第4話:カラスの鳴く頃に
プラハから二日後。
ドバイ、旧ロシア大使館の裏通り。
再開発区画のため、古い建造物の解体が進んでいる。
離れに新たな高層ビルが建ち、昼でも太陽の光が届かなかった。
人の通行も少なく、若干、寂れた印象を受ける。
そこにレイはいた。
彼女は舞い降りてきた、一羽のカラスから、一枚の封書を受け取る。
感触はひんやり冷たい。
封は黒蜜蝋。
中身の手紙は手製羊皮紙。
直筆だ。
──────
彼方より、静寂を旅する黒羽の者へ。
西の地に、熱を持たぬ雷鳴が鳴り響いている。
だがその音は、誰の耳にも届かぬ。
なぜなら、音は存在せず、ただ“世界そのもの”が震えているからだ。
我らの声は、誰にも届かぬ。
聞いた者すら、記憶に残せぬ。
ゆえに、これは“声なき問”である。
問いの先にあるのは、“目に映らぬ毒の器”。
それを持つ者は人にあらず。
それを守る者も、感情を持たない。
我らはそれに触れぬ。
触れられぬ。
咲きすぎた花は、根に祈りを返すべきだ。
この庭に、一羽のカラスが影を落とすならば──
世界は静かに揺れることだろう。
──────
送り主はロシアの諜報機関SVR長官。
レイの体温によりインクが自然分解されていく。
最終的には“何も書かれていない”一枚の紙が手元に残った。
「あとはお願い」
レイはカラスに手紙を託し、その場を離れた。
カラスが足を器用に使って手紙をついばみ、ばらばらにちぎっていく。
自分の役目を終えるとカラスは一鳴き。
青空へと飛び立った。
三秒後、自動走行型の清掃ロボットがやってくる。
散らばる紙片を“燃えるゴミ”と認識し、全てを吸引。内部の分離機と粉砕機で手紙は文字通り“ゴミ”と化した。
澄んだ空気、太陽光の傾き、風の通り道、反響音の周波数、あらゆる要素が計算された、ビル群。
ハイテク技術を積極的に導入している、ここドバイでは、自動化された高度なセキュリティ・ネットワークが構築されている。
セキュリティ・クラスタAI〈イージス〉──
企業向けセキュリティAI群ファランクスとは異なり、市民の安全と社会の安定を目的とした、国家向けセキュリティAI群。
公共交通機関だけでなく、医療機関、行政機関、軍事関連施設に導入され、不審者の特定から指名手配犯の確保、事故対応から要救助者の発見・救助までこなす。
人間の指令は不要。
民間施設でも導入が進み、イージスの防御網は広範囲かつ高密度だ。
イージスとの連携で、新たな国家運営サポートと安全保障サービスを提供するのはパラディン・セキュリティ。創設からたった十年で、同社は世界最大の民間軍事警備企業へと急成長した。
今、社会構造として意思決定権はAIにある。
非効率な意思伝達手段、あいまいな行動指針、無駄な時間・費用、それらをイージスは根本的に解決した。
実社会だけではない。
数字の世界。すなわち、サイバー防衛にも高い適正を示した。
ハッカーからの攻撃を学習、対応のループ速度は人間の比ではない。
情報社会における、優位性をイージスは完全に確立。
自然と警察は形骸化し、実質的な業務と管轄権はパラディン・セキュリティが掌握した。
これに合わせ世界中の大企業がドバイに進出。
誰もがその名を目にしたことがある、有名企業ばかりだ。
人材と情報の集約、交流。
活気あふれるドバイは“未来”を形にした。
「みなさま、ようこそドバイへ。ドバイでは、人工知能イージスが、最高の体験を保証します。また、専用アプリをダウンロードしていただければ、一人ひとりに合わせた、効果的なサービスを提供できます」
「お客様のゲノム情報をもとに、“最適な医療”を提供します。将来の疾病予防、日々の生活における健康促進、薬のオーダーメイドまで。次世代の医療をあなたに。ネオライフ・アルカディア社です」
医療分野でも発展は著しく、ドバイの医療を求め、多くの外国人が訪れる。
不自由なき街、小さな楽園。
ここを、そう呼ぶものもいた。
「昔に比べ、少し、騒がしくなったわね」
流れるCMの音楽、セリフの抑揚、色彩、明度、字のフォント、尺、放映回数──
ターゲット層に向け、深層心理への干渉すら計算されており、高度な心理誘導が応用されている。
街中を歩く人々。
そのほとんどが、何らかのAIを個人アシスタントとして利用している。
仕事にも、健康にも、趣味にも、教育にも。
今や、AIは特別なものではない。
風が吹く。
西の方角。
その先にはネオライフ・アルカディアの生命科学研究所とデータセンターがある。
セキュリティシステムはAIイージスを採用。
パラディン・セキュリティの警備員が巡回し、空域はドローンジャマーで防護。
2.5メートルを超える外壁には振動感知センサー、監視カメラ、高圧電流柵が。唯一の入退場ゲートでは顔の精密スキャンによる輪郭、虹彩の生体認証。
加えて、IDカード、パスコードの物理的認証。
この時、カードとパスコードを認証させる動作すら、本人認証に使われている。
敷地は多層構造。
重要な施設ほど敷地の中心側に作られ、配置されている監視カメラ、警備員の数も増える。敷地内は専用の通信端末以外、使用不可だ。専用通信端末には従業員のアクセス権限と位置情報が登録済み。位置情報はイージスへ、常時送信されるようになっている。
このため、権限のない者が制限エリアへ入ることはできない。
「こちら中央警備室。各員、通常警戒態勢。パターンB3。次のパターン更新は指示があるまで。アウト」
【基幹システム】分散型AI〈オーディン〉
【監視システム】セキュリティ・クラスタAI〈イージス〉
【稼働状況】正常
【該当施設】ネオライフ・アルカディア ドバイ・研究センター
【警備態勢】通常
【配備パターン】B3
警備パターンは固定されずイージスの判断により、適宜、更新。
監視カメラの撮影範囲、旋回速度だけでなく、警備員の動きすらイージスの制御下にある。
この変則的ながらも、合理的な警備体制は外部侵入者を一切寄せ付けない。
特にデータセンターは情報の宝庫。
敷地の中心に置かれ一般職の人間では入ることはできなかった。
レイは、そのデータセンターに用があった。