第19話:汝、幽霊を感じよ
恐怖とは未知を表す。
パミール高原の夜は深い。
群青色の天蓋の下、闇に染まった白銀の峰々が沈黙を湛え、鎮座している。
弱くもないが、強くもない風が吹き、気温は氷点下を動かない。
標高四千メートル。
酸素濃度は60%、体感温度はマイナス23度。
ここは人が息を潜めるのに適さぬ、過酷な地。
コードネーム、ブラックオリオン。
世界企業連盟の通信基地。
表向きは「国際気象観測センター」として登記されているが、その地下にはグノーシスの通信ノードが静かに脈動している。
この地はグノーシスの中庭だ。
基地の外縁、警備ドローンの光が山肌をなぞる。
だがさらにその外、尾根の影に沈む岩陰に、ひとつの気配があった。
彼女はそこで乱れる風に溶け込み、動きを止めていた。
伊波レイ。
彼女の瞳は月光に照らされた、岩の表面を読み取っていた。
下手に歩を進めれば、たとえ微かな音であっても、空気や雪面を通じ、遠く敵の耳に届くだろう。
空は静かだが、情報の流れは騒がしい。
彼女はそれを肌で感じ取っていた。
少し離れた稜線には長距離山岳偵察隊のパトロールチームが展開している。
電子の目を補完する、目と銃口。
さらにその高所、岩に溶け込むよう、スナイパーチームが配置されている。
彼らはAIと接続された強化戦闘スーツを着用。何かが異常を示せば、その指は即座に動くはずだ。
ただし、彼らの拠り所、AIにまだレイという存在は掴めていない。
彼女は滑らかに重心を足裏に移し、次の岩陰へ。
レイは進む。
この場所に眠る情報を掴むために。
夜の凍える寒さの中、五人一組で広大な山岳地帯をパトロールしている警備兵。
長距離山岳偵察隊はパラディン・セキュリティの中でも精鋭中の精鋭部隊。
AI搭載HUDゴーグル、赤外線探知・高感度暗視装置に警戒ドローンとの情報共有といった、情報網は地形・環境と合わせて、ブラックオリオンを鉄壁の要塞としている。
「ヴィクター7‐1からネスト。ポイントJ3、異常なし」
「ネスト、了解」
視覚、聴覚も強化されている彼ら。
風の中に紛れる異音を理解し、わずかな違和感も見逃さない。
その上、パトロールチームを遠方からサポートする強力なスナイパーチーム。
各スナイパーチームは偵察隊、ドローンの死角をカバーしている。
「こちらスケアクロウだ。異常はない」
狙撃手は対赤外線仕様の強化ギリースーツを着込み、岩肌や雪面と同化。
凍てつく空気をものともせず、動きを極限まで抑え、存在を消していた。
そんな彼らにもAIは欠かせない。
AIによる高度な弾道計算だけでなく、呼吸・手ブレによる微細動を自動的補正。
視界に侵入者が入れば、彼らはためらいなく引き金を引く。
「こんな場所にお客さんが来るとは思えないな」
「まったくだ」
地上を走行している無人機、空中を飛行している無人機ともに、姿勢制御は完璧。
坂道だろうと、強風であろうと、完全自律制御されている。
仮に予想外の環境変化があったとしても、自己学習により克服される。
当然、人間の行動パターンは最初から学習済み。
警備兵の巡回とスナイパーチームの監視を組み合わせることで、侵入経路はないに等しい。
そもそも、ブラックオリオン自体、幾重にも防御メカニズムが張り巡らされている。
外側は高圧電流が流れている二重の金属フェンス、対人用無人機銃、赤外線センサー。
敷地内には監視カメラ、警備兵、ドローンジャマー。
グノーシスにとって、ブラックオリオンは侵入不可能の聖域であり、侵入などありえない、そういう認識であった──今までは。
無人機の位置情報は衛星とリンクしているのだが、標高四千メートルという極限環境下では、環境ノイズの影響を多々受ける。
地形の変化、通信状況の悪化。
想定ルートよりも、座標の誤差がわずかに出てしまうことは防げない。
突風に流されないよう、機体を下降する瞬間も、巡回のタイムラグにつながる。
「プレデター、特に異常はない。位置を変える」
「こちらネスト、了解」
理論上、ブラックオリオンの多重監視網は互いを補い合う、隙のない計算された警備体制として構築されている。
実際はドローンのタイムラグがあるだけでなく、偵察隊・スナイパーチームの移動、雪や風といった天候の影響を現場は強く受ける。
ここから生まれる、数秒のタイムラグ、数秒の空白が完璧な要塞に穴を開けてしまう。
ただでさえ、レイという存在を認知していないグノーシスは「あくまでも常識の範囲内」の敵しか想定できていない。
この極限環境下を平然と音もなく動き回り、天候を味方につけ、熱感知にも引っかからない侵入者なぞ、予想できるわけもなかった。
“国際気象観測センター”
“関係者以外、立ち入り禁止”
看板の文字はあせて消えかけている。
緩やかな向かい風を身体に受けつつ、裏口のフェンスドアを見張る二人の警備兵。
彼らはエクス・ヴァラー・アームズ製戦闘スーツ“ゼスト・マーク4”を着用しており、体温の維持、身体能力の向上が図られていた。
パキッ。
静寂な空間を引き裂く、甲高い衝突音。
「何か物音がしなかったか?」
「ああ。飛び石だとは思うが、念のため確認に行こう。ネスト、こちらヴィクター9‐2。不審な物音がした。ただちに確認に向かう」
「了解」
小銃を構え、ゆっくりとフェンスを開けた。
一人が様子を見に行き、もう一人はドアを固める。
「ネスト、ただの気のせいだったようだ。持ち場に戻る」
裏口を映し出す監視カメラにも、戻ってきたもう一人の姿が映っている。
異常はない。
レイは山岳の警備網を切り抜け、ブラックオリオンの地上部まで近づいていた。
すべきことは分かっている。
スナイパーチーム、ドローンの目を避けつつ、敷地内の警備兵、監視カメラ、無人機銃を突破する。
時間はない。
今の場所は照明の影になっており、死角ともなっているが、あと九秒もすればドローンの視野に入ってしまう。
手元の小石を拾い上げ、落下軌道・反射音を考慮した一投。
それは大きすぎず、かといって完全に無視するには小さくもない、音を放った。
「何か物音がしなかったか?」
「ああ。飛び石だとは思うが、念のため確認に行こう。ネスト、こちらヴィクター9‐2。不審な物音がした。ただちに確認に向かう」
「了解」
警備兵の一人がフェンスドアを開き、周りを見渡す。
レイは崖の際、彼から見れば左の岩陰にいるのだが、そんな場所に人が隠れているとは思わず、覗きに来ることはなかった。
警備兵は無線機に手をかけ、無線を入れる。
「ネスト、ただの気のせいだったようだ。持ち場に戻る」
この瞬間、レイは一気に彼との距離を詰め、崖側のドローンをかわした。
警備兵の背中を取り、彼の身体の輪郭と身体を重ねる。
呼吸のリズムや体温を同調させ、彼の“影”となる。
「こっちはもういい。ドローンに任せて、正面に移ろう」
「そうだな」
左手の奥、建物の屋根には無人機銃が周囲を警戒中。
無人機銃は人工知能による画像解析、赤外線センサーによる物体感知が可能だ。
敵味方識別機能があるため、敵だけに反応する優れもの。
ただ、敵が味方の背後にぴったり付いている、というケースには無力だった。
レイはうまく警備兵の動きを使いながら、敷地内への潜入に成功。
監視カメラの死角を見逃さず、電子ロックされたドアへ忍び寄る。
関係者以外、立ち入り禁止
いつもの手順で非電子的ハッキングを実行。
一時的に電子ロックが外れ、レイは中に入ることができた。
暖かい屋内。
空調が効いている。
外とは大違いだ。




