第6話 見覚えある侵攻
結界が泣いている――そう感じた翌朝、研究区画の空気はさらに乾いた。
共鳴石の鳴りが、もう「乱れ」では済まない。周期が短く、振幅が大きい。脈が速すぎる心臓のように、『遠鳴り』が跳ね続けている。
私は作業台の上で、応急安定化器――位相調律器の最終図面を閉じた。線は必要最低限。持続時間も限界まで削ってある。祖国を“助ける”ための道具ではない。祖国を“交渉の席に座らせる”ための道具だ。
「完成か」
背後の声に振り返ると、公爵が立っていた。今日も表情は薄い。けれど、目だけが忙しい。軍人が戦の前に地図を読む目だ。
「完成。試作も三基、動く」
「ただし、長くは保たない。あれを延命できるのは、せいぜい……数日」
「十分だ」
公爵は淡々と頷き、隣にいた使者へ視線を投げた。
「第一線の準備は」
「完了。国境方面の部隊、展開済み。名目は“結界裂け目の治安維持”と“魔物侵入の封じ込め”」
私は眉を動かした。
名目。つまり、侵攻の言い換え。
「本当にやるのね」
「やる。祖国は情報を伏せ、祈りで誤魔化している。裂け目が広がれば難民が流れ込む。魔物も流れ込む」
公爵の声は平板だった。
「我が国が被害を受ける前に境界を押さえる。それだけだ」
それだけ。
口にすれば正論になる。けれど正論はいつも、刃の鞘だ。
私はブローチを掌で転がし、冷たい銀の感触で自分を落ち着かせた。
「私の技術を、前線で使う?」
「使う。だが、殺すためではない」
公爵は迷いなく言い切った。
「お前の祖国の兵を崩し、統制を奪い、最短で従わせる。民衆を巻き込むほど、こちらの“名目”が腐る」
私は息を吐いた。
合理的だ。嫌になるほど。
「分かった。……前線に行く」
研究員たちが一瞬、動きを止めた。
使者が口を開きかけたが、公爵が手で制した。
「条件は」
「私の目で、使用範囲を決める。私の技術で、民間人が死ぬのは嫌」
公爵は一拍置き、頷いた。
「いいだろう。……その代わり、お前は絶対に捕まるな」
---------------------------------------------
国境の空は、薄い灰色だった。
草原に設けられた前線指揮所は、無駄がない。木柵と簡易結界、通信回路の束。兵たちは静かに動き、声を張り上げない。祖国とは練度が違う。
私は外套のフードを深く被り、指揮所の中央――地図台に立った。地図には祖国側の城塞線が描かれ、赤い線がこちらの進路を示している。進路の先には、結界縁の裂け目の報告地点。
「裂け目は相手方の管理区画です」
参謀が報告する。
「相手方は“祈祷で鎮静”と公表。ただし現地では魔物侵入が続いています」
「兵力は?」
「近衛を含む増援が到着しています。指揮は……近衛隊長カイル」
名前が耳に入った瞬間、胸が一度だけ跳ねた。
私を切り捨てた、澄んだ目の騎士。
(来るなら来い)
私は自分の心を叩き潰すように言い聞かせ、机上の黒い筒を取った。位相干渉弾――殺すための弾ではない。魔力の噛み合わせを狂わせ、結界や術式の“立ち上がり”を失敗させる。相手の魔導具と陣形を、崩すための道具。
「使用は、軍の結界杭と魔導砲台に限定」
「個人の身体に直接当てるのは禁止」
参謀が即座に復唱する。
公爵の兵は命令に慣れている。
命令が合理的である限り、迷いがない。
合図とともに、前線が動いた。
槍兵が出るのではない。
先に走ったのは、黒い杭だ。地面へ打ち込まれ、薄い波が広がる。魔力抑制の場。祖国側の魔導陣が立ち上がりにくくなる。目立たないが、致命的。
続いて、投射器が無音で光を吐いた。光は網の形を取り、空中でほどけて落ちる。絡め取るための捕縛網。金属ではない。魔力で編んだ拘束だ。鎧の継ぎ目から入り、動きだけを止める。
祖国側の城塞線で、角笛が鳴った。
やっと戦の音が来る。遅い。
見張り台に兵が集まり、弓が構えられ、魔導砲台が向きを変える。
でも砲台が火を吐く前に、位相干渉弾が落ちた。
ぼん、と鈍い音。爆発ではない。
空気が一瞬だけ“ズレる”感覚。魔導砲台の術式が立ち上がり、途中で歪み、霧散した。
「な……何だ!」
遠眼鏡越しに、祖国兵の口が動くのが見えた。
彼らは知らない。魔力が噛み合わない恐怖を。噛み合わないまま無理に回すと、回路が焼けることを。
祖国側は慌てて結界杭を増やした。
だが、その杭の配置が――見覚えのある癖だった。
(カイル……あなた、まだ“私の図面と武器”で戦ってるのね)
あの国の陣形は『アイギス』の副回路思想を流用している。私が、効率化のために描いた配置。だから私は、それを崩すポイントも知っている。
私は参謀へ指示した。
「杭の二列目、右端。そこが弱い」
「抑制杭を追加。波を重ねて“底”を作って」
「了解!」
波が重なる。底ができる。
底へ落ちた術式は、立ち上がらない。祖国側の魔導陣の一部が、ぱたりと死んだ。
そして――その瞬間、祖国側の指揮が乱れた。
遠眼鏡の向こう、白い外套の男が城塞上で腕を振った。
カイルだ。声は届かない。でも口の形で分かる。
「隊列を崩すな! 前へ出るな! ――結界杭を守れ!」
正しい。
守るべきは杭だ。杭が死ねば、城塞線の防御が死ぬ。
でも彼は、もう一つ知らない。
杭を守るために人を集めれば、拘束網でまとめて止められる。
無音の網の罠が落ちた。
兵が固まった場所に、静かに、正確に。
祖国兵の動きは止まり、隊列が詰まり、後ろが前の渋滞を無視して突っ込む。混乱が波になる。そこへ抑制波が重なり、魔導術が不発になる。
殺していない。
それでも戦は、崩れる。
私は指を握りしめた。
この感覚が嫌だった。私の技術で、誰かの“努力”が瓦解していく。理解できるからこそ、余計に残酷に見える。
その時、参謀が低く告げた。
「相手方、神殿隊が出てきます。白衣――祈祷部隊です」
遠眼鏡を覗くと、確かに白いものが動いていた。
そして、またあの匂いがする気がした。甘く腐った匂い。
(霧……)
祈祷部隊の後方、側近らしき女が小瓶を開けている。
薄い霧が流れ、前線の指揮官らしき男が一瞬だけ硬直し、次の瞬間、目の焦点が変わった。恐怖が抜け落ちる。判断が鈍る代わりに、命令だけに従う“駒”になる。
私は胃の奥が冷えた。
「……やっぱり使ってる」
公爵は私の横で、淡々と言った。
「禁忌は禁忌だからこそ便利だ。短期戦で勝つための道具になる」
「勝つために、人を壊す」
「戦が長期化して、国を壊すよりはマシだ」
言い返せなかった。
私だって、祖国に首輪を嵌めるために動いている。正しさの競争をする気はない。
戦は二時間で決着がついた。
隣国軍は城塞線を“奪った”のではなく、“押さえた”。
城塞の外、裂け目周辺の管理区画を、周辺も含めて広く制圧。そこに新しい結界杭を打ち込んだ。名目通り、魔物侵入の封じ込め。
外から見れば、治安維持。だが、祖国側から見れば、侵略だ。
そして、最後に――一枚の布告が祖国側へ投げ込まれた。
「結界裂け目の封鎖完了。この作戦は、治安維持のための制圧である。民間人の退避路を確保する。貴軍は武装解除のうえ、指定区域へ退下せられたし。抵抗は、当方への宣戦とみなす」
参謀が読み上げる。
文章が丁寧で、腹立たしいほど正しい。
遠眼鏡の向こうで、カイルが歯噛みした。
彼は剣を抜かなかった。抜けば、本格的な「戦争」になる。抜かなければ、彼は領土を守れなかったことになる。
彼の顔が、ほんの一瞬だけ揺れた。
怒りではない。理解だ。
(気づいた?)
彼は見たはずだ。
こちらの抑制波の作り方。網の落ち方。位相の崩し方。全部、どこかで見た“癖”だと。
それは私の癖だ。
『アイギス』に刻んだ指紋の延長だ。
カイルが何か叫んだ。部下が駆け寄る。
彼は遠眼鏡のこちら側を――見た気がした。
もちろん距離がある。顔は見えない。
それでも、私はフードの奥で口角を動かした。
(見つけたなら、どうするの)
戻せないものを戻そうとするのか。
それとも、また切り捨てるのか。
---------------------------------------------
夕刻、指揮所へ一人の使者が連れて来られた。
祖国の文官。衣は泥だらけで、靴は擦り切れている。恐怖で顔色が白いのに、目だけが必死だった。
「……停戦交渉を」
彼は震える声で言った。
「結界の裂け目封鎖について、協議の席を……。我が国の国王陛下より、正式な申し入れです」
国王が。
操り人形の王が、口を開いた。
(霧の糸が、少し緩んだ? それとも――)
私はブローチを握った。
修復は進んでいる。記録は戻っている。いまなら、公開の準備ができる。
公爵は文官へ冷たく告げた。
「協議は受ける」
「だが条件がある。祖国は情報統制を解除し、裂け目被害の実数を公表せよ。さらに、禁忌の術式を使用した疑いがある。当方の調査権を認めろ」
文官が目を見開く。
禁忌。何のことか理解できていない、という顔。
公爵は続けた。
「三日後、国際会議を開く。停戦と結界対策を議題とする」
「貴国は代表を出せ。近衛隊長でも、聖女でも、国王でもいい」
最後に、公爵の視線が私へ滑った。
「そして――我が国の代表団には、技術顧問が同席する」
文官の目が、私のフードへ吸い寄せられた。
何も見えないはずなのに、何かを嗅ぎ取ったような顔。
「……まさか」
私はフードの奥で息を吐いた。
自分の名前が、再び世界へ出ていく音がする。
公爵が短く命じる。
「準備しろ、アリア。次は戦場ではない」
「席上で勝て。証拠と論理で、お前の祖国の“物語”を殺せ」
私はブローチを胸元へ押し当て、頷いた。
結界は泣いている。
祖国は、ようやく泣き声を上げ始めた。
そして三日後――私は、あの騎士の前に立つ。




