モンド、道を選ぶ
その夜、目覚めると俺は見知らぬ部屋にいた。
地下室だろうか、窓一つなく、家具調度の類もない、どことなく薄ら寒い部屋だ。
部屋の中央には敷物が敷かれ、向こうの端には母が座り、母の前には何か二つの物が置かれている。
母の装いは普段と異なり、フードの付いた黒いローブを羽織っている。
「その子を降ろして」
母の命に従い、俺を抱いていた侍従長が、敷物の反対の端へ俺を降ろす、ゆっくりと、丁寧に。
「さあモンド……我が子よ……母のもとへおいで……そして、選ぶのです」
降ろされた場所に座ったまま、しばし俺は観察する。
母の前に置かれた二つの何かを。
一つは玩具だ。
おそらくは幼い子供が振り回して、音を鳴らして遊ぶ類のあれだろう。いかにも子供の興味を引きそうな鮮やかな原色で、可愛らしい動物の絵や模様が描かれている。
そしてもう一つは……短剣だ。
その拵……剣の全体的な外装は真っ黒、漆黒と言うべきか。
おそらくは光を反射しないための工夫なんじゃないか、何となくそんな気がした。
そんな漆黒の外見にもかかわらず、離れたこの場所からでも驚くほどの存在感を放っている。
さぞや名のある剣なんじゃないだろうか。
目にした時から、目が離せなくなった。
吸い寄せられるように、はいはい歩きでその短剣に向かう。
すぐ近くまで来たところで、全体を観察する。
意匠そのものは実にシンプルで、おそらくは両刃の短剣、手を守るための鍔もシンプルで堅牢そうな十字形だ。
だが鞘も柄も丁寧な仕上げで、作りの上質さを窺わせる。
各所に付けられた金具も、華美なものではないが、よく見ると細かく美しい彫金が施されている。
刀身が見たい。
剣を手に取り、持ち上げる。
重い。
生後五ヶ月になるかならないかのこの身体では持ち上げるのがやっとだ。
それでも持ち上げ、柄に手をかけて抜こうとした。
上から伸びてきた白い手が、優しく剣を奪い取った。
母だ。
何故かその顔は硬く強張り、心なしか青ざめている。
「今、道は選ばれました」
母は顔を上げ、さらに重く大きな声音で言う。
「我が父祖の御霊もご照覧あれ! 今宵、選択は成されました!」
普段の母とはまったく異なるその声に、俺は大いにビビる。
何かとんでもない選択をしてしまったんじゃなかろうか?
そこで突然、疲れと眠気が怒涛のように俺に襲いかかり、俺は意識を失った。
腹が空いて目が覚めた。
大きな声で泣き、母を呼ぶ。
母はすぐに来てくれだ。
いつものように胸をはだけ、乳房を口に近づけてくれる。
何かがおかしい。
俺は口を閉じ、口に何も入れまいとしたが、母は構わずにその乳房を押し付けてくる。
根負けした俺は口を開き、母の乳首を口に含んだ。
やはり何かが妙だ。
妙な味がする。
とはいえ空腹だった、そのまま母乳をごくごくと飲み続ける。
異変が起こったのは満腹が近づいた頃だった。
口の周りが痺れ、全身が不快な感じに包まれる。
息が苦しい。
必死で口を開け、息を吸い込もうとする。
自然と泣き声になった。
泣きながら、飲んだ乳を全て吐き出した。
苦しさは収まらない。
徐々に意識が遠のく。
(ここで……死ぬのか!?)
だが母は聖母のような笑みを崩さない。
やがて母は、傍らの薬瓶の一つから硝子のスポイトで中の液体を吸い出し、その液を一滴、俺の口に垂らす。
じわじわと全身の不快感が去り、息も普通にできるようになった。
(毒だ……やはり毒だったんだ!)
乳首に塗られていたのは弱い毒、そして今、解毒薬を与えられた。
「これは貴方が選んだ定め、耐えるのですよ」
俺の顔を撫でるその人の手は、あくまでも優しく、柔らかかった。
何かで読んだ事がある。
幼い頃より極々少量の毒を与え、毒に対する耐性を付けさせる、そんな技術があると。
母乳から離乳食――スープや重湯といったものに変わっても、定期的にそれは続いた。
ある程度続くと、毒の出される機会も読めるようになる。
そろそろ毒が来そうだな、という時には、口を固く閉じて、食事を拒む事も試してみた。
「本当に賢い子ね……でも駄目ですよ……」
母はいつも笑顔を崩さず、そして容赦もしなかった。
口を閉じて抵抗すれば、管を使って流し込まれる。長年のノウハウがあるってわけだ。
やがて俺も諦め、受け入れた。
時が経ち、俺は少年と呼ばれる年頃になった。
そして母から教えられた。
俺が生まれた一族は、代々続く暗殺者であると同時に、暗殺者の集団を束ねる頭領の家であった事を。
一族の先祖は暗殺や密偵など、細作の技を持って初代皇帝の国家統一に大いに貢献し、爵位を得てこの地に封じられた、ということらしい。
あの夜の儀式は、将来どちらの道を歩むか、それを我が子自身に選ばせるものだったのだ。
玩具を選べば他所の家に養子に出され、ごく普通の庶民としての生活を、そして短剣を選べば――。
そこからは様々な心身の鍛錬、そして教育が加わった。
毒に身体を慣らす訓練も相変わらず続けられてはいたが、今では赤子の頃に感じた程の苦痛は感じなくなっていた。
幸い毒に身体をやられることもなく、ここまで健康体で育ってこれたのは、この身体の持ち前の頑健さと、この家に伝わる毒の技術の精妙さ、その両方のおかげだろうか。
鍛錬の中には、当然、武芸も含まれていた。
武芸の師として付けられたのは、対照的な背格好をした二人の初老の男たちだった。
方や長身痩躯、顔も面長で見事な口髭と顎髭をたくわえている。
もう片方は短躯で丸顔、髭はなし。
長身痩躯の男はアディン、短躯の男はドゥバ、とだけ名乗った。
おそらくは通り名のようなものではないか、と俺は思った。
アディンは、おっそろしく正統派の剣の使い手だった。
時には豪快に力技を振るい、また時には呆れるほどに精緻な柔の技を見せる。
アディンは言う。
「力は技の中にあり、そして技は力の中にこそあり申す」
剣は様々な大きさ長さのものを扱ったが、さらには剣だけではなく、パイク、グレイヴ、ハルバード、メイスにモーニングスター、ウォーハンマー……おおよそ異世界ファンタジー物に出てきそうな武器は一通り教わった。
ドゥバは短剣に始まり、あらゆる隠し武器――いわゆる暗器と呼ばれる類の武器、そして弓や弩などの飛び道具の達人だった。
その戦い方も、いかに相手の不意を突き、油断を誘い、だまくらかすか、というもので、そのためには、時にはみっともなく命乞いのふりすらしてみせた。
ドゥバは言う。
「まずは生き延びることこそが肝要、ですじゃ」
これほどまでに対照的な二人を俺に付けたのは、正道も邪道も、共に身につけてこそ真の武となる。そういう方針かららしかった。
全てにおいて対照的な二人の師だったが、ただ一つだけ一致している意見があった。
「一人の相手と、長々と刃を鳴らして切り結ぶは愚の骨頂、と思し召されよ」
「うむ、基本は一手、多くとも三手までじゃ」
二人の師のもとで、俺はひたすらに武芸を磨く。
師匠たちの指導はとんでもなく厳しかったが、それにもまた慣れて行った。




