第10話 苛烈な断罪と、真の自由
独立領の境界杭は、まだ新しい石の匂いがした。
冬の終わりの風が草を寝かせ、遠くの川面を薄く震わせる。地図の上では一本の線でしかなかった境界が、現実では重い。線のこちら側と向こう側には、生活があり、税があり、祈りがあり、そして命がある。
私は丘の上で立ち止まり、領内を見渡した。
古い街道が交差し、川が近い。小さな集落が点々とあり、畑はまだ淡い色のまま眠っている。割譲された要衝の城塞には祖国旗がなく、代わりに中立の監査旗が揺れていた。あれは誰の旗でもない。――後戻りの余地を消すための旗だ。
「気に入ったか」
隣で、公爵が淡々と言った。黒い外套が風で鳴る。いつも通り冷たい声だが、今日だけは少しだけ角が丸く聞こえた。
「最適すぎます、あなたに」
私は正直に言う。
「物流、軍事、資源。あなたの利害が丸見え」
「隠す理由がない」
「そういうところは嫌いじゃないですが」
公爵は頷いただけで、それ以上は言わなかった。利害で繋がる相手は、余計な言葉で濁らない。私はその方が息ができる。
使者が近づき、巻物を差し出した。独立領の設置文書。境界の確定。行政権の移譲。署名欄の上に、私の名前がある。
私はペンを取った。インクが紙に染みる。奪われた名前を、今度は自分の意思で刻む。
「……アリア・ノーラン」
声に出すと、まだ少しだけ他人行儀だった。けれど他人行儀でいい。これから自分のものにする。
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独立領の最初の仕事は、看板を立てることじゃなかった。
人が生きるための“回路”を引くことだ。
私は最初に倉庫を一つ借り、臨時工房にした。床に溝を彫り、魔力循環の導線を通す。水路と排水。簡易結界膜。防火の術式。最低限のインフラを最低限の材料で。
祖国ではいつも足りなかった。
ここでは、足りないことを前提にしなくていい。
公爵から資材が届く。中立国の商会が出入りする。学術院の研究員が勝手に図面を覗き、勝手に息を呑む。人が増えれば音が増える。でもそれは生きている音だった。
「ここは何になるんです?」
若い研究員が訊いた。目が強い。技術者の目だ。
「学校」
私は即答した。
「魔導具師の学校。技術を属人化させない。試験は厳しいけれど学費は公費負担です。誰かに依存する仕組みを、ここで終わらせる」
机の上に新しい結界の設計図を広げる。
『アイギス』ではない。もっと簡素で、もっと頑丈で、属人化しない構造。分散、冗長、誤作動しても致命傷にならない設計。派手さはない。派手さは象徴に奪われる。
「名称は?」と訊かれ、私は一瞬だけ迷った。
象徴は嫌いだ。
でも象徴は消えない。なら自分で選ぶ。
「……『ヘリオス』」
「太陽。祈らせるためじゃない。朝が来るって分かるように」
研究員は図面を抱え、頭を下げて去った。私はその背を見送りながら、胸の奥の小さな痛みを確かめた。
自由は軽くない。
守らなければすぐ奪われる。
でも奪われた経験があるから、私は守り方を知っている。
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祖国の裁きは、工房が動き始めた頃に行われた。
私は証人として呼ばれた。技術顧問として。奪われた功績の当事者として。
王都の広場は以前より静かだった。祝祭の旗はない。熱もない。あるのは疲労と恐怖と、薄い怒り。結界の亀裂は応急で抑えられているが、傷跡は残る。民は知ったのだ。祈りが万能ではないことを。象徴が命を守らないことを。
壇上には国王がいた。目に焦点がある。言葉が通じる。軍務大臣も立っている。顔色は悪いが、視線は鋭い。
中立国と監査団の席には記録水晶が並び、結界膜が風を遮っている。言葉が消えない場所。嘘が逃げられない場所。
監査団長が宣言した。
「本審理は、内政裁判に国際監査団が立ち会う形式で行う」
「禁忌使用の件は国際条約により当監査団の監査対象である」
「これより被告人の認否を取る」
その声が落ちた瞬間、二人はまだ“余裕”の顔をしていた。
リリィは白を着ていない。だが「白い振る舞い」だけは捨てていなかった。涙を準備し、声を整え、視線を弱くする。いつもの“守られる顔”。
カイルは背筋を伸ばし、顎を上げる。英雄の立ち方。誰よりも正しい場所に立っていると信じる立ち方。
――その余裕が崩れるまで、そう時間はかからなかった。
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「被告、リリィ」
監査団長が呼び、罪状の読み上げが始まった。
禁忌『レーテの霧』の所持と使用。王権侵害――国王と閣僚への意思改ざん。国政攪乱。国家結界魔導具『アイギス』の開発偽装。証拠隠滅としての記録魔導具破壊。さらに、口封じ未遂の疑い。
最初の一、二項は、リリィも笑っていられた。口角を作り、首を振り、泣き声の準備を整える――いつもの仕草だ。
でも項目が積み上がるにつれ、彼女の呼吸が乱れた。涙の膜が薄くなり、目の焦点が泳ぎ始める。余裕は演技の一部で、演技は現実の前で脆い。
「違う!」
リリィは立ち上がり、声を尖らせた。
「全部違う! 私は民のために祈っただけ! 霧なんて知らないし、口封じなんて——!」
監査団が封印箱を開く。禁忌瓶と残滓波形の写し。甘く腐った匂いが広場に流れ、民衆のざわめきが嫌悪に変わった。
リリィの顔色が変わる。そこで初めて恐怖がはっきり滲んだ。
「……仕込まれたのよ」
言い訳の速度が上がる。
「そう、アリアが——!」
彼女は私を指差した。責任を押し付ければ生き残れると信じている目。
だが監査団長は淡々と遮った。
「記録魔導具の最深層は開発者の署名魔力で封じられていた。解析結果は第三国の学術院により照合済み、捏造の余地はない」
「嘘!」
リリィは叫び、今度は隣のカイルへ矛先を変えた。
「あなたが言ったのよ! 象徴が必要だって! 私に任せろって!」
カイルの眉が跳ねた。
「……口を慎め、リリィ。俺は禁忌など——」
「知らない? ならなんで私の“奇跡”を演じさせたの!」
リリィは泣き笑いの顔で食い下がる。
「私が祈れば直るって言ったの、あなたよ!今さら私のせいにしないで!」
擦り付け合いが始まった。
罪状が読み上げられるたび、二人の言葉は荒れ、民衆の空気は冷える。守ってくれるはずの“象徴”が、自分たちの命を守るために相手を罵る様は、あまりにも醜い。
リリィは最後の逃げ道を見つけたように、再び私へ縋った。声色が急に甘くなる。親友の声色。助けを乞う声色。
「アリア……ねえ、助けて。私、間違えただけなの。怖かったの。あなたがいなくなったら——」
私は壇上から彼女を見下ろし、静かに言った。
「間違えただけで王を操れない。怖かっただけで禁忌に手は出さない」
リリィの泣き仮面が歪む。
そして判決が読み上げられた。
聖女資格の永久剥奪。神殿籍の抹消。真名剥奪――公的記録から名を封ずる。永久魔力拘束。封印施設への終身移送。禁忌封印炉の維持補助に従事。国際監査団監督下で執行。
言葉が一つ落ちるたび、リリィの顔から色が抜けた。
“終身”の響きに、彼女の足が震える。
“真名剥奪”の一語に、口が開いたまま閉じなくなる。
「……嫌」
掠れた声が漏れ、次の瞬間、恐怖が爆発した。
「嫌! こんなの、ひどい! 私は聖女よ! 私がいないと民が——!」
監査団長は冷たい。
「民の名を使うな。お前は民の記憶を弄んだ。だから人々の前には立たせない。二度と操れないように」
リリィは拘束具の光輪に縋りつき、指先を弾かれ、それでもなお叫んだ。
「アリア! お願い! 助けて!私、あなたがいないと——!」
私は一歩も動かない。
「私を必要とするのは、助けが欲しい時だけ?」
その一言で、リリィの顔が固まった。
返せない。返せないまま、拘束の光に沈んでいく。
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次に呼ばれたのがカイルだった。
彼はまだ英雄の姿勢を保とうとした。顎を上げ、視線をまっすぐにして、正しさを体に貼り付ける。だが、その正しさは罪状の読み上げで削れていく。
虚偽断罪の主導。情報統制と司法妨害。国家結界魔導具開発偽装の幇助。国家危殆の責任。口封じ未遂の空気を作ったこと――。
読み上げが進むたび、彼の喉が乾くのが見えた。反論の言葉は出るのに、声が以前のように澄まない。余裕を保てない恐怖が、声の端に混ざる。
「俺は国を守った!」
カイルは反射で叫んだ。
「象徴が折れれば民が崩れる! 俺の判断は必要だった!」
軍務大臣は遮る。
「国防の要を切って、守ったと?虚偽で、作り手を追放した。証拠はある。お前は正気で選んだ」
カイルの目が私を射抜く。そこに後悔はない。支配の残り香がある。
「アリア」
命令口調で言う。
「来い。お前の技術は国のものだ。独立領など認めるな」
民衆のどこかで乾いた笑いが漏れた。
その笑いが、カイルの恐怖をもう一段押し上げる。
彼は矛先を変えた。リリィへ。
「全部、お前の暴走だ。禁忌など知らなかった。俺は——」
拘束具の中のリリィが叫ぶ。
「嘘つき!“真実じゃなく象徴だ”って言ったの、あなた!私を盾にしたのはあなたでしょ!」
「黙れ!」
カイルの声が荒れる。
英雄の声ではない。追い詰められた男の声だ。
二人は罵倒し合い、責任を擦り付け合い、互いの罪を暴露するように言葉を投げ合った。
その醜さが、広場の民衆の怒りを形にする。
そして判決の読み上げが始まった。
爵位剥奪、軍籍剥奪、家名の断絶。
象徴の看板を一つずつ引き剥がすように、言葉は続く。
全財産没収――王都復旧費用へ充当。
叛逆の烙印――公職永久追放、王都中枢と神殿領域への立入永久禁止。
最後に、終身の懲罰任務。緩衝地帯および裂け目監視線での結界杭打ち替え、補給、魔物監視。監査団監督下で執行、逃亡は条約違反として各国が追跡。
読み上げられるたびに、カイルの身体は小さく反応した。喉が鳴り、指が痙攣し、肩が落ちるのを必死に止めようとして、止められない。
“舞台”が消えていく。
“英雄の席”が剥がれていく。
そして“終身”の二文字が落ちた瞬間、彼の余裕は完全に崩れた。
「……待て」
声が落ちる。
「それは、重すぎる」
ようやく出たのは謝罪ではない。保身だ。
カイルは私を見る。初めて“命令”ではない目になる。縋りの目。
「アリア……助けてくれ。お前なら……お前なら、俺を——」
私は一拍置いて、首を傾けた。
「助けて、って?ーーあなたは私を助けなかった。助けなかったどころか、ーー助ける手を切った」
カイルの唇が震えた。言い返したい。だが言い返す言葉がない。
だから彼は最後の悪あがきを選ぶ。
「……違う。間違ってない」
負けを認めない。
「国のためだった」
私は息を吐いた。
「なら、国のために働けばいい。終身で。泥の中で」
拘束具が嵌められる。カイルは腕を振りほどこうとして失敗し、足を踏ん張ろうとして滑り、怒鳴ろうとして声が割れた。格好がつかない。最後まで。
リリィが拘束具の中で叫ぶ。
「ほら! あなたのせいじゃない!全部、あなたが——!」
カイルが噛みつく。
「黙れ、化け物!お前が禁忌を——!」
二人の言葉は、互いを救わない。
救うどころか、さらに沈める。
軍務大臣が淡々と締めた。
「国は、お前たちがいなくても生きる。生きるために、お前たちにふさわしい罰を与えるのだ」
その言葉が広場に落ちた。
かつて私が切られた時と同じ冷たさで。
だが今回は“国防のために”。
裁きは終わった。
私は王都を出た。振り返らない。もう慣れた。
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独立領へ戻る道は、妙に明るかった。
工房では学生が初めての回路を刻んでいた。線が歪み、魔力が暴れ、机が焦げる。怒鳴りたくなるくらい下手だ。でも、私は見守る。
「失敗はいい」
私は言う。
「失敗を隠すのが悪い」
祖国がやったのは失敗の隠蔽だ。象徴のための嘘だ。
私はそれをこの土地のルールにしない。
夕刻、公爵が工房に来た。見学のふりをして全体を点検する目。利害で動く男は、利害が絡む場所に必ず顔を出す。
「順調か」
「順調。人も集まってる。技術者も商会も」
「でも、問題が一つ」
「言え」
私は机の引き出しから封印箱を取り出した。中には監査団が解析のために預けた、霧の残滓波形の写しがある。瓶そのものは厳重保管だが、波形は複製できる。技術者は痕跡から構造を読む。
「レーテの霧の波形、奇妙なの」
「ただの古代魔法じゃない。“供給系”がある」
公爵の目が僅かに鋭くなる。
「供給系?」
「霧が生成されたというより、誰かの意図で”配布”される設計になっている」
公爵は黙った。否定ではない。飲み込む沈黙だ。
私はブローチを机上に置いた。修復して公開し、役目を終えたはずの銀の塊。
「もう一つ。ブローチの最深層に、私の指紋じゃない“継ぎ目”がある。鍵穴が一度だけ覗かれてる」
公爵の声が落ちる。
「誰だ」
「分からない」
「でもリリィじゃない。あの子にそんな技術はない」
つまり、リリィは道具だ。
霧を渡し、使い方を教え、必要なら回収する誰かがいる。
公爵が短く息を吐いた。
「面倒だな」
「面倒よ」
自由を脅かす種類の面倒だ。放っておけば、また誰かが“物語”を配る。記憶を配り、国を動かし、技術を奪う。
公爵が私を見る。
「手を組むか」
「そうね、利害は一致する」
私は淡々と言った。
「私の領土を守るために、この悪しき霧の供給を断つ、あなたは国境の安定を得る」
公爵が頷く。
「なら、私も動こう。協力が必要ならいつでも遠慮なく言え」
「私が遠慮したことが?」
公爵は苦笑いする。
夜、工房の外へ出ると空が澄んでいた。星が見える。祖国の空でも星は見えたはずなのに、今夜の星は違って見えた。たぶん私は初めて、「この場所で生きる」と決めたからだ。
私は手のひらを見下ろした。火傷の痕。削れた指先。
その全部が、誰かの象徴のためじゃなく、自分のためにある。
自由は甘くない。守らなければすぐ奪われる。
でも奪われた経験があるからこそ、私は守り方を知っている。
振り返らない。縋らない。自分を犠牲にして奉仕しない。
代わりに、自分で築く。
私は工房へ戻り、『ヘリオス』の回路図にペンを置いた。
次の戦場は王都の広場ではない。
古代の霧の「供給系」が眠る場所――誰かが世界の記憶を配る場所だ。
そして私は、今度こそ自分の名前でそこへ行き、立ち向かう。
(了)




