怠惰な日常
五
東京都某所。
無機質なコンクリートジャングルにぽつんと取り残されたかのような、築年数不詳の木造モルタル建築。その外観は、昭和という旧時代の遺物と呼ぶに相応しい侘び寂びを漂わせている。
しかし、その一室、六畳の一DKという極めて庶民的な空間。内部。そこには、居住者の規格外な生態を示す異常な光景が広がっていた。
まず目に飛び込んでくるのは、開け放たれた押し入れに鎮座する異形の物体。それは天井に届かんばかりの威容を誇る、巨大なポリタンクの群れ。中には高級ミネラルウォーターであるフィジーウォーターが満々と湛えられており、それぞれの容器の底部には、ご丁寧にも後付けの蛇口が設置されている。さらにその傍らには、カートン買いされた多種多様な銘柄の紙巻きタバコが、さながら万里の長城の如く山積みとなっていた。
生活空間の中心たるリビングに目を向ければ、そこに鎮座するのは安価な折りたたみ机。その天板の半分は、大衆的なドーナツ店、ミセスドーナツの紙箱によって占拠されている。エンゼルフレンチやイーストドーナツといった甘味の暴力が、無造作に積み上げられている。そして机のもう半分には、かつて高級な焼海苔が収められていた豪奢な金色の筒缶が置かれ、その内部には無数の紙巻きタバコの吸殻が死骸のように折り重なっていた。
圧倒的なまでのニコチンとタールの気配。
しかし奇妙なことに、この閉鎖空間を満たしているのはヤニの悪臭ではなく、フローラルなアロエの馥郁たる芳香であった。筮麽の能力により、室内の空気を強引に浄化し続けているのだ。
六畳の間。万年床と化した布団の上で、二人の女の影がごろんちょと怠惰に転がっていた。
「んー、美味しい。やっぱりミセドのドーナツは最高。糖分が脳の髄まで染み渡るというか……」
部屋の主である筮麽の、春の陽気のようにぼけーっとした、底抜けに弛緩した声音が室内に響いた。
彼女はだらしなく布団に寝転がったまま、指一本動かそうとしない。ただ虚空を見つめる虚ろな瞳の先で、念動力によって宙に浮かべられたエンゼルフレンチが、彼女の口元へと自動的に運ばれ、咀嚼されていく。百八十五センチメートルという長身と、神が彫刻したかのような美貌、そして豊かな双丘を持ちながら、その振る舞いは無為徒食を体現する妖怪の如き有様。あまりにも、だらしがない。
「相変わらずよく食べますこと。胃袋の底にブラックホールでも飼ってるんじゃないの?」
そう呆れ混じりに返したのは、布団の端にちょこんと座り足を伸ばした柄長。彼女の指先。そこには、旧時代の紙巻きタバコとは異なる、洗練されたフォルムの加熱式電子タバコ、iQOSが握られていた。
彼女が好んで肺腑に流し込む銘柄はセンティア・ピュア・ティーク。ほんのりと漂うカフェオレの風味。室内のアロエの香りと奇妙に調和している。
本日の大学の講義は、両名ともに午前の一時限目のみで終了し、以後は完全なる自由時間、フリータイムの恩恵を享受していた。
柄長のアルバイトも本日は休業日。故に彼女は、筮麽の有する一度訪れた場所に瞬間移動する能力と二人で一緒に瞬間移動する能力の併用によって、長野の大学からここ東京の安アパートへと、物理的距離と交通費を完全に無視した跳躍を果たし、遊びに来ていたのだ。
「だってすぐお腹減るんだもん。省エネ設計の柄長には到底分からない、切実な悩みだよ」
「はいはい、贅沢贅沢。燃費が悪い高級車みたいなこと言ってんじゃないわっ」
紫煙をくゆらせながら、柄長は軽く鼻で笑った。
筮麽の有する、視認した能力を行使する能力。それは正しく神の御業に等しい万能の力であるが、代償が存在しないわけではない。彼女本人は自身の保有する異能の数を二千個から数えるのをとうの昔に放棄しているが、現在その総数は人智を絶するとんでもない数へと膨れ上がっている。その無数の能力群を体内に内包し、維持するだけでも、彼女の肉体は常人とは比較にならない莫大なエネルギーを消費する。
その結果、彼女の基礎代謝は異常な数値を叩き出し、常に枯渇するエネルギー、特に糖分を補給すべく、筮麽は文字通り息をするように甘いものを貪り続ける宿命を背負っていた。
「てかさ、今日の本来の目的、まさか忘れてないよね? ケンタッキー食べ放題に行くんでしょ」
柄長はジト目を向け、宙を舞う二個目のイーストドーナツを非難がましく見つめた。
そう、本日の彼女たちの主たる目的は、ここ帝都東京の限定店舗で開催されている、ケンタッキーフライドチキンの食べ放題イベントへの参戦。参加費は大人料金三千円と、貧乏学生の柄長にとっては少々尻込みする価格設定であったが、今回は「臨時収入があったから」と筮麽が奢りを申し出てくれたため、タダ飯の誘惑に抗えず同行することにしたのだ。
大学の講義を終えて直行したため、現在の時刻は午前十時半を少し回ったところ。
目的の店舗の開店時間は十一時であるが、開店直後の第一陣や昼食のピークタイムは凄惨な混雑と待ち時間が予想される。故に彼女たちは、客足が落ち着くであろう午後からの参戦を企図し、それまではこの薄暗いアパートの一室で、ひたすらにぐーたらと時間を浪費する計画を立てていた。
それにも関わらず、眼前の友人は山と積まれたドーナツを際限なく胃袋へと放り込んでいる。これでは肝心の食べ放題で元が取れないではないか。
「ん? あー平気平気。どうせ一時間もすれば、またすぐお腹空くし。それにね」
筮麽がドーナツを飲み込み、ぼんやりとした口調でそう言い放った直後。
突如として、彼女の豊満な肉体から、眩いばかりの光の帯が立ち昇り始めた。
それは北極圏の夜空を彩る極光を彷彿とさせる、美しきオーロラ。ゆらゆらと神秘的な軌跡を描きながら、エメラルドグリーンからアメジストの紫、さらにはルビーの赤へと、万華鏡のように様々な色彩へと変色し、薄暗い六畳間を幻想的に照らし出している。
「うわっ! すごい、綺麗……! え、なにこれ。…で、これなんの能力?」
予期せぬ光のページェントに、柄長は持っていたiQOSを落としそうになりながら、思わず琥珀色の瞳を輝かせた。
「食べたものをオーロラに変える能力だよ。最近手に入れたコレクションの一つなんだけどさ。すごい綺麗だよねぇ。これのおかげで、食べたものが全部光になっちゃうから、トイレも行かなくていいんだよ」
まるで今日の天気でも語るかのように、どこか他人事で呑気に解説する筮麽。
「へぇー。すっごい便利っ! 体型維持しなきゃいけないアイドルとかモデルが、大金積んででもめっちゃ欲しがりそうな能力じゃないっ!」
感嘆の声を漏らす。しかし当の本人の表情。どこか不満げに歪んでいた。
「でもさ、いい事ばっかりじゃないんだよ。これ、食べ物の質量、栄養素、カロリーも全部をオーロラに変えて放出しゃうから、結局またすぐにお腹空いちゃうんだよね。私的には、燃費が悪化するだけであんまりお得感はないなぁ」
そう、この異能は摂取した熱量すらも全て美しい光へと変換し、体外へ排泄してしまう。太ることを気にせずいくらでも美食を堪能でき、さらには幻想的な光の衣を纏えるという点では至高の能力であるが、莫大な生命エネルギーを恒常的に要求される筮麽の肉体からすれば、摂取カロリーがゼロになるというのは死活問題に近い。
「いやいや、筮麽のことなんだから、消化吸収するカロリーの部分と、オーロラを出す部分だけを分離させて、都合よく使えばいいじゃん。模倣という能力なら概念すら自由自在に弄れるんでしょ?」
至極真っ当な正論を突きつけ、ジト目で返す。
筮麽の有する力は、ただ能力をコピーするだけには留まらない。能力の構造そのものに干渉し、改変し、融合させることができるのだ。
事実、彼女が公的機関に登録している戸籍上の能力である身体から触手が生える能力も、生まれ持ったものではない。それは彼女が過去に採取した複数の異能を、幾重にも掛け合わせ、複雑なパズルを組み上げるようにして創り出した、筮麽オリジナルの人工能力。
「めんどい」
だが、最強の異能者はその提案を即座に、かつ無慈悲に一刀両断した。
「出来るけど、面倒くさすぎるんだよ。能力の概念の変質って、本当に細かい調整が必要で大変なんだから。昔やったことあるけど、変にいじって能力の出力がおかしくなったことあったし」
筮麽は過去のトラウマでも思い出したのか、ただでさえ虚ろな瞳をさらに遠くの虚空へと向けた。
「なるほどね。……例えば、どんな感じに失敗したの?」
柄長の好奇心を含んだ問いに、筮麽はぽつりぽつりと語り始めた。
「私がまだ幼稚園の頃の話なんだけどね。今の触手の能力を作ってた時に、その構成素材として混ぜた能力の一つに、色を変える能力があったの。で、触手のかっこいい色として紫色だけを抽出しようとしたら、調整に失敗して、なんかドブ泥みたいな濁った色だけが抽出されて固定されちゃったんだよね。幸い、元の能力の持ち主が同じ幼稚園の子だったから、次の日また幼稚園に行って、もう一回コピーしなおして事なきを得たけどね」
そう述懐しながら、筮麽は自身の左手の人差し指をスッと持ち上げた。
刹那、彼女の白魚のような指先がドロリと融解し、瞬く間にメッキ加工を施したような、艶やかで毒々しいメタルヴァイオレット色の鋭利な触手へと変貌を遂げる。
彼女はそのしなやかな触手の先端で、器用に三つ目のドーナツを串刺しにし、自らの口へと運んだ。その間も、彼女の身体からは絶え間なく、カロリーを代償とした極彩色のオーロラが立ち上り続けている。
「へぇー、幼稚園児の頃からそんなマッドサイエンティストみたいなことしてたんだ……。あ、ねぇ、写真撮っていい? そのオーロラだけ。私の電波でテクノロジーを操る能力で、スマホにガチガチのファイヤーウォールは貼るし、ネットには絶対繋がないようにするからさ」
柄長がホログラム・フォンを起動させようとするが、筮麽は面倒くさそうに首を横に振った。
「え、ダメだよ。私、表向きには身体から触手が生える能力ってことになってるし。君の能力のセキュリティを疑うわけじゃないけど、もし万が一データが流出したりしたら、後処理がめちゃくちゃ面倒くさいことになる」
自分が世界中の国、研究機関や裏社会からマークされるという重大な懸念からではなく、ただ単純に「面倒くさい」という一点張りで断るのが、いかにも彼女らしい。
「ま、それもそっか。ごめんごめん、忘れて」
直ぐに引き下がり、端末の画面を落とした。彼女とて、友人の怠惰な日常を脅かすつもりは毛頭ない。
「……ちなみにだけど、そのオーロラに変える能力の、元の持ち主ってどんな人だったの? やっぱり綺麗な女の人とか?」
目の前で幻想的な光を放出し続ける筮麽を眺めながら、純粋な疑問を口にした。
筮麽はドーナツを咀嚼し終えると、ふうむ、と少しだけ記憶を探る素振りを見せ、あっさりと答えた。
「んーと、その辺歩いてた、頭の薄い中年のおっさんだったよ」
「ぷっ! あはははっ! それじゃ絶対アイドルにはなれないねっ!」
想像を絶するギャップ。くたびれた中年男性から立ち昇るオーロラ。シュール極まりない光景を想像し、柄長は腹を抱えて笑った
「でもさ、その能力のお陰か、年齢の割には無駄な脂肪が一切ない、すごく引き締まった体してたけどね。私とは全然違うベクトルで、どれだけ暴飲暴食しても太らない、食べまくれるいい能力だとは思うけど……やっぱり燃費がなぁ」
筮麽は呑気にそう評し、オーロラの光に照らされながら四つ目のドーナツへと手を伸ばした。
ふと、柄長は思い出したように、吸い終わったiQOSのスティックを灰皿代わりの筒缶へと捨て、真顔を作った。
「……ところでさ。前に言ってた、能力共有の件はどうなったの? 私がいくらタバコ吸っても肺が綺麗になるっていう、病気にならない能力のやつ」
その問いかけが落ちた瞬間。
筮麽の動きが、以前の柄長のアパートでのやり取りの時と同様に、ピタリと停止した。
「……せ、誠意、継続中……」
どこか明後日の方向へと目を泳がせ、どもりながら放たれたその言葉。
柄長は即座に悟った。あ、ダメだなこりゃ、と。
恐らく、いや間違いなく、彼女はこの数日間、一切その作業に手をつけていない。
柄長は深く、ひたすらに深い溜息を一つ吐き出すと、無言のまま新しいセンティアのスティックをデバイスに突き刺し、再び紫煙を肺の奥底へと吸い込んだ。
部屋には、オーロラの神秘的な輝きと、相反するようなアロエの香り、そして底知れぬ倦怠感だけが、静かに満ちていた。
その後、山積みとなった甘味の残骸を片付けることもせず、筮麽と柄長は万年床の上に横並びに座り込み、食後の紫煙をくゆらせていた。
柄長が持っているのは、相も変わらずiQOS。銘柄はセンティア・ピュア・ティーク。対する筮麽の口元には、毒々しい漆黒の巻紙が特徴的な紙巻きタバコ、ブラックデビル・モカバニラが咥えられていた。濃厚な甘い香りが、彼女の吐き出す煙と共に室内に拡散していく。
「……にしてもさ、この狭い部屋の中で、一切の遠慮もなくタバコをバカスカ吸える環境って、本当に便利だよね、筮麽は。壁紙にヤニの色も付かないし、服もヤニ臭くならないし。むしろ、部屋中がこんなに良い匂いに満たされてるなんてさ」
柄長が、深く煙を吸い込みながら感心したように言った。
そう、この築年数不詳のボロアパートの一室は、ヘビースモーカーの筮麽が居座っているにも関わらず、空気清浄機一つ置かれていない。それなのに、タバコ特有の悪臭は一切存在せず、常にフローラルなアロエの香りで満ちているのだ。
それは偏に、筮麽の有する悪臭を消す能力と、アロエの香りを出す能力という、二つの異能が常時発動している恩恵。
「でしょ? 快適空間の維持には妥協しない主義だからね。でも、最近ちょっとアロエの香りにも飽きてきちゃってさ。今は匂いにも色んなバリエーションを持たせたいから、手頃な着香系の能力を持ってる奴を探してるところなんだよねー」
ふんす、と鼻息を荒くして自慢げに語る筮麽。
全人類を平伏させるほどの神の如き万能の力を有していながら、彼女はその能力の矢印を「いかに自堕落で快適な引きこもり生活を送るか」という、己の居住空間の最適化にのみ向けている。
「へぇ、そうなんだ。じゃあ次はブルーベリーの香りがいいかな。私、あのガムみたいな甘ったるい匂い、結構好きだし」
何気なくリクエストを飛ばすと、
「おっけー。了解。ブルーベリー系ね、任せといて」
筮麽は二つ返事で快諾した。
柄長。吸いきったiQOSのスティックを、灰皿代わりの高級海苔の筒缶へと放り込み、手慣れた動作で二本目への装填作業へと移る。
一方の筮麽は、モカバニラの煙を吸い込み、口の中で転がし、タバコの味を最大限に味わいながら、またしても持ち前の「虚無の表情」を浮かべ、焦点の合わない瞳で虚空をぼんやりと見つめていた。
と思いきや、
「……あ、これいいな。もらい」
彼女が唐突にそう呟いた直後。
ぽっ、と。彼女の指先から、夏の夜を彩る蛍火のような淡い光球が生み出され、ふらふらと空中を漂い始めたのだ。
「おっ。なんか幻想的でいいね、これ。……お、あっちの奴もかっこいいなー。これも貰おっと」
次に彼女が呟いた瞬間、今度は何もない空中にシュンッ! と鋭い風切り音と共に、中世ヨーロッパの騎士が振るうような重厚な両刃の剣───グラディウスの剣が出現した。筮麽はそれを、いつの間にか右腕から生やしていたメタルヴァイオレット色の触手で器用につまみ上げ、しげしげと観察している。
「……何してんの、あんた?」
柄長はiQOSを咥えたまま、半ば呆れ果てたようなジト目を向けた。
「ん? 見て分かんない? 能力収集だよ」
筮麽はさも当然の日常風景であるかのように、平然と答えた。
「いや、見て分かるけども。え? あんたのそのデタラメな模倣能力って、対象を直接視認しないとコピー出来ないっていう制約があったんじゃなかったの? ここ、密室なんだけど」
至極真っ当な指摘。それに対し、筮麽は悪びれる様子もなく種明かしをした。
「んー? あー、それね。実は最近、ちょっと便利な千里眼の能力を手に入れてね。それで自宅の布団の中から視界だけ外に飛ばして、街中を適当にスクロールして、なんかいい感じの能力とか使えそうだったりする能力を見つけたら、片っ端から貰ってるってわけ」
あっけらかんと言い放ち、紫煙をふぅわぁと天井に向けて吐き出した。
「…………マジかよ」
柄長は思わず絶句し、iQOSを落としそうになった。
筮麽が少し前に手に入れたという、千里先を見通す能力。つまり、この怠惰の化身は、自宅の万年床から一歩も動くことなく、文字通り居ながらにして、日本各地中の能力をウィンドウショッピング感覚で無限にコピー・アンド・ペーストし続けているということになる。
「まぁ、元の持ち主の能力の出力は、千里眼とは名ばかりで、せいぜい半径数キロメートル程度しか見通せないショボい代物だったんだけどね。だから、私が持ってる他の視力強化系とか空間認識拡張系の能力をいくつか混ぜて、魔改造して強化しておいた。今は大体、日本全土ならどこでもリアルタイムで見渡せるよ」
「…………」
もはや、ツッコミを入れる気力すら喪失する。完全に言葉を失っていた。そのままポカンと口を開け、眼前の規格外生物を石像のように見つめ、固まってしまう。
「んー? どしたの柄長、フリーズして」
彼女は宙に浮かぶグラディウスの剣をパキッと空間ごと消失させ、呑気な声で尋ねた。そして、黒いリング状の境界線で囲まれた小型のワープゲートを空中に開き、その座標を灰皿の筒缶の直上へと設定すると、根元まで吸いきったブラックデビルの吸殻をポイと投げ捨てた。
真横に座る、濃桔梗色の髪の女、亜鳴蛇筮麽。
彼女の能力保有数に上限という概念は存在せず、その力は現在進行形で、指数関数的にインフレーションを続けている。
だが、恐ろしいことに、いや、ある意味では幸運なことに、筮麽の精神性はどこまでも小市民的であり、徹底して怠惰。
彼女は、その神の如き全能の力を、己の欲望の赴くまま、ひたすらに「くだらないこと」にしか消費しない。
例えば、夏場に蚊を自動でレーザー迎撃する結界を張ったり。
例えば、寝転がったまま冷蔵庫のプリンを念動力で口まで運んだり。
例えば、お釣りの計算が面倒だからと、自身の脳内に直接暗算結果を表示させたり。
彼女には、この全人類が異能者という混沌の世界を変革する大義もなければ、滅ぼす悪意も、支配する野望も、毛頭存在しない。ただひたすらに、その無敵の能力を駆使して、安全圏で惰眠を貪り、美味しいものを食べることしか考えていないのだ。
「ねぇ、筮麽」
「なにさ?」
柄長は、長年付き合ってきた中で、ずっと心の奥底に封印していた、ある一つの疑念を思わず口にしてしまった。
「……もし、仮にもしも、の話なんだけどさ。あんたが本気で、この世界を滅ぼそうとしたら、出来そう? ……出来るとしたら、一体どれくらいの日数がかかりそう?」
冗談めかした口調を装いながらも、その瞳には微かな緊張の色が走っていた。
ポカンとした顔で、
「え? なんでそんな物騒なこと聞くのさ?」
と訊き返すが、柄長は、
「いいから、思考実験だよ」
と促した。
「んー……世界征服とか人類滅亡ねぇ……」
筮麽は面倒くさそうにぼやきながら、箱から新しいブラックデビルをもう一本取り出した。そして、立てた左手の人差し指を、パキパキという音と共に金属製のライターに変化させた。人差し指をライターに変える能力。
カチッ、とその指先からぽっと小さな炎を灯し、タバコに火をつける。ゆっくりと煙を口腔に満たし、紫煙を吐き出した。
すると、空中に漂うその煙は、彼女の意思に呼応するように、まるで生き物のようにうねり、形を変え始めた。煙を少し動かす能力だ。
その白灰色の軌跡が空中で静止し、一つの数字を形作った。
〝3〟。
「…三日、かな」
今日の夕飯の献立を決めるような、至極平坦な声でそう言った。
「……は?」
柄長の喉から、間抜けな声が漏れる。
「三日もあれば出来るかなって。とりあえず、適当に世界中の主要都市にテレポートしまくって、私が持ってる国家指定危険能力クラスの広範囲殲滅系の能力で、適当に辺り一帯を更地に変え続ければ、三日くらいで人類社会のインフラは完全に崩壊すると思うよ」
世界崩壊のタイムアタックを、事もなげに語る美女。
しかし、空中に浮かぶ煙の数字が、ふわりと形を変え、〝4〟という数字に変化した。
「……いや、待てよ。四日かな? いくら私でも、海外の対能力者精鋭部隊───例えばアメリカの対能力者特殊制圧部隊なんかが出張ってきたら、少しは時間取られるかもしれないし……柄長みたいに、二重属性とか、他にも多重属性の強力な能力保有者も世界には結構隠れてるだろうしね。抵抗されると面倒だな。……いや、だったら先に広域精神支配系の能力を使うか、攻撃系の能力持ってる奴らを片っ端からコピーして、後は洗脳とかで同士討ちさせればいいかな?」
ぶつぶつと、世界を終わらせるためのシミュレーションを真顔で構築し始める筮麽。
柄長は、もはや返す言葉を完全に喪失していた。戦慄を通り越して、ある種の畏敬の念すら抱きそうになる。
だが、ぱっ、と。空中の煙の数字が霧散した。
「ま、そんな疲れること、絶対しないし、する気も、する意味もないけどね。第一、めちゃくちゃ面倒くさいじゃん。それに、人類滅ぼしちゃったら、世界中の美味しいスイーツも料理も二度と食べれなくなっちゃうし。それは困る」
再び虚空を眺めながら、人類の存亡をスイーツや料理と天秤にかけて、あっさりと平和主義を選択した。
そして、またしても千里眼で新たな獲物を見つけたのか。
「おっ」
彼女の右手からは、春の訪れを告げるタラの芽がにょきにょきと芽吹き始めた。同時に、左手からは絶対零度の冷気が纏われ、パキパキという音と共に分厚い氷の装甲で覆われていく。
植物成長能力と、氷結能力の同時発動。
自らの両手を交互にぼーっと眺め、「おー、すごいなー。なんかアバンギャルドだねー」と、まるで幼稚園児のような純真な声で呟いている。
そのあまりにも間抜けな姿を見て、柄長の中に渦巻いていた底知れぬ恐怖は、見事に毒気を抜かれて消え去った。
「……はぁ。筮麽が筮麽で良かったよ、本当に」
柄長は心底安堵したようにそう言うと、タバコの煙を深く吐き出し、筮麽の奇行に対して呆れたような、しかしどこか慈愛に満ちた笑みを零した。
「ん? どういう意味さ?」
首を傾げる筮麽を尻目に、柄長は立ち上がり、iQOSの吸殻を筒缶へと放り投げた。
時計の針は、すでに昼の十三時を回ろうとしている。
「そろそろ行くよ、筮麽。ケンタッキー・フライド・チキン討伐戦の時間だ」
「おっ」
その言葉を聞いた瞬間、筮麽の虚ろな瞳に、明確な闘志の炎が宿った。彼女はむっくりと万年床から立ち上がる。
「やっと十三時かよ。腹ぺこだわ、本当に。胃袋が背中とくっつきそう」
柄長も軽く伸びをして、戦闘態勢を整える。
「制限時間は八十分。あの店内に存在するチキンというチキンを、骨の髄まで食べ尽くしてやる」
筮麽の決意表明と共に、彼女の全身から再び極彩色のオーロラが猛烈な勢いで立ち上り始めた。カロリー消費能力のフル稼働。それはもはや、胃袋の容量限界への挑戦ではなく、質量保存の法則に対する宣戦布告のようだ。
◆❖◇◇❖◆
薄暗いアパートを後にして外へ出ると、初夏の強い日差しが二人の肌を容赦なく照りつけた。
目的のケンタッキー店舗へ向けて、二人は大通りをとぼとぼと歩いていく。
スーパーモデルすら霞むほどの長身と、重力に逆らう豊満な胸部、そして息を呑むほどの美貌を誇る筮麽。
その隣を歩くのは、百五十三センチという小柄な体躯に、サイドテールを揺らす愛らしい顔立ちの柄長。
この極端な凸凹コンビが街を歩けば、当然のように周囲の耳目を集めることになる。
「おい見ろよ、あの背の高い子……モデルかな? すっげぇ美人……」
「隣の小っちゃい子も可愛くね? なんか妖精みたい」
「でもあの長身の子、胸ヤバくない? どうなってんのあれ……」
「……なんかオーラみたいなの出てない? 強者というか、大物感あるというか……」
すれ違う人々が、男女問わず足を止め、ひそひそと囁き交わしている。
その視線の大部分が、隣の規格外の巨女へと注がれていることに、柄長は微かな劣等感を刺激されつつも、同時に呆れ果てていた。
(当の本人は、頭の中チキンのことしかないのにね……)
気を取り直して。
「よし、私も今日は限界までいっぱい食べちゃおうかな。いつもいつも、誰かさんに異常な額の食費を奢らされてるし」
柄長は、隣を歩く筮麽をじとーっ、と恨みがましい目で見上げた。
「?」
当の筮麽は、純粋な疑問符を浮かべたような顔で首を傾げる。だが、その美しい瞳は、明後日の方向へと見事に泳いでいた。
「……いいじゃん別に。私、いつもタダで長野から東京とか、日本各地に全国旅行させてあげてるし、この前だってフィジーウォーターの無限供給装置だってプレゼントしてあげたんだし。持ちつ持たれつでしょ」
目を逸らしながら、必死の自己弁護を展開する。
「んまぁ、交通費浮いてるのはめちゃくちゃ感謝してるけどさ。あんた、一緒にファミレスとか行く度に、毎回お会計が万超えるんだもん。チェーン店だよ? いくらなんでも食い過ぎでしょ。高級フレンチのフルコースかっつーの」
「あー…。ほら、あそこっ。カーネル・サンダースおじさんが呼んでるっ。早く行こ、急がないとお腹空いてしんじゃうー」
己の異常なエンゲル係数に関する痛い指摘を躱すべく、筮麽は長い脚を活かして、逃げるようにせかせかと歩調を速めた。
「あっ、待てっ! おい、足速いって! 一歩のストライドが違いすぎるんだよ、この足長おばけっ!」
柄長は慌てて小走りで、初夏の日差しの中、友人の大きな背中を追いかけていった。




