第2話 霧の誓い
国境道の雨は、夜になっても止まなかった。
私は安宿の屋根裏部屋で、濡れた外套を床に広げ、掌の上に小さな“核”を載せた。銀のブローチの中心回路。外装も魔石も砕け散ったのに、これだけは不自然なほど無傷で、冷たく、重い。
指先に魔力を灯す。薄い糸のような光が回路の溝をなぞり、眠っていた術式が小さく脈を打った。
(……生きてる)
胸の奥が、痛いほど熱くなる。怒りでも悲しみでもない。喪失の中にひとつだけ残った“確かさ”が、私の心臓を叩く。
再生はできない。けれど、記録の断片なら拾える。私は呼吸を整え、回路の奥へ意識を沈めた。
すると――雨音が遠のき、別の匂いが立ち上がった。
湿った石畳。古いパンの粉。煤けた布。
そして、あの頃の私の腹の痛み。
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王都の外れ、貧民街の路地はいつも薄暗かった。日が落ちる前から影が深く、雨が降れば泥が膝まで跳ねる。そこでは、名前より先に“腹具合”が人を決めた。
私は十三の冬、鍛冶屋の裏で暮らしていた。仕事の代わりに与えられるのは、硬いパンの端切れと水だけ。手は荒れ、爪の間に煤が染みつき、指先は火傷の痕だらけだった。
そんな私に声をかけたのが、リリィだった。
「ねえ、あなた。魔力、見える?」
路地の入口に立つ少女は、私と同じくらいの年に見えた。なのに身なりは明らかに違う。淡い色の外套、白い指、飢えを知らない頬。迷子の貴族の子だと思った。
「見えない人もいるの?」
私が警戒しつつ返すと、リリィはくすっと笑った。
「いるわよ。だから、見える人は――特別なの」
その言い方が、甘すぎて気持ち悪かったのを覚えている。けれど、当時の私は“特別”という言葉に弱かった。何も持たない子どもにとって、特別であることは、生き延びる理由になり得たから。
リリィはそれから頻繁に路地へ来た。最初はパンをくれた。次は小銭。次は、私の話を「すごい」と言って聞いてくれた。
そして、私が少しずつ心を許した頃、彼女は言った。
「魔導具師になりたいの。あなた、教えて」
私は馬鹿だった。
飢えと孤独の底で差し出された手を、疑う強さがなかった。
安定した収入が得られる魔道具師の養成校は授業料が高額で、リリィが「要領よく」学ぼうとしていたことは後で分かったことだった。
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私が最初に教えたのは、火を灯すだけの小さな魔導具だった。鉄片に溝を彫り、魔力を流す道を作り、魔石の欠片を嵌め込む。指先で魔力を回すと、火種のような光が生まれる。
「わあ……!」
リリィは目を輝かせ、すぐに真似をした。けれど、彼女の魔力はふらついていた。回路に入った途端に散る。道を外れる。熱だけが上がり、光が結ばれない。
「……難しい。私、向いてないのかも」
そう言って俯く彼女の顔は、あまりに“助けてほしい”の形をしていた。私は胸が疼き、つい手を伸ばした。
「違う。魔力の“流し方”が違うだけ。ほら、こう」
私は彼女の指を取り、魔力の入口に沿わせてやった。
その瞬間、彼女の魔力が私の流れに乗って、あっさり火が灯った。
「できた!」
リリィは弾けるように笑い、私の手を握りしめた。
「アリア、あなたがいないと何もできない。……ずっと一緒にいて」
その言葉に、私は頷いてしまった。
この路地で初めて、必要とされた気がしたから。
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王都の工房街に足を踏み入れられたのは、その数年後だ。私は鍛冶屋から逃げ出し、必死に腕を売り込んだ。魔導具師の下働きになり、寝床は作業台の下、食事は余り物。けれど、毎日が眩しかった。
リリィもついてきた。彼女は「家を出た」と言った。行く先はどこにもないふりをして、私の隣で小さく震えた。
私はまた、守ろうとしてしまった。
昼は作業、夜は勉強。私は回路を読み、魔力の癖を直し、失敗した魔石の粉にまみれた。
リリィはと言えば、最初のうちは熱心に見えた。ノートを取り、頷き、私の手元を覗き込む。
でも、いつからか――彼女は“覚えない”ことを武器にし始めた。
「ごめん、また忘れちゃった」
「私、ほんとに頭が悪いの」
「アリアがいないとだめ」
そのたびに私は教え直した。自分の時間を削ってでも。
そして彼女は、私の技術を“知識”としてではなく、“他人に見せるための飾り”として身につけていった。
工房の親方が私を褒めると、リリィはすかさず笑って言った。
「アリアって、ほんとに器用なの。私?私は……支える係かな」
言いながら、彼女は必ず私より前に出る。
私が黙っていると、いつの間にか「アリアはリリィの助手」になっていく。
最初の違和感を、私は笑って飲み込んだ。
友達だから。助け合いだから。そう思いたかった。
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転機は、軍務大臣との出会いだった。
ある日、工房に黒い外套の男が訪れた。背が高く、目つきが鋭い。護衛を連れ、空気を一段冷やして歩く人間。親方が硬い顔で頭を下げるのを見て、ただ者ではないと分かった。
「国家結界の更新計画だ。小手先の玩具ではない。国を覆う盾を作る」
男――軍務大臣はそう告げ、工房の作品を無造作に見回した。
その視線が、私の作業台で止まった。
私は徹夜明けで、目の下に隈を作りながら回路を組んでいた。完成度よりも、安定性。暴走しないための逃がし道。目立たないけれど、国家規模では命取りになる部分。
「……お前が作ったのか」
私が頷くと、大臣は一瞬だけ目を細めた。
「嘘をつくな。これは“現場を知っている”回路だ。飢えも、恐怖も、守りたいものも」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと縮んだ。初めて、私の“生き方”ごと見られた気がしたから。
隣でリリィが、すぐに甘い声を出した。
「大臣閣下、私も勉強していますの。アリアと一緒に――」
大臣はリリィを一瞥し、淡々と言った。
「一緒にいるだけで技術は身につかん」
空気が凍った。リリィの笑みが、ほんの一瞬ひび割れる。
けれど彼女はすぐに涙目になり、か弱く首を振った。
「……ごめんなさい。私、努力が足りなくて……」
その場では“可哀想な子”が勝つ。
私は、大臣の視線が私へ戻るのを感じながら、言葉を飲み込んだ。
それでも大臣は、私を選んだ。
国家結界魔導具『アイギス』の計画に、私は加わることになった。
その日から私の世界は変わった。工房の狭い天井ではなく、国を守る巨大な回路を描ける。材料も、人手も、時間も与えられる。
そして――リリィも、いつの間にか計画に紛れ込んでいた。
「私、聖女候補でもあるんです」
「祈りの魔力で結界を支えられるって、神殿が」
大臣が眉をひそめるのを、私は見た。
でも国王は柔らかく笑い、言ったのだ。
「民衆は希望を求めている。技術者の努力だけでは届かぬものがある。……聖女の存在は必要だ」
その“必要”が、後に私を殺す刃になる。
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遺跡の調査で『レーテの霧』を見つけたのは、『アイギス』計画が佳境に入った頃だった。
地下深く、古代の祭壇。壁には記憶の流れを象った図が刻まれ、床の溝には枯れない霧が溜まっていた。
触れた瞬間、思考が滑り、昨日の記憶が“別の形”に置き換わりそうになった。
「……危ない」
私は慌てて手を引いた。
リリィは、霧を見つめていた。
瞳が、きらきらしていた。子どもが玩具を見つけた時のそれに似ていた。
「ねえ、アリア。これがあれば、人の心を救えるんじゃない?」
「救う?違う。これは弄ぶものよ」
「でも、辛い記憶を消せたら……」
私は首を振った。
「それは“本人の人生”を奪うことになる。それは記憶の改竄。やっていいはずがない」
沈黙。
リリィが、薄く笑った。
「……あなたって、”正しい人”ね」
その言い方が、また気持ち悪かった。
私たちは霧を封印した。私が回路を描き、封印石を置き、誓いの呪を結んだ。
「この祭壇のことは誰にも話さない。決して使わない。」
私は言った。
「誰の記憶にも触れない」
リリィは頷き、私の手を握った。
「うん。約束ね」
――その手が、あとで何を隠していたのか。
私は、その時まだ知らなかった。
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皮膚に屋根裏の寒さが戻ってきた。
私は、掌の回路核を見下ろした。
さっきの“約束”の場面、最後の一瞬だけ、記憶が歪んでいた。封印石の影で、リリィの指が何か小瓶を滑らせる。霧の一部を掬い取るような仕草。
(……まさか最初から、持ち帰ってた?)
喉の奥が冷たくなる。
国王と軍務大臣が今日、あんな風になっていた理由が、一本の線で繋がった。
私は笑えなかった。
怒りで震えた。
でも同時に、妙に納得もした。
リリィは昔から、“私が守る前提”で生きていた。
そして私から奪う前提で、私に甘えていた。
私は回路核を布で包み、胸元にしまった。
これが、彼女の嘘を終わらせる鍵になる。
窓の外で、馬の蹄の音が止まる。
宿の前に、見慣れない黒い馬車が停まった。雨の中でも光る紋章――隣国の公爵家のものだと、私は識別できた。王都で何度も見た、戦の匂いがする印。
階段が軋み、屋根裏の扉が開く。
濡れた外套の男がひとり、私を見て言った。
「アリア・ノーラン――その回路の“癖”は、お前のものだな」
私は息を止めた。
名前を呼ばれた。しかも、魔紋のことを知っている。
追われているのか、拾われるのか。
どちらにせよ、私の“追放”は、まだ終わっていない。




