第5話 アイギスの悲鳴
共鳴石が、嫌な鳴り方をした。
研究区画の奥、修復台の端に置いた小さな観測盤――『遠鳴り』が、一定の周期で震えるはずのところを、いきなり不規則に跳ねた。糸を引くように細い振動が、鋭い爪で引っ掻いたみたいに乱れている。
(……来た)
私はペン先を止めずに、観測盤へ魔力の糸を一本伸ばした。『遠鳴り』は、私の署名魔力を鍵にして、遠方の同系統魔導具の“脈”を拾う。『アイギス』の中心核と同じ癖の回路を、私が自分で刻んだから繋がる。
繋がるのは、音じゃない。
呼吸の乱れ。血流の滞り。骨が軋む直前の、あの不快な予兆。
共鳴が強くなった瞬間、観測盤の上に薄い像が浮いた。霞んだ光の膜。輪郭だけが結び、色は薄い。けれど、私はその場所を見間違えない。
王宮の中枢回廊。
『アイギス』へ繋がる制御室。
私は息を止めた。
像の中で、白いローブの神官たちが走り回り、魔石の箱が乱暴に開けられている。床の溝には魔力が流れ、回路が警戒色に変わっていた。赤に近い紫。暴走の一歩手前。
「聖女様! 結界縁で裂け目が――」
「慌てないで。祈れば……祈れば大丈夫よ」
リリィの声。
相変わらず甘く、相変わらず震えが“演技”臭い。
彼女は制御盤の前に立ち、胸元の白い飾りを握りしめていた。聖女の象徴。手の中で震えているのは、祈りのためではない。焦りだ。
制御盤の中央――『アイギス』の副核へ繋がる回路束が、細かく痙攣している。これは、私が一番嫌う揺れ方だ。外部から無理に魔力を押し込んで、循環の整合性が崩れている時の反応。
(何をやってる……無理やり支えてるつもり?)
支えられない。
署名魔力がない回路は、いくら魔力量を足しても“噛み合わない”。噛み合わない歯車に力をかければ、削れるのは歯だ。
像が揺れ、別の声が割り込んだ。
「……落ち着け。これは一時的な揺らぎだ。民衆を動揺させるな」
カイル。
式典の時と同じ、澄んだ声。甘い日々が一瞬よみがえる。澄んでいるのに、冷たい。
「しかし、近衛隊長! 既に国境の村で――」
「増援を回せ。神殿は“聖女の祈りで鎮まった”と発表しろ。”裂け目”の件は伏せる」
伏せる。
象徴を守るために、現実を隠す。
私は唇の裏を噛んだ。喉の奥が熱い。怒りの熱じゃない。ここまで分かりやすく壊れ始めているのに、まだ“見せ方”を優先する、その薄気味悪さに吐き気がする。
像の端で、国王が椅子に座っていた。
視線は虚ろ。口は半開きで、何かを理解していない。軍務大臣も同じだ。立っているのに、立っていないみたいな佇まい。誰かが糸を引けば動き、糸が緩めば止まる。
(……霧の影響、まだ続いてるのね。何故?)
私は観測盤に魔力をもう一本足し、像の解像度を上げた。負荷が増えれば、こちらにも痛みが返ってくる。でも今は、痛みの方が確かさになる。
すると、制御室の奥――柱の陰に、小さな影が見えた。
神官の服ではない。侍女でもない。白いドレスの裾。リリィの側近だ。彼女は小瓶を取り出し、蓋をほんの少し開けた。瞬間、像のこちら側まで嫌な匂いが届いた気がした。
甘く腐った匂い、
記憶を溶かす霧の匂いの”感覚”。
(補給してる……)
国王と大臣が、あの顔になる理由。
リリィの嘘が続く理由。
全部、ここにある。
像が歪んだ。観測盤が悲鳴を上げる。遠隔共鳴は、長く繋げるほど危険だ。『アイギス』が不安定な今、こちらが引きずられて、逆に記憶が揺らぐ可能性がある。
私は魔力の糸を切った。
研究区画の静けさが戻る。共鳴石の鳴りは、まだ不規則なままだ。
『アイギス』は、確実に壊れに向かっている。
「見えたか」
背後から低い声。公爵だった。いつ来たのか、足音すら覚えていない。
「見えた。裂け目は小さい。でも“揺れ方”が悪い。外から押し込むほど、内部が壊れていく」
私は作業台の上のブローチ外装へ視線を落とした。銀片を繋ぎ直し、欠損部の補填を終えたところ。形は戻りつつある。回路の復旧も半分は終わっている。
「祖国は、助けを求める」
公爵は断言した。
「遅かれ早かれ、お前に膝まづくことになる。それがいつかが問題だ」
「……民衆が先に死ぬ」
口に出してから、私は自分の声の硬さに気づいた。情を捨てると決めたのに、情が残っている。捨てたくても、完全には捨てられない。
公爵は私を見下ろさず、ただ淡々と言った。
「だから、お前に選ばせる」
「壊れるまで待つか、壊れない程度に“苦しませる”か」
私は目を閉じた。
苦しませる――その言葉は醜い。でも、戦略としては正しい。完全崩壊させれば被害は制御不能になる。ならば、崩壊寸前で止め、条件を飲ませる。政治とはそういうものだと、私は今さら理解している。
私は目を開けた。
「応急の安定化なら、できます。根治じゃない。暴走を遅らせるだけの“止血”」
老人研究員――白髪の職人が、作業台の向こうで鼻を鳴らした。
「止血でも国家相手にゃ効く。足元が崩れれば、王は条件を呑むじゃろう」
私はペンを取り、紙に回路の概略を書き始めた。
『アイギス』の中心核の周辺に、外付けの位相調律器を噛ませる。署名魔力がなくても、外部から“位相”だけ合わせてやれば、循環の乱れを少し抑えられる。ただし持続は短い。何度も打てば副核が摩耗する。――痛み止めに過ぎない。
「これを作れば、旧国の崩壊を数日から数週間、引き延ばせる」
「その間に、交渉と証拠公開の舞台を整える」
公爵は頷いた。
「いいだろう。だが渡すのは、条件が揃ってからだ」
「分かってる」
分かっている。
救いたいなら、救えるように支配するしかない。
私は書いた線を指でなぞり、意識を研ぎ澄ませた。
いま作っているのは魔導具じゃない。首輪だ。旧国に嵌める首輪。
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その日の午後、祖国から二つ目の報告が来た。
使者が持ち込んだ紙には、簡潔な記録が並んでいた。
――王都近郊、結界縁で裂け目拡大。
――魔物侵入、死者数十。
――神殿は「聖女の祈りにより鎮静」と発表。
――近衛隊は情報統制を強化。
――“国外追放者に関する極秘命令”が発令。
最後の一行で、私の指が止まった。
「極秘命令?」
使者は目を伏せた。
「旧国の内通者からの写しです。内容は――『対象を確保、もしくは処分。結界技術の国外流出を防げ』」
処分。
やっぱり、そう来るのね。
私は、笑いそうになった。
この国は私を捨てたのに、私の技術だけは捨てられない。捨てたものを拾いに来て、それでも拾えないなら燃やす。子どもの癇癪より浅い。
公爵が低く言う。
「お前の身柄は、もう外交問題だ。お前の祖国がどれだけ吠えても、こちらは返さない」
「吠えるだけならいい。……本当に怖いのは、私の口を塞ぐために、さらに禁忌を使うこと」
私は観測盤に触れた。遠鳴りの振動は、さっきより荒い。
『アイギス』が暴走に近づくほど、回路は“自分を守る”動きを始める。私が入れた自己保全回路は、一定の閾値を超えると外部の魔力を拒絶し、内側の循環を強制的に閉じる。
それは盾になる。
同時に、棺にもなる。
「次に大きく割れたら、自己保全が発動する」
「そうなると、外から何をしても遅い。内部が閉じて、結界は崩壊。……王都が終わる」
研究区画の空気が、わずかに張り詰めた。
老人が、初めて真顔になった。
「……いつだ」
私は観測盤の揺れを数えた。
周期が短い。振幅が大きい。歯車が噛み合わないまま、無理に回している。
「数日以内。下手をすれば、今夜でも」
公爵は動じなかった。
ただ短く命じた。
「準備を加速する」
「ブローチの修復は最優先のまま。並行して、応急安定化器の試作を作れ。――そして、交渉の舞台を整える」
「舞台?」
「国際会議だ」
公爵は淡々と言う。
「お前の祖国が“助け”を求める形にし、こちらが“仲裁者”として席を設ける。そこでお前が証拠を出す。王と大臣の記憶も、いずれ戻る。霧は永遠ではない」
霧は永遠ではない。
その言葉が、妙に現実的だった。禁忌は万能じゃない。無理をすれば歪みが出る。
私は頷き、作業台に戻った。
銀のブローチ外装は、ほぼ原型に戻っている。回路の再刻も終盤。
私は最後の接続を通し、共鳴石を一つずつ外した。
小さく、澄んだ音がした。
ブローチが“形”を取り戻した音だ。
(さあ……これで、逃げ道は消える)
私はブローチの中央に核を嵌め込んだ。ぴたり、と合う。自分という鍵穴に、自分の鍵が戻る感覚。
その瞬間、観測盤が跳ねた。
さっきまでの乱れ方ではない。ひとつ、大きい。地鳴りみたいな振動。
私は反射で観測盤に手を置き、魔力の糸を繋いだ。
短く。危険なほど深く繋がらないように。――でも、見なきゃいけない。
光の膜が浮く。
王都。
夜。警鐘。
制御室の床の溝が、真っ赤に光っている。
「裂け目が――!」
「押さえなさい! 祈りを止めないで!」
リリィが叫んでいる。
叫び方が、もう聖女ではない。怯えた子どもだ。
カイルが怒鳴る。
「黙れ! 聖女様の祈りを妨げるな! 民衆に聞こえる!」
その瞬間、制御盤の中央が白く発光した。
眩しい。眩しすぎる。循環が暴走している。
(……自己保全の閾値に近い)
そして――音がした。
像越しでも分かる、嫌な音。骨が割れる音に似ている。
『アイギス』の外環――結界展開輪に、一本の亀裂が走った。
王都の夜空に、見えないはずの線が見えた。
裂け目が、光の縫い目みたいに走り、そこから黒い風が漏れ出した。
「……っ」
私は息を吸うのを忘れた。
亀裂の向こうは、外だ。
外は魔物の世界だ。
結界が割れれば、国境ではなく、王都の真上から落ちてくる。
観測盤が悲鳴を上げた。
これ以上繋ぐな、と。こちらまで引きずり込まれる、と。
私は魔力の糸を断ち切った。
研究区画に戻る。静けさ。
なのに耳の奥に、まだ王都の警鐘が残っている。
公爵が私の顔を見て、問うた。
「割れたか」
「……割れた。まだ小さい。でも、次が来る」
「次はいつだ」
私はブローチを握りしめた。
冷たい銀が、指の中で確かな重さになる。
「分からない。……でも、もう“祈り”でどうにかなる段階じゃない」
公爵は頷き、使者に命じた。
「旧国の動きを監視しろ。救援要請が来たら、受け皿を用意する」
「そして――アリアの名は、まだ出すな」
私は低く言った。
「出したら、また殺しに来る」
「そうだ」
公爵の答えは短い。
短いのに、妙に信頼できた。情ではなく、計算で守る男の言葉だから。
私は作業台にブローチを置き、次の図面を引き寄せた。
応急安定化器。止血の道具。首輪。
救うために、縛る。
縛るために、証拠を揃える。
遠くで、見えない結界が軋む。
『アイギス』は泣いている。
そしてその泣き声は、いずれ旧国の喉元に刃を突きつける合図になる。
私はペンを走らせた。
次に祖国が求めるのは、祈りじゃない。
――私だ。




