第10話:透明な都市は個と社会の交差点に立つ
淀みない空気は自然とかけ離れたものだ。
濁りのない水を誰もが手にできる。
洗練された都市風景、響きわたるのは無機質な声。
深く染み入る文字、数字。
ここは金融、情報、物流のハブであるシンガポール。
光エネルギーによる太陽光発電、波による波力発電、歩行者による運動エネルギー発電といった発電は広く電気エネルギーを生み出し、情報化された社会を支えていた。
夜明け前、ガーデンズ・バイ・ザ・ベイのクラウドフォレスト内。
中は植物の楽園とでもいうべき緑の世界を構築していた。都市の放つ味気ない色とは違う、鮮やかで多様な形を見せる。30メートル以上の高さから滝が流れ落ち、生い茂る緑の葉は数えきれない。
そんな見事な自然の雄大さを差し置き、レイが向かったのはある植物の根元。
葉がわずかに揺らぎ、その陰に隠されたものを彼女は拾った。
「確保した」
手にした情報端末は電源が入らない。
だが、中のデータはまだ生きている。
裏面には“VELNIR”の文字──
ヴェルニル・バイオ・インテリジェンスの社内用端末だった。
ガーデンズ・バイ・ザ・ベイから離れつつ、遠隔操作でレイは自分の車を呼ぶ。
無人の状態で目の前に現れたのはEVクーペ。外観はどこにでもありそうな印象を受ける、濡羽色の車だった。
右座席の運転席に乗り込み、ステアリングを握る。
乗り込みからシート着席までの動き、姿勢の圧力分布、指圧から本人認証。
マニュアル・モード。
アクセルペダルを踏むことで、驚くほど静かに走り出した。
〈夜叉〉、この車はレイ専用に開発されたステルスEVクーペである。移動、潜入、離脱に使えるだけでなく作戦指令室にもなる。車体構造レベルから音響制御を考慮して設計されており、さらに静音性を高めるステルス走行モードを搭載。
街中にはパラディン・セキュリティのパトロール車両が走り、AIイージス搭載監視カメラがそこら中に配備されている。
民間委託による経費削減と活動の透明化を掲げたシンガポール政府は積極的に民間企業を活用。デジタルの恩恵を受けていた。端的にいえば世界企業連盟によって政治、司法、警察、軍が掌握されていた。
AI政治家、AI裁判官、AI戦術指揮官という存在は身近となり、救急・消防・警察・軍はほぼ民営化。救急と消防はネオライフ・アルカディアの子会社アスクラピア・メディカルが担当。警察と軍事はパラディン・セキュリティが統括している。
国民データすらヘリックス・ネットの下で一元管理され、国民もこれを歓迎したのだった。国よりも早く、行動力があり、合理的かつ透明性のある大手企業の方が信用できるという世論の流れは、もはやシンガポールに限ったことではない。
「市民の皆さま。公共の安全と対テロ対策のため、パラディン・セキュリティ社へのご協力をお願いします。現在の警戒レベルは1です」
赤信号で止まった夜叉。
ほとんどのビルの窓や壁には柔軟性のある太陽光発電シートが貼り付けられている。光合成細菌を含むナノゲルシートも見えた。建築の設計段階から環境、発電、空調管理を想定した、これらの建築は世界的にも高い評価を得ていた。
再び信号が青に。
空には太陽に照らされたカラスが飛んでいる。
レイも車を発進させるとともにナンバープレートの表示を変えた。
目的はワン・ノース地区にある“バイオポリス”の偵察だ。
「さて、あなたたちは何を隠しているの」
コモンウェルス通りからバイオポリスへ近づく。
国際的なバイオ医療研究拠点であるバイオポリスには多くの大企業、研究機関が集まっていた。官民連携の地でもあることから、世界企業連盟の出資・寄付額は高額で、潤沢な資本による拠点の新設、増設を実施。その上、シンガポール国立大学の優秀な学生を囲ってもいる。
ヴェルニル・バイオ・インテリジェンス、ネオライフ・アルカディア、ピクシス・ファーマといった超大企業を筆頭に世界の医薬品・医療企業の研究拠点が置かれ、シンガポール政府も助成金を出し、法的規制緩和を進めていた。
「市民の皆さま。公共の安全と対テロ対策のため、パラディン・セキュリティ社へのご協力をお願いします。バイオポリスおよび周辺地域の警戒レベルは3です」
無人警戒ドローンにはマイクロ発信機内蔵ペイントボールガン、催涙ガス弾といった非致死性武器を搭載。また、防弾チョッキ着用の武装警備兵が配備、巡回している。彼らが持っている銃は実弾だ。
「昔とはだいぶ変わったわ」
北ブオナ・ヴィスタ通りの曲がった道を走る一方で、レイはあらゆる情報を視界から取り入れていく。
バイオポリス内の監視カメラは高感度赤外線センサー、不審者識別機能、警報装置を内蔵。建物のガラスは強化ガラス、空調システムはウイルス・細菌・有害物質による空気汚染を防ぐために汚染検知システムと高性能ナノフィルターが採用されている。
「なるほど」
ワン・ノース地区を通り抜け、アヤ・ラジャー高速道路へ合流。
夜叉はカトン地区に向かい始めた。
プラナカン建築の美しい色が映えるカトン地区。
車体カラーがチャコールグレーに変わっている夜叉は、とあるプラナカン様式の建物がある敷地へと入った。古風な外観ながら屋根付きの可動式車庫を持ち、さらに大きな中庭もあった。
ここは“花守”のコードネームを持つセーフハウス。
カラフルな見た目は一見して隠れ家らしくない。
二階の一室。
レイは情報端末の背面フレームに右手を添える。
何も映らない画面が起動した。
左手には指先サイズで極小の先端を持つペン型ツール。
ツールの先端が端末のわずかな通電接点に触れると、高調波混入パルスが送り込まれた。
それはOSを経由せず、ストレージの記憶構造に直接アクセスし、システムに“存在していたことすら知らない命令列”を流し込む。
電子的ではなく構造における物理干渉。
OSに命令を実行させるのではない。
“状態を物理的にスイッチさせる”ということだ。
電子痕跡はほとんど残さない、独自の非電子コード注入ツールだ。
微細な感覚でツールを動かし、HDDのコントローラチップ基板共振周波数に干渉、一部レジスタをバイパス起動。
数秒後、画面が揺らぎ、通常では開けないサブパーティションが解錠。
さらに、ステガノグラフィ技術による不可視ディレクトリがあぶり出された。
「ハロー、アンダーワールド」
グノーシスのロゴが現れると同時に、いくつものデータが展開され、写真データも表示された。
これは極秘ファイルだ。
ヴェルニルが抱える闇の一部。
非合法技術の数々だった。
神経接続型インターフェイス、精神調教用AI、人格バイオニューロ・チップ。
他にも乳幼児に対する記憶植え付け実験、身障者への非認可バイオ素材の応用、感情操作マイクロマシンの開発、そして遺伝子操作されたヒト胚。
「ずいぶんと勉強熱心ね」
それぞれの詳細情報は得られなかったが、黒幕へ近づく第一歩としては上々。
内容自体は想定の範囲内。
非合法活動しているのはヴェルニルだけに限った話ではないだろう。
世界企業連盟、そしてグノーシスの目的。
それを知る必要があった。