定化”を提供できる」
祖国側がざわめいた。
神官が身を乗り出す。
「応急……? 聖女の祈りで十分――」
「十分ではありません」
私が初めて、会議の言葉として断言した。
全員の視線がこちらへ集まる。
私は、淡々と説明を始めた。
「『アイギス』は現在、循環位相が破綻しかけています。外部から”不純な”魔力を押し込むほど歯車が削れ、亀裂が増えます」
「次に大きく割れれば、自己保全回路が発動します。そうなると外部からの介入を拒絶し、内部循環を閉じる。――機能が停止します」
祖国側の文官が口を開けた。理解できないが、危険だけは伝わった顔。
カイルだけは理解した。目が僅かに揺れ、唇が白くなる。
「……それが、今夜起きてもおかしくない」
私は淡々と畳みかけた。
「だから“応急”が必要です。位相調律器で循環の噛み合わせだけを揃え、崩壊を遅らせる。根治ではない。時間を買うだけ」
「時間を買って、何をする」
カイルが絞り出すように言った。
私は、目を逸らさず答えた。
「真実を整える」
公爵が続ける。
「祖国が助かりたいなら、条件を呑め。こちらは慈善ではない」
机上に、条項が並べられた。紙ではなく、言葉として。記録水晶に刻まれる言葉として。
「第一、祖国は『アイギス』の開発責任者がアリア・ノーランであることを公式に認め、追放の撤回と名誉回復を行う」
「第二、禁忌術式使用の疑いがある。聖女を含め、国家中枢への調査権を、国際監査団と我が国に付与する」
「第三、国境要衝の一部領土を割譲し、緩衝地帯とする」
「第四、緩衝地帯は、結界の安定化のため、段階的に独立領に移行することを認めること。領主権は技術顧問アリア・ノーランに付与するものとする。
祖国側の神官が立ち上がり、声を荒げた。
「聖女への調査だと!馬鹿な!聖女の名誉を傷つけ――」
「屈辱は、裂け目の犠牲者に謝罪してから言ってください」
私は、神官を見て言った。
「名誉を守るために無辜の命を削るなら、名誉はもう名誉ではない」
リリィが、震える声で私の名を呼んだ。
「アリア……お願い。そんな言い方、しないで……。私が悪いみたいじゃない……」
私は、ここで初めてリリィを見た。
そして、平坦に言った。
「悪い“みたい”ではありません。結果として、壊れているのです」
リリィの目が揺れた。
泣き顔の仮面が一瞬だけ剥がれ、焦りが覗く。
カイルが椅子の背に手を置き、声を低くした。
「アリア。条件が過ぎる。独立領だと? そんなものを認めれば国が――」
「国が何?」
私は遮った。
「私を追放した時点で、国は“私の働き”を切り捨てた。切り捨てたものが必要になったからといって、無償で戻ると思った?」
カイルの口が開き、閉じた。
彼は“奉仕”と言った。大人しく泥を被れと言った。あの時点で、交渉の余地を自ら捨てたのだ。
公爵が冷たくまとめる。
「応急安定化器を渡すのは、貴国がこの条件を受諾した後だ」
「拒否するなら、我が国は当方側だけの裂け目封鎖のみを継続する。貴国の王都がどうなろうと、それは貴国の責任になる」
祖国側の文官が、震える手で額の汗を拭った。
彼は、どちらを選んでも地獄だと分かっている。だからこそ、口が利けない。
沈黙の中で、カイルだけが私を見ていた。
懇願でも怒りでもない。理解と後悔が混ざった、最悪にみじめな目。
「……せめて、二人で話せないか」
私は、一拍だけ黙った。
そして、言葉を選ばずに切った。
「話すことがあるなら、ここで。あなたは“象徴のために私を切り捨てる”と言った。なら今度は、象徴の前で責任を取ればいい」
カイルの肩が微かに落ちた。
彼は英雄でいたかった。英雄は、こういう場では弱い。
私は椅子の横に置いていた箱を開けた。
中には、修復された銀のブローチが一つ。以前よりも傷が少ない、冷たい光沢。核がぴたりと収まった、完全な形。
私はそれを、会議机の上に置いた。
かつん、と小さな音。
その音が、なぜか全員の鼓膜を叩いた。
「次の会合で、これを投影します」
私は淡々と言った。
「嘘と真実を、記録として出します。――逃げ道は、ありません」
リリィの顔が、真っ白になった。
カイルは、まるで初めて“敗北”という概念を知ったように、ブローチを見つめた。
あれは、私がかつて友情の証として渡したものだ。
そして今は、裁きの鍵だ。
公爵が、最後に淡々と告げる。
「貴国は三日以内に回答するように」
「回答が来なければ、我が国は国際会議の議事録を公開し、貴国の情報統制を破る」
会議はそれで終わった。
終わったのに、祖国側は立てなかった。立てば、現実に直面するからだ。
扉が開き、祖国代表団が退室していく。
最後にカイルが振り返り、私を見た。
言いたいことがある顔。
でも言葉が出ない顔。
私は、礼儀正しく頭を下げた。
礼儀は、刃として使う。
「お気をつけて」
扉が閉まった。
公爵が私の横で静かに言う。
「良い顔をしたな」
「顔じゃない。記録を出すだけ」
「記録は剣より強い」
私はブローチを指先で撫でた。
冷たい銀の下に、まだ息をしている記憶がある。
次にこの部屋で流れるのは、停戦の言葉ではない。
“公開処刑”の音だ。




