第2話:空白の記録
記録が消えていた。正確には、「そこに記録が存在していない」ことが記録されていた。
2030年、プラハ第三区域。
PMCパラディン・セキュリティ幹部の死亡から4時間が経過。
幹部の遺体は即座に全身スキャン後、速やかに車両で基地へ移送。
早朝、現場となった上空と地上半径5キロメートル圏内はすでに封鎖され、オーディン型AIを主導としたパラディン・セキュリティの調査分析官が動員された。
「これが例の死体か」
分析官は基地に安置されている、遺体を確認した。
添付された簡易報告書には「生体機能完全停止:原因不明」とだけ記されていた。
また、オーディン型AIは本事案を「排他的情報構造体」と分類した。
その言葉の意味を正確に理解している者は、おそらく誰もいない。
そして、AIから指示がない限り、誰もこの表記について尋ねようともしなかった。
「ヴェリン分析官、車両の準備が整いました」
「今行く」
彼を迎えに来たのは高機動装甲車だ。前後には護衛車両も付随し、上空には武装要員を乗せた小型機動ヘリコプターも飛んでいる。
エリアス・ヴェリンはパラディン・セキュリティ情報分析部門・技術査察課に所属。前職はEUの科学防衛局職員で、無人兵器の戦闘プログラムの最適化に関する研究を行っていたエリートだった。
「情報を展開」
移動中の車内で情報を視覚デバイスに投影する。
狙撃された時刻は午前1時22分47.253秒。
これは被害者の生命反応消失を検知したAIのログ履歴から判明している。
死因は頭部損傷。
被害者の頭部だけを弾頭は吹き飛ばした。
彼はこれが狙撃だとして、複数犯の可能性を考えていた。
おそらく、犯人グループはいくつかの班に分かれて動いていただろう。
「予測される犯人像は?」
AIに尋ねた。
「複数犯。実行班と支援班、さらに偵察班の三グループで構成されていると思われます。狙撃の技術を考慮した場合、狙撃手は非常に高い技術を持っています。また、偵察班の情報収集能力、支援班の妨害能力も考慮した場合、諜報機関が関与している可能性が高く、当社への工作任務と考えられます」
上空を飛行しているヘリコプター、その内部の標的を狙うには相当の準備が必要だ。
ならば確実に痕跡がある。
綿密に計画された暗殺。
裏返せばその合理性を突き止めればいい。
車列は狙撃されたヘリ座標の真下へ到着。
多くの警備ドローンが宙を旋回し、小銃で武装した同社の兵士が道路を封鎖中だ。
ドローンも兵士も、配置、巡回パターンが適切に割り振られている。
当然だが、新たな犠牲者を出すわけにはいかなかった。
「現場は保存されたままだな?」
「はい。完全な状態で保存されています」
地面に落ちている黒い羽根を手に取り、その感触を確かめた。
「カラスの抜け羽、というわけではなさそうだが」
羽ではなく、羽根——つまり加工されたもの。
天然の羽ならば珍しくもない。
羽は抜け落ちるものだ。
何なら今もカラスが飛んでいるのが見える。
「誰かが置いたものではありません。周囲の監視映像ではどこからともなく、ここに落ちてきたことが分かっています」
「ふむ。何かの装飾が取れて、吹き飛ばされたのか」
念のため、端末による精密分析を行う。
AIによる情報分析では構造も表面も、特に変わったところはなし。
「やはり、事件に関りはないようだな」
気になるのは、この羽根に指紋が何も残っていないことだ。
考えすぎかもしれないが、持ち主の指紋すらないのは妙だと思えた。
ただ、装飾品ならば帽子にでも付いていて、手袋をする貴婦人だったなら、指紋が残ることもないだろう。
しょせんはただの羽根だ。
「周囲の調査優先順位を設定」
「順位を設定しました。ナビルートを提示します」
AIは建物の構造、周囲からの秘匿性、ヘリの巡回ルートといった条件を、複合的かつ的確に診断。視覚情報デバイスには建物や道路に優先順位が付けられ、見るべき順番が明確化。
これに従い、エリアスは狙撃位置の特定を試みた。
「次だ。移動する」
道路に不審なものは落ちていない。
監視カメラの映像を見ても、一般市民しか映っていない。
GPS位置情報と市民の個人総合データと照らし合わせても、彼らはただの市民。
どの建物にも狙撃が行われた痕跡はない。
硝煙反応なし。
発砲音なし。
屋上に真新しい足跡なし。
圧痕なし。
床や壁に銃や装備を置いたような、微かなくぼみや傷もなし。
何なら角度的も距離的にも狙撃は無理だ。
ヘリそのものを狙った方が早いまである。
当時の交通機関の様子、道路の様子を衛星画像で確認もしたが、現場から離れていくような車両はない。
「——何もない。何も」
パラディン・セキュリティは事件後、チェコ国内の監視システムによる犯人捜索も実施した。今でもそうだ。
複数犯、それも複数グループならば、AI監視カメラや防犯用センサーによる微小心理分析から逃れられるはずがない。
重要なことに直面した人間、特に違法行為を働かそうという人物は、無意識に微細な震え、筋肉の変化が出る。
全員が全員、チェコ国内の監視網から逃げられるとは思えない。
そのようなことは断じてありえない。
これらの調査状況をオーディン型AIも「見ていた」が、「構造的エラー」「演算不可」という“解なき解”がはじき出され続ける。
しまいには本件を“封印”処置する判断を下した。
「調査は終了。全隊、引き上げだ」
「全隊、撤収。撤収だ。こちらハンドラー2‐1、調査終了。封鎖を解除せよ」
この想定外の事態に対し、エリアスは調査終了を宣言。
現場封鎖を解き、通常態勢へ移行するよう、部隊に命令。
道路の封鎖線は解除され、ヘリコプター部隊は空域から離れていく。
街は“いつも通り”の姿を再構築した。
【基幹システム】分散型AI〈オーディン〉
【監視システム】セキュリティ・クラスタAI〈ファランクス〉
【稼働状況】正常
【該当施設】ヘリックス・ネット プラハ支社
【監視ログ】通信タワー 第一区画 B7通路
【映像ログ】13:20:00~13:25:59 欠損
【衛星通信ログ】6秒間 ホワイトノイズ発生
【分析ログ】構造的異常は検出せず
【自己修復】失敗
【再検討】現状維持
【警備状況】全セクション 異常なし