第3話:静かな夜の残響
街が眠る音を、彼女は聞いていた。
照明の光が粒となって空気を流れ、タワーの高みにわずかな気流を生んでいる。
伝わってくる。
温度の波、湿度の変化、重力の流れ 、気圧の層、空気の厚み、風の瞬き──
この星の動き、全てをその身で感じ、“見えていた”
この場所からはるか先まで。
彼女、“伊波レイ”は組み立てられた自身の専用狙撃銃〈サイレーン〉を構えている。
右目でスコープのレティクルを覗きつつ、左目の視線は空の彼方へ溶け込んでいた。
彼女にとって、これはスコープを覗いているうちに入らなかった。
標的位置は水平距離10.3キロメートル先。
重力落下量は約605メートル。
高度250メートル、ヘリコプター機内左座席。
狙撃地点高度520メートル。
狙撃地点から標的までの高度差270メートル。
弾頭飛翔時間、約11秒。
角度補正要素、仰角、俯角、地球の曲率、自転、マグヌス効果──
視線は虚空の先へ。
スコープの倍率を一気に80倍まで上げる。
何もスコープ内には映っていない。
水平偏差を考慮。
スコープ内の中心点から、ほんのわずかに左上へ逸らし、引き金を引いた。
弾道角度約1.55度で放たれた弾頭は、複雑に揺れる都市部地形風すら、味方につけ“何もない空間”へ飛んでいく。
ヘリはレイに対し、高度250メートルを維持したまま、左へ横切る水平機動。
それは時間にして、11秒後の未来。
標的の頭は吹き飛んだ。
弾は飛び散る血肉に紛れ、反対側の窓ガラスの上部を貫通。
空の彼方へ消えていった。
これは狙撃というより、“弾を置いた”と表現するべきだろう。
あるべきところに弾を置いただけ。
標的が頭部を撃ちぬかれ、死亡する結果だけが残る。
彼女にとってはそれだけのことだった。
パラディン・セキュリティによる、現場封鎖が行われたとしても、10キロメートル先からの狙撃など彼らは想定していない。
AIによる弾道分析も算出されたところで、エラー値となり候補から除外される。
つまり、この暗殺を“可視化”することはできない。
レイはサイレーンを分解し、ライフルケースへ収納。
「任務完了」
音を立てることなく、彼女はこの場から去った。
それと同時に、ヘリの近くを飛行していた一羽のカラスが、何かを落とす。
それは風に流され、風に逆らい、ゆっくりと地面へ落ちていった。
ヘリックス・ネットのセキュリティは局所的に無力化されていた。
監視カメラも、監視ドローンも、電子ロックも、全て。
本来ならそのような不具合はシステムログに残され、バックアップあるいは非常警戒システムに切り替わるはずなのだ。
だが、それを記録するシステムすら欺き、AIは異常を“存在しないもの”と認識。
せっかく記録した、わずかな変調の記録さえも、分類不可なエラーとして処理された。
目撃者はいない。
弾痕は存在しない。
記録は残されていない。
真相は“静寂”のみが知っている。
気が付くと、トマーシュ・ドヴォジャークは冷たい廊下に倒れこんでいた。
後頭部に鈍い痛みが残っているが、身体の感覚は戻りつつある。
ただ、実感が湧かない。
目に映るこの景色は現実なのか、と。
さっき見た女性、あれは幻覚だったのか?
はたまた、自分には霊視能力があったのだろうか?
明らかに場が、空気が、違った。
捉えた輪郭は、現実からかけ離れた存在。
心を、記憶を、身体を、全て読まれた気がした。
同時に、相手から強い、人としての意志を見せつけられた気もした。
なんと自分がちっぽけで、中身のない人生を送っているのだと、思い知らされた。
彼女を直接、見たわけではない。
彼女の背中に、たどり着けたわけでもない。
そして、たどり着けるとも思えない。
それでも、彼女の“静寂”に触れた時、その背中を追うことを誓った。
同僚や上司に伝えれば「それは夢の見過ぎだ」と言うだろう。
きっと、理解されない。あの名もなき共鳴を。
自分が何をすべきなのか、何を目標にすべきか。
今までの自分を変えよう。
世界を広げ、新たな世界へ、飛び込もう。
“ここ”はあまりも狭すぎる。
人生は一度しかない。
岐路とは自分で見出すものだ。
─デルタ2、こちら警備室。何か異常はあったか?
「いいや。何もない」
彼は通信を早々に終わらせた。
事実、監視カメラには何も映っておらず、どこの区画にも、不正アクセスはない。
AI群ファランクスに管理された、この施設に隙はないはずだった。
リアルタイムで常に状況を把握し、最適な警備体制を構築。
警備員の数、配置、巡回方法すら、ファランクスが決定する。
【稼働状況】正常
【警備状況】全セクション 異常なし
後頭部の痛みを感じながら、トマーシュは一番近くのカメラに向けてほくそ笑む。
指示された道を歩くのも、今日でおさらばだ。
三年前、2027年。
CIA所属の四名は“グノーシス”と呼ばれる、謎の地下組織ネットワークの調査していたのだが、その過程で黒髪の女性を目撃した。
それは全くの偶然、想定外の接触となった。
「あの女はヤバい」「世界の影を見た」
「何もせずとも場の支配者」「リスクを言葉では測れない」
即座に、安全保障上の脅威と判断した四名は上へ報告。
追跡および拘束を進言した。
これを予想していたのだろうか。
上層部はあらゆる現地行動を却下。
それどころか、「彼女と関わるな、ただちに帰還せよ」という命令を下し、各種の後方支援を打ち切った。
四人がそんな上層部の意向を素直に受け入れるはずがない。
独断で追跡を実行。
失敗に終わった。
CIA上層部は帰国した彼らに対して、極秘対応規定「プロトコルVOID」を適用。これまでの調査報告書を例外なく、VOIDデータに指定、最高機密とした。
──六か月間、問題なければ、現場復帰も可。
詳しい事情聴取、行動歴の確認、心理テスト、精神鑑定が行われた。大統領への報告は行われず、彼らという“存在自体”が、組織から隔絶され、表向き“六か月の休職”扱いとなった。
これらの経緯を経て、四名は女性に関する独自の情報収集を開始。
断片的ながらも、彼女の輪郭を掴んだ。
彼女はとある組織の構成員。
かなり昔から組織は存在していると思われた。
世界で秘密裏に活動する、存在しないはずの存在。
どうやらこの闇は想像以上に深い。
MI6、SVR、MSS、モサド、BND──
世界各国の諜報機関は意図的に隠している。
知っているのだ。裏社会の上位階級は、その組織を。
そう考える方が自然だ。
今まで知られていない方がおかしいくらいだった。
時代も、国境も、人種も、宗教も、関係ない。
その名は〈八咫烏〉。
それは日本の非公式特務機関。
そして、女性の名は〈伊波レイ〉。
触れてはならぬ名だ。
Protocol VOID
このプロトコルは明文化されない。
八咫烏に関する調査ならびに接触は、国家情報長官の承認がない限り禁止。
記録は全て非電子的に処理し、複製、転写、持ち出し、音読を禁ずる。
接触者は原則として監視対象とする。
不可解な事象が起こった場合、目を逸らすことも重要である。
観測者が観測された場合、それはもはや観測者ではない。その場を離脱し、距離を取り、静観せよ。
これは記録に残せない情報であり、記録に残してはならない情報である。例外はない。




