第12話:空を知り、海を知る
常識には非常識で。
定番には型破りで。
演算には直感で。
オペレーション「ダスク・タイド」。
成層圏の静寂は音のない大地よりもさらに遠い。
深夜三時、高度一万二千メートル。
雲の上を一つの影が滑っていく。
レイは無言のまま宙を落ちていた。
凍てつくマイナス57度の外気温。
遺伝子、細胞、分子レベルでレイの身体は極限低温下、低酸素状態、気圧変化へ適応済み。
その上、彼女は大気の微細な流れを読み、自身の姿勢と軌道を完全に制御していた。
パラディン・セキュリティの衛星監視が完全に途切れる、軌道間隔はわずか147秒。その中に自らを溶け込ませたHALO降下。体温は自律制御されており、外気との差を0.4度以内に維持。発熱していない以上、熱探知網には映らない。
パラシュートは折り畳まれたCNT複合膜。極限まで薄く、それでいて強靭。
開傘すら風の音に過ぎない。
月あかりもない中、海面が近づく。
島の南西、ソナー網の死角。
風の流れ、潮と波の動き、魚群の位置。
全てを読んだレイは、正確な一歩分だけ左に傾いた。
滑るように彼女の影は夜の海へと吸い込まれた。
着水は音がなかった。
何なら水面に浮かぶ波紋すら現れなかった。
レイは着水と同時にパラシュートを瞬時に収納し、静かに沈降する。
閉鎖型CNTリブリーザーが胸元で起動した。ノイズゼロの酸素循環。酸素マスクは高高度酸素供給、水中呼吸の両モードを有している特殊ハイブリッドマスク。そのため、交換は不要だった。
電磁推進の水中スクーターは音を発さず、闇に包まれた海を進む。
レイに暗視装置は不要。
ある程度、水の中を進んだレイは水中スクーターを手放し、潮流へ任せて流した。
彼女には見えるのだ。水の流れも、魚の向きも、敵のソナー網も。
インド洋チャゴス諸島より南東約120キロメートル。
存在しないとされる小環礁の内部にヴェルニル社プライベート・アイランド“グリーンパール”は位置していた。
登記上は「生態系保護区」「海洋研究拠点」。大きさは約1.8平方キロメートルほど。外周はサンゴ礁、岩場、マングローブ林で覆われ、島の印象を穏やかなものに見せている。
パラディン・セキュリティの常駐部隊が警備にあたり、陸海空全てに無人機が展開している。
空には無人偵察機と小型無人哨戒機。
陸には四足歩行無人機、対人用自動機銃。
海には潜水型無人機、定点水中ソナー。
警備兵全員には軍事AI〈アンタレス〉とリンクした戦術デバイス、赤外線フュージョン方式暗視装置があり、暗闇の中でも広い視界と高解像度を確保。熱を持つものは赤く浮き出る。さらに、不審な物音の反響音を解析し、発信源も特定が可能だ。
これは各種無人機にも当てはまる。サーマルによる侵入者検知は気温が下がり、温度差の出やすい夜間の方が鋭かった。
限られた光を使い、水中を進んでいる無人機。
あらゆる物を識別し、それが生物なのか、無生物なのかを判定していく。
搭載ソナーから得られる情報は座標情報も組み合わせられ、地形データとしても使われた。つまり、同座標で過去と異なる反響パターンを示せば、無人機の精査対象となる。
ただ、レイの体温は周囲と同化しており、泡も音も出さない。
そう、静かに魚群と岩場に紛れ、環境ノイズに溶け込む。
熱源は存在せず、ソナーによる反響にも感知されない。
無人機の動きに合わせ、彼女も動く。
位置が分かり切っている定点ソナーはもはや飾り。
結果としてソナーパターンを確実に回避できた。
AIアンタレスが見つけ出すべき異常は“最初から”存在していなかった。
高度環境適応CNTナノスーツによる断熱性と耐圧性を考慮したとしても、常人には過酷極まりない環境。装備も最低限で済むのは、レイ自身の持つ卓越した“環境適応”能力によるものだ。
水深12メートル、海底を這うようにして進む。
目指すのは排水管の導管だ。
遠くから伝わる水の流れ、ほのかな温かみ。
島へ近づくにつれ、それはより強く感じた。
微かに聞こえる人工の水音。バルブの振動数、流体の脈動、空調システム──
彼女の耳の奥で地図となる。
排水管の出口は格子状のステンレス製フィルター。
そのままでは通れないため、一部を小型ナノナイフで静かに切除、進入。
すぐ手前には異物破砕用のローターブレードが回転している。そこまで速くはないが、それでも巻き込まれれば人は簡単に死ぬだろう。
レイはその回転刃を接触することなく、身に着けた装備を傷つけることなく、かわし、さらに奥へ。
排水流は自動スライド式防圧バルブを利用、AIによる自動管理がされている。排水量、水圧、逆流状況などを総合的に判断するため、排水速度は常に変わり、熱感知センサーも備わっていた。
ただし、レイという存在を想定したシステムではなかった。
ここまでくれば警戒すべきセンサーはない。
伝わってくる情報量も増え、より正確な地図が頭の中に描かれていく。
導管から這い出た瞬間、鉄くさい空気の層がレイの頬に触れた。
同時に密着型の特殊繊維ナノスーツが水分を即座に排出。
足音も衣ずれも存在しない。
フィンは足先から音もなくスライドして取り外し、背中のホルダーへ収納。
次に防水密閉式装備パックから自身のハンドガン〈ミラージュ〉を取り出した。サプレッサーを取り付け、マガジンを装填。続いてスライドを引き、初弾装填を終わらせた。
「ヴィクター各員、特別警戒態勢。クラスD被験体の移送にはアンタレスおよび所長の許可を得ること。アウト」
地下三階層から構成されるヴェルニルの研究所。
地下一階では手錠を掛けられ、目隠しされた者達が個室に入れられている。
ドアには電子ロック。
トイレとベッド、洗面台が備え付けられ、外部との通信はできない。
まるで、囚人のような扱いだが、彼らのほとんどはヴェルニル社を含め、連盟加盟企業に雇用されている従業員であった。
部屋番号A5。
部屋の隅では監視カメラが稼働中。
「いつになったらここから出してくれるんですか?」
弱々しく外へ尋ねたのはソフィア・タナカ。
ここに連れられて、どれほどの時間が経ったのかは分からない。
孤独、不安、恐怖──
部屋自体、遮音されていることすら知らない彼女。
そんな彼女へ訪問客が現れた。
パラディン・セキュリティの兵士一人と研究員らしき男性だ。
「来るのが遅くなって申し訳ないね。順番待ちが多いんだ。ああ、そのまま動かないで。少し機器を付けさせてもらうよ。うそ発見器みたいなものさ。正直に私の質問に答えてくれ」
研究員の右手には彼女の経歴と功績が記された資料。
ソフィアの頭、胸、足にいくつかのパッドを貼り付け、心理診断機器をリンクさせた。
脳波、心拍、筋肉、血管、呼吸の各グラフが示される。
「あなたは何者なんですか」
「心配しなくていい。私は君と同じヴェルニルの社員さ。ただ、所属している部門は違うがね。さっそくだが、君はどこかのスパイかな? 何が目的だ?」
「そんな……アクセスログの話なら知りません」
「ふむ。嘘は言っていない。アクセスログによると、ほんの十数秒のアクセス。その間、君は食堂に向かっていた、と」
「ええ。オーディンに音声でデータ解析を頼んだ。その後、すぐに部屋を出た」
「確かに辻褄はあう」
彼女のいう通り、オーディンの解析ログには不審アクセス前の時間が残っている。
そして、彼女は食堂に向かう途中、パラディン・セキュリティに拘束された。
アリバイはある。
まあ、アリバイがあっても、なくても、彼の仕事には関係ないことなのだが。