河海斬呼は無自覚リア充
鉛色の雲が垂れ込め、湿度を含んだ生温い風が吹き抜ける国際信州学院大学。
昼休みを目前に控えたキャンパス内は、気圧の低下に呼応するかのように、どこか倦怠感を帯びた空気に包まれていた。
講義を終え、次の教室へと移動する学生たちの足取りは重い。湿気で髪がうねるのを気にする女子学生、気だるげに欠伸を噛み殺す男子学生、あるいは廊下のベンチで死んだ魚のような目をしている留年生たち。
そんな淀んだ空気を切り裂くように、怨嗟の声が響いた。
「……亜鳴蛇のやつ……絶対許さないぃぃ~~っ!」
その声の主は、時代錯誤な長ランを思わせる改造制服(コスプレではない、私服である)に身を包み、金髪を逆立てた小柄な少女、河海であった。
かつて、意中の相手である時庵を振ったという理不尽極まりない理由で亜鳴蛇筮麽に因縁をつけ、あえなく返り討ちに遭った彼女である。
さらには、亜鳴蛇の金魚のフンと侮っていた鴨紅柄長にさえ、その圧倒的な雷撃の前に戦意を喪失させられたばかりだ。
だが、彼女の辞書に「学習」や「諦観」という文字はないらしい。
なお、本日は亜鳴蛇も柄長も大学には来ていない。最強の能力者は単位ギリギリの出席率で知られ、柄長もまた、必要な講義がない日は自宅で平和に過ごすのを常としているからだ。
「……まだやるつもりなの?」
呆れ果てた声を出したのは、茶髪ボブカットの黒角鏡乎である。
「そうだよ……。正直、あの化け物たちに勝てるビジョンが、これっぽっちも思い浮かばないんだけど」
同意するように溜息をつくのは、オレンジ髪の普並木杏璃だ。
彼女たちは表向きこそ河海の忠実な取り巻きとして振る舞っているが、その実、リーダーのいない隙に敵対勢力である柄長とランチを共にするほどの仲になっている。
だが、河海の前ではあくまで「打倒・亜鳴蛇派閥」の一員として振る舞わねばならない。この二重生活もなかなか骨が折れるものであった。
河海は二人の冷ややかな視線など意に介さず、鼻息を荒くして捲し立てる。
「当たり前でしょっ! 私のプライドはズタズタなんだよっ! 次は絶対に負けないんだからっ!」
「はいはい」
「元気だねぇ」
二人は適当に相槌を打つ。
「でもどうすんのさ……。私ら三人、あくまで単一属性でしょ? あの二人組、どっちも複数属性じゃん」
普並木がもっともな指摘をする。
「亜鳴蛇は、あの触手を刃物みたいに鋭利にしたり、ガムみたいに粘着質にしたり、分裂させたりできる多重属性でしょ? それに、えな……鴨紅だって、高出力の電波とテクノロジー操作の二重属性だし」
危うく「柄長」と呼びそうになり、普並木は慌てて咳払いで誤魔化した。
亜鳴蛇の能力の本質が「視認した能力の即座コピー」であることなど知る由もない彼女たちにとって、あの変幻自在の触手は「触手操作・形状変化・変色」などを併せ持つ多重属性の産物として認識されていた。
いずれにせよ、勝ち目がないことに変わりはない。
「大丈夫大丈夫。作戦は考えてあるっ」
河海がニヤリと不敵な笑みを浮かべ、胸を張った。
「……不意打ちとか?」
普並木が恐る恐る尋ねる。
「な訳ないでしょっ! 正々堂々と正面から叩き潰さなきゃ、私の気が済まないんだからっ!」
河海は即座に否定した。その無駄に高い潔癖さが、彼女の敗因の十割を占めていることに本人は気付いていない。
「三対二? いや、また返り討ちになる気しかしないけど……」
黒角が至極真っ当な懸念を口にし、普並木も首がもげるほど頷く。
「いや、狙うのは亜鳴蛇の奴が一人の時だっ。私らはみんな近距離タイプの能力でしょ? 遠距離から高圧電流や電波を飛ばしてくる鴨紅とは相性が悪すぎるっ」
「いや、相性以前の問題な気がするけど……」
普並木が微妙な顔で呟く。発電所並みの電力を持つ柄長も脅威だが、物理法則を無視したような動きをする亜鳴蛇の方が、近接戦闘においては遥かに絶望的である。
河海は聞く耳を持たず、ビシッと黒角を指差した。
「まず黒角っ!」
「……あたし?」
「そう。まず、あんたの拳を宝石に変える能力で、亜鳴蛇の触手を防ぐっ! ダイヤモンドならあの触手でも切れないはず!」
「はぁ……」
黒角は気のない返事をする。確かに硬度は高いが、相手は鞭のようにしなる触手だ。拳で受け止めたところで、体に巻き付かれれば終わりである。
「次、普並木っ!」
河海の指先が、今度は普並木に向けられる。
「ど、どうするの?」
普並木はおどおどと身を引いた。
「黒角が防いでいるその隙に、死角から亜鳴蛇にスタンガン! 電気で痺れさせて動きを止める!」
「……あの化け物が、私のスタンガン程度で止まるとは思えないんだけど……」
普並木は小声で反論する。
柄長の放つ雷撃を見た彼女にとって、自分の指先から出る電気など静電気に毛が生えた程度のものでしかない。あれを食らっても平気そうな亜鳴蛇に、自分の攻撃が通じるとは到底思えなかった。
「そしてっ! 動きを止めたところで、私の棍棒を出す能力でボコすっ! 完膚なきまでにっ!」
河海は自身の右手を虚空に掲げた。
シュン、という軽快な音と共に、凶悪なスパイクのついた金属バットのような棍棒が出現する。彼女はそれを高く振り上げ、勝利のポーズを決めた。
一瞬の沈黙。
そして、堰を切ったように二人の不満が爆発した。
「てか、あたしの負担でかすぎない!? そもそも亜鳴蛇の触手を防げる気がしないんだけどっ! 初めての時、反応すら出来なかったしっ!」
黒角が身を乗り出して抗議する。
あの時、瞬きする間に眉間に切っ先を突きつけられた恐怖は、今も鮮明に脳裏に焼き付いている。ダイヤモンド化する暇など、ましてやそれを防ぐ余裕などあるわけがない。
「そ、それにっ! 河海ばかり役回りが楽すぎじゃない!? 私たちが命がけで隙を作って、最後にボコボコって、あんただけ良いとこ取りじゃん!」
普並木も口を尖らせて追撃する。
危険な囮役と切り込み隊長を部下に押し付け、自分はおいしいフィニッシャーを担当する。とんだブラック上司である。
「そうだよ。あんたの負担軽すぎ。ほら、その棍棒でガンガンって亜鳴蛇の触手を弾きながら突撃する~、とかはダメなん?」
「それなっ。何のための棍棒なわけっ!?」
「うっ……」
図星を突かれ、河海は言葉に詰まった。
ごとん、と重たい音を立てて棍棒を取り落とす。彼女は両手の人差し指を突き合わせ、ツンツンといじけながら言い訳を始めた。
「だ、だって……あいつの触手、身体から生やすだけじゃなくて、指とかも変形させられる反則性能じゃん? 手数が多すぎるっつーか、棍棒一本じゃ物理的に凌ぎきれないというか……」
彼女の脳裏にも、以前の敗北の記憶が蘇っているらしい。
「いやいや、なら尚更あたしは嫌なんだけど。手は二本しかないんだけど?」
黒角が呆れ顔で突っ込む。
「棍棒を投げるとか?」
普並木が提案してみるが、河海はブンブンと首を横に振った。
「またぶんどられて終わりだわっ! あいつ、私の大事な棍棒を枝みたいに扱いやがって……」
初の邂逅時、出した棍棒を亜鳴蛇の触手に奪われ、持ち去られた屈辱を、彼女は未だに根に持っていた。
その後も、河海は穴だらけのガバガバ作戦を熱弁し、それを普並木と黒角が冷静かつ辛辣にダメ出しするという不毛な会議が続いた。
「普並木みたいに、ジム行って能力鍛えたら? ほら、棍棒のレベルアップとか」
黒角が提案する。
「いくら棍棒がグレードアップして装飾がついたりしても、亜鳴蛇の触手に取られたら終わりでしょーが!!」
河海は顔を真っ赤にして叫んだ。
そうこうしているうちに、廊下で大声を上げる三人組に、周囲の学生たちの視線が集まり始めていた。
「あ、あれ……この前、水色の電気っ子に能力戦でボロ負けしてた三人組じゃん」
「あー、いたな。懲りてないのか?」
「てか、あの電気の子……よく見ると可愛くね? スタイル良いし」
「俺、結構タイプかも……」
ひそひそとした囁き声が漏れ聞こえてくる。
「ほーら、注目されてる……」
黒角がバツが悪そうに顔を背ける。
一方で、能力戦での敗北を知られているにもかかわらず、容姿を褒められた普並木は「え、そ、そう?」と満更でもない様子で頬を染め、もじもじと身をくねらせていた。能力はともかく、容姿では柄長にボロ勝ちした彼女はそこには自信を持ち始めていたのである。
だが、世の中には空気の読めない者もいる。
「てか、リーダー格のあの棍棒の子……取り巻きに比べて、ずいぶんちんちくりんだよな」
とある男子学生が、悪気なく言い放ったノンデリ(ノン・デリカシー)な一言。
その瞬間、河海のこめかみに青筋が浮かんだ。
「……あぁ!?」
カッとなった河海は、落とした棍棒を拾い上げて振り回した。
「今言ったやつ誰だっ! 出てこい! 誰がちんちくりんだって!?」
河海の身長は百五十五センチメートル。黒角よりは数センチ低い程度だが、百七十センチの普並木や、それ以上の長身モデル体型である亜鳴蛇と比べれば、子供と大人ほどの差がある。
何より、胸部の発育において完敗していることは、彼女自身が一番気にしているコンプレックスだ。その胸は平坦であった。
ぷんすかと怒り狂い、見えない敵に向かって威嚇する河海。
その時、近くのベンチに座っていた女子五人組の会話が、不意に彼女の耳に飛び込んできた。
「ねぇ、聞いた? あの時庵くん、ついに彼女できたらしいよ」
「え、まじ!? この前、あのめっちゃ背高い触手の子……亜鳴蛇さんに告って振られたばかりじゃなかった?」
「そうそう。でも、すぐに別の学部の子といい感じになって、付き合い始めたんだって」
「へー、切り替え早っ」
ピタリ。
河海の動きが凍りついた。
振り上げた棍棒が、スローモーションのように下ろされる。
あっ……と、黒角と普並木が顔を見合わせ、何かを察した。
河海の亜鳴蛇への敵対心は、「時庵を振った」という事実に基づいていた。彼に想いを寄せていた彼女が導き出した結論は、時庵が傷ついている(と思い込んでいる)からこそ、その敵討ちとして燃え上がっていたのだ。
だが、当の時庵はとっくに吹っ切れ、あろうことか別の彼女を作って幸せになっていた。
つまり、河海のこの数週間の怒りも、亜鳴蛇への執着も、全ては独り相撲のピエロだったということになる。
わなわなと震える河海の背中。
「…………う」
「う?」
「う、うわあああああああんっ!」
先程までのドスの効いた威圧感はどこへやら。
河海は子供のように泣きじゃくり、棍棒を消滅させると、脱兎のごとく駆け出した。
「あっ、ちょっと!? 河海っ!」
「ちょ、待ってよ!」
河海。
駆け抜けた。
その背中。
慌てて叫ぶ二人を置き去りにする。
金髪を揺らし、彼女はキャンパスの彼方へと走り去ってしまった。
◆❖◇◇❖◆
少し離れた中庭のベンチ。
膝を抱えて小さくなり、涙目でえんえんと嗚咽を漏らしている河海の姿があった。
その隣に、コン、という音と共に、温かい缶コーヒーが置かれる。
「どーしたんだよ、斬呼。そんな捨てられた子猫みたいに縮こまって」
呆れを含みつつも、どこか温かみのある男の声。
河海────斬呼が涙で濡れた顔を上げると、そこには短く刈り込んだ緑髪の男子学生が立っていた。
「……なんだよ、友成かよ……」
友成と呼ばれた男の名は、無我見友成。
河海と同じ学部に所属する腐れ縁であり、彼女の数少ない異性の友人である。
「また失恋したのか?」
無我見は慣れた様子で彼女の隣に腰を下ろし、カシュ、と自分の分の缶コーヒーを開けた。
「……うるさい。別に失恋じゃないし……勝手に失恋させられただけだし……」
河海は拗ねたように言い、置かれた缶コーヒーを手に取った。
黒角や普並木とはまた違う、彼女が素の自分を晒せる相手。それが無我見であった。
二人の出会いは入学当初。いきなり別の男子学生に告白して玉砕し、キャンパスの隅で体育座りをして泣いていた河海を、通りがかりの無我見が「大丈夫か?」と声をかけたのが始まりだ。
以来、こうして彼女の愚痴を聞くのが、彼の日常となっていた。
「まぁまぁ。なんかあったなら話聞くって。俺に言ってみ?」
無我見が優しく促す。
「あっち行ってよぉ……。一人にして……」
河海は口では拒絶するが、その体は彼から離れようとはしない。むしろ、少しだけ彼の方へ重心を傾けている。
既に下の名前で呼び合うこの二人。周囲から見れば「付き合っていないのが不思議」な距離感だが、当人たち────特に河海にはその自覚がない。
「それにさ、次があるって。世の中、男は星の数ほどいるし」
「……そんな慰め、聞き飽きた」
「それに、ほら。斬呼は顔はかわいいんだからさ。黙ってればモテるって」
「なっ……!?」
無我見のサラリとした発言に、河海の顔が湯気を立てて赤く染まった。
涙で潤んだ瞳が大きく見開かれる。
「と、友成に言われてもっ、ぜんっぜん嬉しくないっ!」
彼女は照れ隠しのために叫び、缶コーヒーをガブガブと煽った。
「はいはい。熱いから火傷すんなよ」
やれやれと言った様子で、無我見は苦笑しながら彼女を窘める。
……そんな二人を、遠巻き────校舎の柱の影からこっそりと覗き見ている人影があった。
河海を心配して追いかけてきた、黒角と普並木である。
「あ、無我見じゃん。また慰めてもらってる」
黒角が小声で実況する。
「ふーんだ、随分お熱いこと。いつまでもそこらの興味ない男にこだわってないで、さっさと付き合えばいいのに、あの二人」
普並木がジト目で吐き捨てる。
そう、なんだかんだ言いつつ、彼女ら二人は内心では河海の幸せを願っているのである。
黒角は手のかかる妹を見るような保護者目線で、普並木は「さっさとくっついて私の前から中途半端なリア充オーラを消せ」という若干の嫉妬混じりの応援目線で。
「ほら、二人の邪魔しちゃ悪いでしょ。私ら脇役はさっさと退散しよ」
黒角が普並木の袖を引っ張った。
「……ふんっ。河海のやつ、目の前にあんないい男がいるくせに、気付かないとか節穴もいいとこだわっ。爆発しろいっ」
普並木は悪態をつきながらも、素直に黒角に従った。
二人は空気を読み、そそくさとその場を後にする。
ベンチに残された二人。
コーヒーを飲み終え、少し落ち着きを取り戻した河海が、空き缶を強く握りしめた。
「……斬呼、まだあの亜鳴蛇ってのに挑むつもりか?」
無我見が試すように尋ねる。
「当然っ! 私の戦いは終わってないのっ!」
河海は立ち上がり、拳を突き上げた。
失恋────ただし一方的なその悲しみは、新たな闘争心へと昇華されたようだ。
「友成、今度はあんたにも協力してもらうからっ! あんたの能力があれば、百人力だからっ!」
「勘弁してくれよ。俺は巻き込むな」
無我見は肩をすくめたが、その表情は満更でもなさそうだ。
そう軽口を叩き合う河海と無我見。
河海の顔からは、先程までの惨めな涙の跡は消え去り、いつもの根拠のない自信に満ちた、傍若無人な表情が戻っていた。
どんよりとした曇り空の下、キャンパスには今日もまた、彼女たちの騒がしくも愛すべき日常が続いていく。




