外伝:静かなる伝聞
見えない声に耳を傾けよ。
それは前触れもなく、汝に届けられる。
街を吹き抜ける風のごとく。
空もよく映えている、日曜日の午前八時。ユトレヒトに教室を持つ柔道インストラクター、アンネミーク・デ・フリースは賑わうコルテ・ミンレブルーデル通りを歩いていた。多くの人々が行き交い、言葉を交わしている中、彼女の視覚、聴覚は少しの違和感も逃さないよう、周囲に対しての感受性を高め、自分に求められている役割を果たそうとしていた。
今朝、寝室近くの窓ガラスが正確に三回突かれ、白紙のカードが窓縁に差し込まれていた。それを見つけたアンネミークはカードを落とさぬよう、慎重に窓を開け、縁から引き抜いた。真っ白な一枚の紙片。サイズはハガキほど。ぱっと見、何も書かれていない。しかし、指で中心辺りをなぞると黒い文字が浮き出てきた。
─大きな影の持ち主に朝のあいさつを
この街で“大きな影”を生み出せるのは教会の塔しか思いつかない。
通りではスマートフォンでラジオを聞いている若い男性ともすれ違った。彼の有線イヤホンは左耳だけが外され、音が外に漏れている。
─特に柔道の創設者として知られており、柔道の父と呼ばれています……
まるでタイミングを計っていたかのように、南南東にあるドム教会の塔から一羽のカラスが飛び立ち、その近くで三回、飛びながら円を描いた。その後、一回急降下し、その後、急上昇。高度を保ったままこちらへ飛んできた。その様子からアンネミークの視線を確認しているかのようだった。ただ、カラスは彼女を見ても何かを告げることはない。他のカラスと合流し、この場を早々に離れていった。
全てには意味がある。それをどう汲み取るかが肝心だ。とりあえず、カラスが円を描いた場所を目指しアンネミークは歩く。位置としてはドム塔から比較的近い場所だった。ドム塔は高さ112メートル、オランダで一番高い教会塔。観光に訪れる者も多い。
他の組織に対する警戒もしつつ、それでいて自然体を保っているアンネミークに興味を示す一般市民は誰もいない。ただ一人の老人を除いては。
共鳴。
その言葉がまさにぴったりだ。
互いに存在を感じ合っている。
老人は七十代のドイツ人男性。老眼鏡と思われるメガネを掛け、何かの冊子を右手に持っていた。表紙から察するに冊子はトルコ、イスタンブールにあるイスタンブール考古学博物館のものだ。さらに考古学博物館の文字が黄色の蛍光マーカーで囲まれている。
「おー、そこのお嬢さん、すまないがこのアプリの消し方を教えてほしいんだ。インストールの仕方は知っているんだけど、消し方が分からなくてね……」
老人はなまりの少ない、ホラント方言のオランダ語。彼が差し出してきたのはスマートフォンだ。地図アプリが開かれている。当然、表示言語はドイツ語。それでも示されている内容は理解できた。場所はアムステルダム中央駅。ユトレヒト中央駅からアムステルダム中央駅までの所要時間は三十分ほど。
「ホーム画面に戻して、このアプリのアイコンを長押ししてください」
「ホーム画面というのは最初の画面かな?」
「そうです。ホーム画面に戻って、アプリのアイコン……これを長押しして、×を押してください。それでアプリを削除できます」
老人がホーム画面に戻すとアプリ削除をすることなく、続けてメモ帳アプリを開き、英語で書かれた次の一文を見せた。
─左手を伸ばせ。空を飛ぶための相方が必要だ
「ありがとう。時間を取らせてすまなかったね。これはお礼として受け取ってくれ。それじゃ」
去り際、老人は茶封筒を彼女へ手渡した。封筒の中身は航空券が二組。アムステルダム・スキポール空港発、イスタンブール空港行の往復券が二人分だ。アムステルダム中央駅からスキポール空港駅までは十五分から二十分。出発時間から逆算すると余裕はさほどない。そのまま迷うことなくユトレヒト中央駅に向かった。
すべきことをするだけ。彼女の表情に何もやましいことはなく、心拍や表情筋に特段の変化は無い。ごく当たり前の事。ゆえに、AIイージス搭載カメラによる犯罪予測システムであったとしても、その顔から異常を検知することは不可能だ。
巨大なハブ駅、ユトレヒト中央駅。ここはオランダの心臓といっても過言ではない。その利用者数は国内の駅でも一番を誇り、大勢の利用客の内の一人がアンネミークだった。アムステルダム中央駅行は1番ホーム。タイミングが良いのか、はたまた全て計算されていたのか……列車の到着時間の五分前にはホームにたどり着いた。
新たな接触や糸口もないまま、やってきた列車に乗り込み、車内の乗客を観察する。惹かれる相手はいない。どうやら一般的な市民だけのようだ。
視点が変わり、ここはアムステルダム中央駅。
8番ホームに列車が入って来る。他の乗客とともに下車したアンネミークはスキポール線へ乗り換えるため、4番ホームに移動した。ここアムステルダム中央駅は全ホームが列車の通り抜けができる通過式である。また、ホームは三つのヴォールト式トレイン・シェッドで覆われている。このトレイン・シェッドの曲線状アーチは駅のトレードマークともいえ、実に見事な建築となっていた。
空港行の列車をしばし待つ間、彼女は左手を天へと伸ばしてみる。彼女自身、自分の解釈がどこまで正しいのか、そもそも正しいかすら分かっていない。おそらく、八咫烏のエージェントはそういうものなのだろう。無数のエージェントがいる中、本当に最適な人物が選ばれる、それだけなのだ。
「あー、ごめんごめん。待った?」
だが、少なくともアンネミークの解釈はここまで合っていた。彼女の動作に反応した女性がいたのだ。こちらに手を振りながら走り寄って来る女性。キャリーケースに旅行かばんを持つ、同い年か少し年上の女性だ。
「トイレで手間取っちゃって」
「大丈夫」
さも自分の荷物かのように、アンネミークは渡されたキャリーケースを受け取り、相方の女性の顔を見る。不思議と他人の気がしない。深い奥底で繋がっている、何とも言いようのない感覚だ。自然と笑みがこぼれた。
「これ渡しておくね」
「ありがとう」
イスタンブールの観光名所を特集している国内雑誌。何か挟まれており、厚く膨らんでいる。赤色の付箋が見え、該当ページをめくると、そこにはイスタンブール考古学博物館の紹介ページとともに、アレクサンドロス大王の石棺がイラストで載っていた。そして、渡航用のパスポート。顔写真もちゃんと自分が映っている。政府発行の本物だ。レーザー印字されている氏名、生年月日、本籍地といった個人情報が全て“偽物”という点を除けば。
今回、与えられた名前はマールテ・ファン・デン・ベルク。彼女の、エージェントとしてのコールサインはバタフライ8。世界各地にいるスリーパーエージェントの一人。
「どう、面白そうでしょ?」
「ええ。本当に楽しみ」
彼女達はやり遂げる。
そのために来た。
任務は必ず遂行される。
その結果は決して揺らぐことはない。
汝、彼方の世界で羽ばたく蝶がいることを知れ。




