リルフィアの泉に、願いひとつ
……この森の外に、世界があるという。
光が差し込まぬ深緑の天蓋の向こうに、
どれほどの大地が広がっているのだろう。
風の色も、星のかたちも、
きっと、あたしがまだ知らないものばかりで。
でも。
知りたいと願うことさえ──この森では“罪”なのだ。
月の光が、神樹の梢をすり抜けて――
静かに泉へと注ぎ込んでいた。
ここは、神樹の森の奥深く、リルフィアの泉。
精霊たちの息吹が満ちる、この世界で一番美しい場所。
私達ハイエルフにとっても、最も神聖な“癒し”の聖域。
水面には銀の波紋がゆらめいて、
夜になれば、精霊の光がふわふわと舞い降りてくる。
……まるで、空の星たちが泉へと還ってくるみたいに。
……ふふっ。
詩的なことを考えてしまうのは、
たぶん少しだけ、浮かれてるから。
だって今日は──
ほんとうに、久しぶりに、ひとりになれたから。
誰にも見られない、この静寂だけは。
“リシェリア・エル=フェルナ”じゃなくて、“ただのリシェリア”でいられる気がするのよ。
私は白い精霊装束を脱ぎ、そっと泉に足を入れる。
ひんやりとした感触が、肌を撫でた。
背筋がぞくりとして、息が漏れる。
髪をほどいて、水に任せる。
プラチナブロンドが月明かりに照らされて、
まるで銀の糸が泉に溶け込むように、ゆらゆらと揺れた。
──ぱしゃっ。
小さな水音と共に、精霊の粒子がひとつ、ふわりと舞い降りる。
それはまるで、“導くように”水面に空を映していた。
……もし。
この森の外にも、こんな泉があるのなら。
私はきっと──何度でも歩いてゆけるのに。
外の世界に、生きてみたい。
掟に縛られず、名誉でも、責務でもなく。
自分の足で、自分の意志で。
ほんの少しの勇気さえあれば、
あの光に、手が届く気がしたのに──
──でも、私は。
森の中に、閉じ込められたまま。
《族長の娘》という名前が、
重くて、冷たくて……鎖のように、足に絡みついてくる。
「……羨ましいわよ、正直」
吐き出すように呟いた声が、水面に落ちて、波紋を広げていく。
……掟を破りたいわけじゃないのよ。
ただ、自分の目で──世界を見てみたいだけ。
私はそっと、胸元に手をやった。
考えれば考えるほど、心臓がばくばくして。
頬が熱くなる。胸の奥もざわつく。
(外の世界では……こんなふうに、裸で泉に入ることなんて、ないのかしら)
(ていうか、あったら怖いわよね!?)
自分の妄想にツッコミを入れてたそのとき――
「リシェリア。顔が真っ赤よ?」
──ッ!?
突然、頭の中に響いたのは、
どこまでも澄んだ、聞き慣れた声だった。
水面が淡く光を帯び、小さな人影がふわりと現れる。
ルリエル。
私の契約精霊。
美しくて頼りになる……けど、こういう時だけ妙に冷静。
「べ、別にっ! 冷たいだけだもの!」
即座に否定したけれど、彼女はふっと微笑むだけ。
「外の世界のことを考えていたのでしょう?」
「ち、ちがっ……くないけど!」
声が裏返った時点で、もう負け。
自覚はあるのよ。ええ、もう、完敗よ。
「リシェリア。
外の世界を見たい気持ちは、仕方ないと思うわ。
好奇心は、あなたらしいものだから」
やわらかい声。
……だけど、その次の言葉が、私の胸に冷たく突き刺さる。
「けれど──普通のエルフならまだしも、あなたはハイエルフなのよ。
神樹の森の象徴であり、精霊と契約する者。
そのあなたが外に出るというのは……簡単なことではないわ」
「……わかってるわよ。そんなの、百も承知……」
わかってる。
わかってるのよ、私だって。
でも、でも……!
(私は、ただ……)
外の世界を、知らないまま一生を終えるなんて。
そんなの、嫌なのよ。
──その想いを、あざ笑うみたいに。
ガサッ。
森の奥で、枝を踏む音がした。
空気が、ぴたりと張り詰める。
私の耳がぴくりと立ち、風が異質な匂いを運んでくる。
「……誰かいるの!?」
裸のまま、水の中で私は息を呑んだ。
この静寂の聖域に、誰かが──入ってきた?
……まさか、ありえない。
ここは限られた者しか立ち入れない聖地。
掟を知らない者など、いるはずが……
……いた。
その瞬間、世界が音を立てて揺れた。
私の運命をひっくり返す。
あの、どうしようもなく俗っぽくて、
信じられないくらい自由で。
でも、目が離せない“男”との出会いが。
どうやら――もう、すぐそこに迫っていたらしいわ。
──そして、私の願いは。
この泉で、ようやく動き出すの。
世界を、見たい。
外に、出たい。
自分の意志で、生きたい。
その一歩を、踏み出すために。
──風が、変わった。