第9話:虚構の彼方で眠る
情報とは正確でなければならない。
情報とは新鮮でなければならない。
情報とは唯一でなければならない。
情報戦とは静かなる戦争である。
そこに銃は必要ない。
高度約4万1000フィート。
イスタンブール空港発、トランスフラックス特別空輸便「TF223」は時速920キロで飛行中。目的地はアムステルダム・スキポール空港。
都会の騒音とはかけ離れ、別世界のような静けさだ。
ここにはノイズがない。
アドリアンの目の前にはAI補助HUDが見える。高度、方角、巡行速度、機体角度、水平線、目標マーカーが表示され、太陽光の偏向機能もあった。
「オートパイロットに切り替え」
ボタン操作。
マニュアルからオートパイロットへ切り替え。
機体制御を全てAIに任せ、アドリアンは席を立った。
制服の胸ポケットにサングラスを納め、無人の客室へ入る。
彼の手にはアタッシュケースが握られていた。ケースには鍵がかけられており、部外者が開けることはできない。
ケースを床に置き、鍵へ鍵を差し込んだ。
しっかりとした鍵穴の感覚。
鍵が回り、錠が開く。
中にあるのは書類の束。
彼がその中でも選び、手にしたのは輸送目録だった。
これは、この機に積まれている品物のリストだ。
「アムステルダム国立美術館へ貸し出されるのは27品だけ。つまり、残る一つが探し物ね」
機体後方へ進み、レイは貨物室へのアクセス通路を開けた。
積み込まれた文化財の中から、「聖母マリアの石板レリーフ」を取り出し、その梱包を解く。このレリーフは偽物だった。
「これが盗まれた機密情報」
レリーフに隠されていたのは中国の機密情報。
MSSが回収依頼したものだ。
外交、軍事、産業、政府に関する機密の塊。
紙にまとめられたファイルはA4用紙200ページを超える。
その中にはMSSの最高機密まで含まれていた。
「私からの贈り物よ」
その機密ファイルの代わりに、変哲もない孔子の“論語”をレリーフへ収め、最初の梱包と全く同じ状態に直した。
その後、フライトは2時間53分続き、TF223はアムステルダム・スキポール空港を視認した。視界は良好。マニュアル操縦。
「アプローチ管制、こちらタンゴ・フォックストロット223。進入指示をこう」
アプローチ管制との交信を行う。
「タンゴ・フォックストロット223、100フィートまで降下し、滑走路18Rへのアプローチを要請」
「タンゴ・フォックストロット223は了解。現在、100フィートまで降下中、滑走路18Rへアプローチを行う」
「タンゴ・フォックストロット223、スキポール管制塔の周波数は118.875。良い一日を」
「こちらタンゴ・フォックストロット223、118.875了解。良い一日を」
アプローチ管制との交信終了。
周波数を切り替え、次にスキポール管制塔と接続した。
「スキポール管制塔、タンゴ・フォックストロット223は滑走路18Rへ進入中」
「タンゴ・フォックストロット223、風向190度から風速6ノット。滑走路18Rへの着陸を許可する」
「こちらタンゴ・フォックストロット223、滑走路18Rへの着陸許可、了解」
親指でスロットルレバーを1ノッチ絞り、視線はHUDのフライトパスベクターへ。
右手で操縦桿を保持しつつ、左手でフラップを40まで下げた。
ランディングギアはすでに展開、ロック済み。
着陸灯、点灯。
アライメント確保。
ドリフト角、補正済み。
スラスト比1.02保持。
レイの操作するTF223は、わずかに風に流されながらも、一直線に滑走路18Rの滑走路末端へ吸い込まれていく。
滑走路が目前に迫った瞬間、突風が吹いた。
左からの横風16ノット、斜角約15度。
舵を微調整。スロットルを同調。
機体は静かに降下曲線を維持し、無衝撃に近い主脚接地を達成。
タッチダウン。
スラスト・リバーサー起動。
スポイラー展開。
クラブ角5度固定。
着陸は完璧だった。
その後、地上管制と交信を引き継ぎ。
誘導路を通じ駐機場V5までタキシング走行。
完全に駐機が完了すると、待機していたトランスフラックス・アムステルダム支社の輸送チームがやってきた。
彼らへ貨物とアタッシュケースを引き渡し、レイは空港をあとにした。
17時21分55秒、アムステルダム中央駅。
多くの人々が行き交う中、ビジネスマンに扮したMSSのエージェントが一人、腕時計を見た。約束の時間は17時22分。
「これが必要ですよね」
彼の前に現れたのは黒髪の女性。封筒を渡すと、すぐにどこかへ消えてしまった。
はっきり顔を見たはずなのに、その顔を思い出せない。
印象が残っていなかった。
ついさっきの出来事なのに。
ふるまい方、声のトーン、移動の仕方、視線から渡し方まで──
その全てが雰囲気、存在の密度をコントロールしていた。
何はともあれ、エージェントは情報を回収できた。
予定通り彼は本国へ帰還する。
レイという影は去った。
機密情報の中には上級エージェントでさえ触れられない、レイに関するものもあった。
そのうちの一つが完全な両側対称性。
レイは利き目、利き手、利き足、利き耳が左右両方。
これにより常人には真似できない身体バランスを実現し、どのような姿勢でも、どのような状況でも、最高の身体能力を発揮できた。
さらに、最高機密中の最高機密、パンドラの箱になっているのが「レイの不老不死メカニズム」に関する研究内容である。MSSは過去、ひそかにレイの毛髪からゲノム情報を解析し、彼女の持つ身体的特異性を解明しようとした。
特異な遺伝子領域、特異なミトコンドリアを見つけることはできた。
成果はそれだけだった。
確かに老化を抑え込む、驚くべき遺伝子群ではあったが、到底、不老不死の秘密とはいえない。変異したミトコンドリアについても、エネルギー産生能は桁違いに高効率で、活性酸素をほとんど出さないことがわかった。
しかし、求めていた不老不死の実現には届かない。
つまり、不老不死を解き明かすには、レイという個体全体を理解しなければならないということであった。未知のメカニズムがまだまだある。そういうことだった。
未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん──孔子
世界企業連盟から情報を受け取った“グノーシス”は状況を理解しようと、連盟側へ問い合わせた。
中国の機密情報を受け取る予定はずだったが、実際に受け取ったのは孔子の論語が記された書籍。これは何かの暗号なのか、どういう意味なのか。
連盟側は事態を把握するため、速やかに追跡調査を開始。
過去ログからイスタンブール考古学博物館からトランスフラックスへ渡されたのは確実である。さらに、イスタンブール空港までの移送でも異常はなし。空港での積み込み作業も問題なし。
特別空輸便TF223のフライト情報も全て記録されているが、異常なし。
アムステルダム・スキポール空港での積み下ろし作業が行われた際、荷姿は積み込まれた時と変化はなく、輸送チームが余計なことをしたわけでもなかった。
完璧な輸送計画の破綻。
許されざる失態。
もう一つ、気がかりなこともあった。アムステルダムで、パイロットであったアドリアン・ヴァルクールが事故死したという情報である。これが単なる事故死なのか、それとも事件に巻き込まれたのか、グノーシスには判断できなかった。とりあえず自動車業界は完全自動制御を基本にすべきだろう。
重要な情報の輸送に失敗した世界企業連盟に対し、グノーシス側は情報の確実な追跡ができるよう求めた。今回の情報収集にはグノーシスが大きく手を貸したのだから、当然の反応であった。