第6話:八咫烏の導き手
歴史とは記されることより、記されないことの方が多い。
記された事が真実とは限らない。
勝者が正しいとは限らない。
だが、善対悪、その構図は常に誤っている。
SVRはロシアが有する諜報機関の一つ。
秘密工作部隊も多く、敵対する組織、脅威を処理してきた。
そんなSVRが手も足も出ない相手──
それが大企業の共同体〈世界企業連盟〉である。
空を飛んでいる一羽のカラスは、眼下にSVR長官を見つけた。
同時に彼もカラスを見つけ、その動きを観察する。
それを理解しているかのようにカラスは三周、円を描くように飛ぶ。
山なりに上下降を行い、最後は彼の足元に下りて一鳴き。
長官と目が合うのを確認した後、空へ飛びあがり、他のカラスと合流していった。
「事は済んだようだ。日本の“忍び”は、まだ生きている」
ロシア、モスクワ某所。
室内にはSVR長官、副長官を含め、五名のSVR職員が集められていた。
彼らは「清き影」に対する対応権限を持つ、SVRの上級メンバー。
KGB時代から脈々と受け継がれた伝統と秘密を司る、大統領すら関知しないSVR内の極秘部門だった。
清き影、それはアメリカ諜報機関の極秘規定、プロトコルVOIDに相当するロシアの非公開規定。
八咫烏──特に、伊波レイへの対応を定めた、極秘の対応規定である。
それは明文化されず、口伝により継承され続けてきた。
「干渉せず、関与せず、存在せず」
これらを原則とし、八咫烏との“非公式な協力関係を維持しつつ、組織内での混乱、分裂を防ぐ”ため、外交的・戦術的に最適な沈黙を選択する。
「今日、使者から知らせを受けた。我々の願いは叶えられた。ネオライフ・アルカディアが手にしていた、政府高官、軍、エージェントの個人情報はダミーデータに差し替えられた」
「さすがは彼女だ。味方であれば、これほど頼もしい存在はいない」
「依頼は確実に遂行され、世界は水面下で均衡を保っておる」
「いかにも」
長官の手元には〈伊波レイ〉に関する報告書が並べられていた。
報告者は現場でレイと不意に遭遇してしまった、ベテランエージェント。経験豊富、現場慣れしているがゆえに、エージェントはレイが“普通”ではないことを直感した。
この流れは、もはや清き影における恒例行事だった。
優秀なエージェントほど、レイを知ろうと探求していく。
結果、レイが“歳を取っていない”ことを見つけ出し、隠された八咫烏の存在に感づいてしまう。
十年前、五十年前、百年前──報告書に載せられたレイの過去写真。
変装をしていない時の彼女は、まるで変わらない。
そこだけ時間が止まっているかのように。
「不老不死である彼女は世界に必要な存在だ。彼女だからこそ、意味がある」
「その通りだ。我らこそ真の愛国者。ロシアの未来は我々の手にかかっている」
「軍部は日本を刺激することばかりしているが、わざわざ敵を作ることもなかろう。かの組織と敵対関係になるわけにはいかんのだ。確かに、時に敵となるが、些細なこと」
「皮肉なことに、各国諜報機関は例の組織を中心にすることで均衡を保てている。動けるうちに、手を打つべきだ」
「西側もそう考えているだろう。彼女を動かしたのだ」
「分かっている。皆のもの、忘れるな、かの組織に関する情報は存在しない。存在させてはならない」
長官は手元の報告書にライターで火をつけた。
伊波レイ、彼女はうまれつき特異な体質の持ち主だった。
不老不死──
彼女は老いることがない。
傷は他の人よりも早く修復され、病気、化学物質は予知的に防御される。
極限環境下でも常に最高の身体能力を発揮できる。
悠久の時を過ごし、ありとあらゆる知識・知恵、技術・技能を完璧に身に着けた彼女。
言葉を発せずとも、見る者が見れば、その存在に圧倒される。
見つめられなくとも、全てを見通され、時に己の信念すら揺さぶられる。
たたずむ姿は、その場を静寂に包み込み、真実を浮かび上がらせる。
時に周囲の者は彼女に共鳴し、時に崩壊する。
日本非公式特務機関〈八咫烏〉の中枢にして、最強のエージェント。
それが伊波レイだった。
日本の地下空間は以外と知られていない場所が多い。
事実、八咫烏の本拠地も、公開されていない地下空間に存在した。
そこを訪れる者は誰に言われたわけでもなく、“自らの意思”でやって来る。
ある者は自分でたどり着き、ある者は暗号に導かれ、ある者は八咫烏による間接的な伝言を受けて。
必要な人材が、必要な時に、必要な場所へ、導かれる。
これは本拠地に限ったことではない。
任務でも、他拠点でも同じだった。
伝言ゲームで、パズルが組み合わさり、一枚の絵ができるように。
八咫烏とは実に不思議な組織だった。
本拠地に正式名称はない。
ただ、構成員からは〈ホロウ・ガーデン〉の愛称を与えられていた。
ホロウ・ガーデン内では拠点の維持と管理を行い、組織として、構成員に情報を流布する常駐メンバーが五名。それ以外のメンバーはその時々で変わる。
英語、アラビア語、中国語、ポルトガル語、スペイン語──
あらゆる言語が飛び交う。
構成員は多国籍。
割合的に日本人の方が少ないぐらいだ。
人種も、職業も、年齢も、多種多様。
レイがホロウ・ガーデンに現れても、構成員は淡々と己の業務を遂行している。
なお、母国語が異なる者同士の意思疎通は英語または日本語を使用する。
「お疲れ様です」
「お帰りなさい」
しかし、レイに対しては「最も情報を正確に伝達できる言語」で話すこと、これが暗黙の了解である。これにより、レイとの会話を「日本語」で行う老練の構成員は組織内でも憧れの存在と化していた。
「姐さん、依頼がきてるよ」
古参で常駐メンバーの一人、スレイマン・オルティス。
紳士的な風貌、いかにもベテランのたたずまい。
彼は今年で五十になる、心理戦・文化介入、間接行動の設計専門家だ。
「CIA、SVRに続き、今度はMSSからだ」
「中国の国家安全部ね。やはり連盟関係かしら?」
「その通り。イスタンブールに本社を置く連盟の加盟企業が中国の軍事機密、外交機密をグノーシスに渡そうとしている。それを阻止し、可能ならば裏で手を引いている者の調査。グノーシスと連盟の関係にはまだまだ秘密がある」
「いいでしょう。現地のサポートを用意しておいて」
「お任せを」
返事を聞くや否や、スレイマンはすぐに現地エージェントへの伝聞を開始した。
すでに準備はできていた。