国際信州学院大学
長野県某所。鬱蒼とした木々が立ち並び、文明の喧騒を拒絶する静寂に包まれた山奥。
鳥のさえずりさえも躊躇われるような深山幽谷の空気が、突如として切り裂かれた。
ヒュッ、という空気が急激に置換される鋭利な音響と共に、何もない虚空より一人の女が姿を現した。
筮麽だ。
これは彼女が有する数多のコレクションの一つ、一度訪れた場所に瞬間移動する能力による空間跳躍であった。
本来、東京都内の安アパートに籍を置く彼女が、長野県の山中に忽然と出現した国際信州学院大学という陸の孤島へ通学できている理由は、偏にこの至便な能力の恩恵に他ならない。
この能力のオリジナルは、アメリカ合衆国を拠点に活動する著名な男性レポーターのものである。彼はその「世界を跨ぐ足」を用い、紛争地帯からセレブの豪邸まで瞬時に移動してはスクープを連発するメディアの寵児であった。
筮麽がまだ中学生であった頃、彼が来日取材を行っている現場へ野次馬として赴き、運良く彼が能力を行使し消失するその刹那を網膜に焼き付けることに成功したのだ。
彼女の保有する視認した能力を行使する能力の発動条件は、実に繊細かつ厄介な制約を含んでいる。
第一に、該当能力者が能力を行使する場面を肉眼で直視すること。
第二に、その能力の『本質』を正しく理解していること。
つまり、現象の理屈が不可解なままでは模倣は成立しない。例えば、対象が『透明人間になる能力』を使用しているにもかかわらず、筮麽がそれを『瞬間移動している』と誤認して解釈した場合、コピーは失敗に終わる。現象の裏にあるロジック、あるいは魂の形とも呼ぶべき本質を直感的に、あるいは論理的に把握せねばならないのだ。
このレポーターの能力も、ただの瞬間移動と彼女が認識していたならば、コピーは失敗しただろう。
故に、先日ナンパ男から強奪した手から光の剣を出す能力のように、構造が単純明快な能力ほどコピーは容易い。逆に、概念的な干渉や複雑怪奇な発動条件を持つ能力は、習得の難易度が跳ね上がる。
全人類の頂点に立つとも言える力を持ちながら、筮麽は唇を尖らせて内心で不満を垂れる。
(便利なようで不便なんだよねぇ、これ)
実に贅沢極まりない悩みであった。
◆❖◇◇❖◆
その後、筮麽は大学の講義棟に身を置いていた。
彼女が所属するのは、国際コミュニケーション学部フランス語学科。
建学の精神に「日仏友好のUn pontへ・・・」という、どこかインターネット・ミームの香り漂う文言が刻まれたこの学部にて、彼女は死んだ魚のような目で教壇を眺めていた。
講義の内容は、フランス文学における実存主義の変遷について。教授の熱弁は右の耳から左の耳へと素通りし、彼女の脳内では全く別の処理が行われている。
(あ、十七回目)
筮麽は、老教授が口癖である「~であるからして」を発した回数を、正の字を書いてカウントしていた。彼女にとって、この講義における唯一のエンターテインメントはそれだけであった。
昼休み。
キャンパス内の広場には、燦々と太陽が降り注いでいた。その一角にある木陰のベンチにて、筮麽は昼食をとっていた。
否、昼食というにはあまりに狂気的な光景であった。
彼女の膝の上には、テイクアウト用の箱が塔のように積まれている。中身は全て、高カロリーな砂糖と油の塊、ミセスドーナツの主力商品たちだ。
筮麽はリスのように頬を膨らませ、次々とドーナツを口内へ放り込んでいく。
「本当によく食べるねー、筮麽は。見てるこっちが胸焼けしそう」
呆れを含んだ声が、横から飛んでくる。
声の主は、鴨紅柄長。
筮麽と同じフランス語学科に籍を置く同級生である。
小柄で愛らしい顔立ちをしており、水色の髪をサイドテールに結っているのが特徴的だ。そのふんわりと揺れる髪とは裏腹に、彼女の性格は現実的で、常識人の苦労を背負い込んでいる。
筮麽は口の周りに砂糖をつけたまま、もごもごと答えた。
「ん、すぐお腹空くんだよね。いっぱい能力持ってる弊害でさ、基礎代謝がバグってるっていうか、脳が常に糖分を求めてるの。特に甘いものが無いと死んじゃう」
「贅沢な悩みですこと。普通の女子なら三日で激太りコースだよ」
柄長は溜息をつきつつ、持参した手作り弁当の卵焼きを口に運んだ。
彼女の澄んだ金の瞳が、隣の友人を見据える。
「で、あんたさ、一体いくつ能力持ってんのさ。正確な数」
柄長は、筮麽の『真の能力』を知る、世界でも数少ない人物の一人であった。
「えー、わかんない。二千個? くらいから数えるのやめちゃった。いちいち覚えてらんないし、めんどくさくて」
「めんどくさいって、あんたさぁ……。国家機密レベルの話をそんな晩御飯の献立みたいに」
「それより見てよ、昨日かっこいい能力ゲットしてさ」
筮麽は周囲に人気がないことを確認すると、左手をすっと翳した。
ブォン、という低い唸りと共に、昨日のナンパ男から複製した手から光の剣を出す能力が顕現する。紫色のプラズマが剣状に固定され、美しく輝いた。
「おー、綺麗だね。ライトセーバーじゃん」
「でしょ。相手はナンパしてきたチンピラだったけど、能力に罪はないからねー」
筮麽は満足げに剣を霧散させると、再びポン・デ・リングにかぶりついた。
そんな彼女を、柄長は生温かい目で見守る。
二人の付き合いは、入学当初からの二年になる。
百八十五センチメートルという長身に加え、彫刻のように整った美貌を持つ筮麽は、入学早々に学内の有名人となった。しかし、常に何を考えているか読めない虚無的な雰囲気と、自己紹介の際に彼女が披露した身体から触手が生える能力のインパクトがあまりに強烈すぎたため、周囲は恐怖し、結果として筮麽は孤立した。周りの生徒たちは彼女を『美しき化け物』として遠巻きにしていたのだ。
しかし、当の本人はそんな周囲の反応など我関せず、呑気に大学生活を謳歌していた。
そんな彼女に興味を持った柄長が、講義で隣り合わせた際に話しかけたのが全ての始まりだった。
半年も経つ頃には、筮麽は柄長を信頼したのか、あっけらかんと自身の能力の秘密を打ち明けた。当初こそ、神の如き万能の力に戦慄した柄長だったが、その畏怖はすぐに呆れへと変わった。
彼女はどこまでも私利私欲で、どうでもいいことにしか能力を使わず、拍子抜けするほどに無害だったからだ。
「小中高の時はさ、街中とか学校で見かけた能力を片っ端からコピーしてたんだけど、その維持費みたいなのが今来てるんだよねー。まあ、好きな物いっぱい食べれるからプラマイゼロだけど」
「はぁ……」
柄長は箸を置き、真剣な眼差しを向けた。
「私が言うのもあれだけどさ、筮麽、その……「欲」とかは無いわけ?」
筮麽はきょとんとした顔で、首を傾げる。
「欲?」
「そうだよ。その能力があればなんでも出来るじゃん。もったいないって」
「え? 例えば何?」
「ほら、例えばさ……その力で世界中の汚染物質を除去してノーベル賞をもらうとか、あるいは国を作って女王様になるとか、世界征服だって、大富豪だって。もっとこう、スケールの大きいこと!」
柄長の提案に、筮麽は即座に顔をしかめた。
「やだ。めんどくさい」
一刀両断であった。
「責任とか負いたくないし、有名になるとご飯食べる時も写真撮られそうだし。私は今のまま、適当に生きて適当に美味しいもの食べて寝てたい」
目の前の友人の、あまりにも強大すぎる力と、反比例するように矮小な向上心。そのギャップに、柄長は言葉を失った。
その時である。
「おい、亜鳴蛇」
場違いなほどにドスの効いた声が、二人の会話に割って入った。
見上げれば、そこには三人組の女子学生が立っていた。
真ん中に立つリーダー格の女が、腕組みをして筮麽を見下ろしている。派手なメイクに、攻撃的なファッション。
「誰?」
筮麽がドーナツを咀嚼しながら尋ねる。
「河海だよ。デカ触手女」
河海と名乗った女が、憎々しげに吐き捨てた。
「あんた、この前時庵に告られて断ったんだってね」
「あー、この前の彼? だって知らない人だったし、いきなり結婚を前提にとか言われて怖かったから」
筮麽は淡々と答える。
彼女はその人間離れした美貌ゆえに、異性からは極端にモテる。もっとも、その身長と奇矯な言動についてこられる男は少ないが。
先日、学内でも有名な陽キャ男子である時庵という学生に告白された際も、「あ、無理」の一言で秒殺していたのだ。
問題は、この河海が時庵に一方的な想いを寄せていたことであった。完全に逆恨みである。
「こいつ、生意気だなっ。時庵くんの顔に泥を塗りやがって」
「ね、なんかムカつく。調子乗ってんじゃないの?」
河海の両脇を固める取り巻き、黒角と普奈木が追随する。典型的な太鼓持ちムーブである。
「筮麽、行こ。関わるだけ時間の無駄」
「はーい」
柄長が立ち上がり、筮麽も残りのドーナツを口に押し込んで立ち上がる。
だが、河海はそれを許さなかった。
「待て亜鳴蛇っ! 逃げる気かっ!」
河海が右手を突き出すと、その掌からボコボコと質量が増大し、一振りの凶悪な棍棒が形成された。
彼女の能力は、棍棒を出す能力。原始的だが、物理的な破壊力は侮れない。
「私の棍棒を出す能力でボコボコにしてやるよ。その澄ました顔をぐしゃぐしゃにしてやる!」
「あたしは拳を宝石に変える能力!」
黒角が叫び、拳を硬度十のダイヤモンド状に変化させて掲げる。
「私は指先から電気を出す能力だよ! 丸焦げになりなっ!」
普奈木が指先からバチバチと電気を走らせる。
完全にリンチの構え。能力の暴力的使用は条例で禁止されているはずだが、頭に血が上った彼女らには関係ないようだ。
「ちょ、あんたたち! 停学になるよ!」
柄長が息を呑む。
しかし。
「────ッ!?」
次の瞬間、三人の動きが凍りついた。
筮麽は彼女たちの方へ振り向きもせず、ただ背中越しに「気配」だけで制圧したのだ。
彼女の登録上の能力、身体から触手が生える能力。
筮麽のうなじ付近から、突如として無数の触手が噴出した。メッキ加工された金属のように妖しく輝くメタルヴァイオレットの触手。切っ先は鋭利な刃物のように尖っている。
それらが、人間には視認不可能な神速の領域で展開され、河海、黒角、普奈木の三人の眼球ギリギリ、喉元寸前にピタリと突きつけられたのだ。
殺気すら放たず、ただ呼吸をするように行われた圧倒的な暴力の提示。
(相変わらず、出鱈目な速さ……っ!)
柄長はそれを見て、ひくりと頬を引きつらせ、冷や汗を流す。
「……さ、さーせん」
「無理だこれ。死ぬ。こうさーん」
実力差を瞬時に悟った黒角と普奈木は、即座に能力を解除し、両手を挙げて降参した。生存本能が働いたのだ。
「お、お前ら……っ! 裏切るのか! この触手女ぁぁっ」
しかし、リーダーの河海だけは引かなかった。恐怖よりも嫉妬と怒りが勝ったのか、勇敢にも、あるいは無謀にも棍棒を振り上げ、筮麽の後頭部へと殴りかかる。
「筮麽、危な────」
柄長が悲鳴を上げる。
だが、筮麽は振り返ることすらしなかった。
「あ、もらいっ」
彼女が気の抜けた声を出すと同時、一本の触手が生き物のようにしなり、河海の振り下ろした棍棒をヒョイと絡め取った。
「あっ!?」
手から武器を奪われ、河海はたたらを踏む。
「これもらうね。柄長、行こー」
筮麽は彼女の方へ振り返り、一言。奪い取った棍棒を触手で器用に持ち上げ、何事もなかったかのように歩き出した。
「あ、うん。……じゃあね?」
柄長は困惑しつつも、硬直する三人組に軽く会釈をし、友人の後を追う。
「……っ」
完全に無力化され、プライドを粉々に粉砕された河海は、わなわなと震えていた。
「お、覚えてろ亜鳴蛇っ! 次はこうはいかないからなっ!」
典型的な捨て台詞を吐き、河海はスタコラサッサと脱兎の如く逃げ出した。
「まってよ河海! 置いてかないで!」
黒角と普奈木も慌てて彼女を追いかけ、三人の姿はキャンパスの彼方へと消えていった。
静寂が戻った並木道。
柄長は、自分より頭ひとつ以上は高い友人の横顔を見上げて言った。
「……ねえ、その棍棒どうするの?」
筮麽の手に握られた、無骨な棍棒。河海の能力によって生成されたそれは、彼女の意識が離れても実体を保っているようだ。
「んー、質屋で売れるかな? 材質良さそうだし。高く売れたら、あの河海ってやつの能力も後で覚えよっかな」
棍棒を値踏みするように眺めながら、筮麽はいつもの調子で呑気なことを言う。
最強の能力者が考えることは、どこまでも小市民的で、そして平和的であった。
「……あははー」
柄長の口からは、乾いた笑い声しか出てこなかった。




