第5話:深淵なる企業の皆様へ
何気ない一日が時に人生の変わり目になることもある。それはたいてい本人の意思に関係なく、そして、逃げ道がないものだ。
まだ夜の面影が残る、朝のドバイ。
自動運転も普及しているが、多くの運転手は自分の手で運転することを選んでいる。
その中の一人、ノーマン・フレッグスは車を運転しながら、日課のラジオニュースを聞いていた。職業柄、健康に気を付けている彼は毎朝スキンケアを欠かさない。日光による紫外線ダメージを防ぎ、肌のうるおいとキメの細かさを保つ。
退社後にはジムで定期的に運動を行い、身体の柔軟性は若い頃のままだ。
いつも通りの時間、いつも通りの道。
ネオライフ・アルカディア研究センターに到着。
複数の監視カメラがノーマンを捉えた。
完全無人のゲートは最初こそ違和感があったものの、今では当たり前となり他社のセキュリティゲートに不安すら覚えてしまう。
運転席の窓を開け、差込口にIDカードを挿入。
個人用パスコードを打ち込み、ゲートが開放された。
「おはようございます、フレッグス副所長」
「おはよう、イージス」
【入場日時】16:07:05
【訪問者】ノーマン・フレッグス
【アクセスレベル】E(副所長)
【車両番号】NA 7338
【顔モデル】一致
【健康状態】良好
【虹彩パターン】一致
【パスコード】67224
【IDカード】一致
【動体モデル】一致
【本人認証】完了
指定された場所に車を駐車。
巡回している警備員がノーマンを見かけると軽く会釈をした。警備員は6時間シフトの四交代制だ。
生命科学研究所に徒歩で向かい、入り口のタッチパネルへIDカードをタッチ。
屋内は完全自動空調システムによって温度、湿度、酸素濃度、二酸化炭素濃度、気流を一元管理されている。
建物のエレベーターもIDカードのタッチ必須。
三階。鍵を使い、副所長室へ入るとパソコンをつけた。
「フレッグス様、本日の定例会議は午前九時半、第一会議室で行われます。優先順位の高いタスクを処理します」
会議用のファイルをプリンタで印刷し、送信されてきたメール、添付ファイルを確認。
各拠点への成果報告の提出、部下の勤怠管理記録のまとめ、そういったルーティン雑務は自動処理。AIによる一日のスケジュール管理はノーマンの思考負担を減らし、精神的ゆとりが確保できるよう、配慮されたものだった。
人間のあせり、おごり、いかり、とまどい——
これらの心理要素は生産性のない、無駄なもの。
AIは常に、労働の適正化をサポートしている。
午前九時半、第一会議室にて。
副所長であるノーマンは所長とともに席へ着いた。
窓には遮光カーテン。
外部との通信は遮断され会議室は静寂に包まれる。
中央のモニタに表れたのはネオライフ・アルカディアのロゴ。
SOUND ONLY
画面の向こうは音声のみ。
「パラディンがアフリカで勢力を順調に広げている。抵抗勢力も微々たるもの。予定通り、我々も現地での活動を強化せよ」
目に見えぬ相手。落ち着いた男性の声だ。
モニタ内蔵のカメラと独立した可動式カメラ、この二つでこちらを見ている。
「仰せの通りに。現地入りするメンバーも選定済みです」
「ワクチン、医薬品の生産も問題ありません」
所長、ノーマンはそれぞれ短く答えた。
「よろしい。国連からの要請に合わせ、医療支援を進める。住民のゲノム情報から、病原体のサンプル収集まで、あらゆる情報を我々のものに。会社はより大きく、より強固になる。世界は喜んで我々を受け入れるだろう。これからも、お前達の働きには期待している」
NO SIGNAL
上層部が求めるのは優れた頭脳と行動力、そして忠誠心。
「さて、仕事に戻ろう」
「ああ。私は昨日できなかったデータの修正をしてくる」
「頼んだ」
部屋を出た二人はこの場で分かれた。
歩くノーマンの先にそびえ立つデータセンター。
膨大なデータは会社の資産だ。顧客のゲノムデータ、年齢、住所、罹患履歴、健康状態、資産状況、家族構成、勤務先——個人情報は丸裸同然で、AIの強力な計算による、将来のリスク調査や病気の治療方法の選択を行う。
ここに集約された、データは自動的に解析され、整理され、いつでも利用できるよう、大切に保管されている。ただ、まれにAIでも取り除けない“ノイズ”データが混じることがあり、これがデータ全体の“質”を低下させる要因となる。
「ノーマン・フレッグス」
「照合完了」
センター入り口の声紋認証装置。
これは風邪を引いた声でも、本人を正確に認証することが可能だった。
逆に、他人が声真似でごまかすことはできない。
センター内は完全無人の警備体制。専門チーム以外サーバルームに入ることはできない。そのため、従業員には制御用コンソールが置かれた小部屋への入室権限のみ与えられている。
狭い通路を通り、ノーマンはコンソールを起動した。
【データ管理】承認
【データ分類】機密
【地域データ】——
【企業データ】——
【個別データ】——
【個別コマンド】更新
【データ管理】承認
【データ分類】エラー処理
【個別データ】移動
【一括コマンド】更新
【データ分類】エラー処理
【データ管理】未承認
【一括コマンド】削除
ちゃちゃっと、誤っている個別データを更新、溜まっていた分類不可データを修正、完全なエラーデータを一括削除。地味な作業なのだが重要な仕事だ。
「こちら中央警備室。各員、通常警戒態勢。パターンM7。次のパターン更新は指示があるまで。アウト」
夜七時。AIに指定された一日のタスクを全て完了。
机の上を片付け、荷物をまとめる。
「フレッグス副所長、お疲れさまでした」
「また明日だ、イージス」
イージスに見送られながら、彼は帰路についた。
その翌日、奇妙な出来事がノーマンを襲った。
朝起きると“一日”日付が進んでいたのだ。
社用端末の予定表、卓上カレンダーの印、ラジオ番組、全てが一日進んでいる。
出社すれば“昨日”あったはずの、定例会議は終わっており、セキュリティ記録には何も異常が記録されていない。
「なあ、私は昨日ちゃんと出社していたか?」
「当たり前だ。一緒に会議に出ただろ。何を寝ぼけている? ちゃんと寝ろよ」
レーキア所長のあきれ顔、あれは本物だ。
イージスにアクセスして、自身の行動履歴も確認した。
バイタルデータは正常。
声紋認証にも異常はない。
仕事は終わっている。
記録はある。
でも、“記憶”にないのだ。
誰かが、自分に“なりすましていた”としか思えない。
ドッペルゲンガーは実在するのか?
これを報告すべきか、彼には分からなかった。