第8話:影とともに去りぬ
光は波を打ち、闇は音を出す。
影は光より出で、闇に溶け込む。
目に見えぬ声を忘れるなかれ。
中国の諜報機関MSSが気づいた時には手遅れだった。
政治家、外交官、軍、国有企業、中国科学院から同時多発的に機密情報を盗まれていた。
サイバー攻撃への対抗に注力していたのが、裏目に出た。
世界企業連盟(Global Corporate Consortium)。
それは「民間主導による社会の改善と安定」を理念として、加盟企業間の「相互利益の享受と新たなる未来の開拓」実現を目指す、高度な企業共同体。
当初、創設に携わったのは世界的な多国籍企業ら数社だけだった。
今では加盟すること自体が一種のステータス化し、超大企業の集団となっている。
国際社会における、新たな勢力の登場はMSS内でも議論の的となり、安全保障上の障壁と認定された。
問題なのは政府の危機感のなさ。
民間組織なぞ、どうとでもできる、という舐め切った風潮だ。
でも、軍部に頼るのは避けたい。
──内通者。
企業と接点を持つ軍部は油断ならない。
この潜在的リスクがMSSの動きを封じ、機能不全に陥らせている。
世界企業連盟の影響力は侮れない。
かといって、膨大な機密情報をこのままグノーシスへ渡すのは悪手極まりない。
次世代兵器に関する研究と設計図、諜報活動地域とエージェントの名簿、外交における各国との裏取引内容。グノーシスがこれらの情報を手にした場合、世界企業連盟とともに、さらなる世界秩序の崩壊を招くことになるだろう。
もはや、自力解決できないことを悟ったMSS上層部は彼女を頼ることにした。
伊波レイ。
八咫烏である。
日本の非公式特務機関。
それはとても異質な存在だ。
その存在は替えが効かない。
時に敵、時に味方。
基本は中立。
世界から隔たれた、孤高の集団。
最も信用できる組織だ。
レイへ向けたMSS部長の暗号文は次の通り。
──────
一葉の舟、霧の海を渡る
風向きは定まらず、波は黒き音を秘す
月は遠く、孤影は橋を越えぬ
ただ、落ちた果実がどこに転がるか
誰かが見ていてくれることを願う
西と東のはざまに
静かなる丘を臨んで
紅旗は折れずとも、根に染み入る「音」を拒まず
──────
中国市場における、世界企業連盟の資本、技術、情報、人材といった影響力は無視できない。
むしろ、連盟なくして今の中国経済は成り立たなかった。
世界一の人口。
複雑な民族事情。
富裕層と貧困層の格差。
広大な国土。
中国の巨大な市場は連盟に好都合だった。
常に企業は市場の流れを分析し、何を求めて、何を嫌っているのかを知る。
情報の宝庫。
情報は武器なのだ。
このまま押し負けるMSSではない。
【基幹システム】分散型AI〈オーディン〉
【作業管理】ロジスティクス・クラスタAI〈プトレマイオス〉
【稼働状況】正常
【社名】トランスフラックス イスタンブール本社
【業務ログ】ITF‐32705‐291‐G
【映像ログ】19:07:05~
【社員コード】3386
【名前】アリ・チェティン
定刻通り、イスタンブール考古学博物館に到着。
館内職員との連絡もスムーズに行われ、セキュリティチェックも完了した。
美術工芸品輸送チームは指示された手順で、指定された文化財を梱包し、運び出す。
迷いのない動きだった。
「重心に気をつけて運べ」
「腰をやらないように、無理はするな」
アリが装着しているメガネ型端末に対象物の情報が表示される。
高さ、縦幅、横幅、重さ、重心の予測地点など。
その上、どこに手を置けばいいのか、姿勢の取り方、複数人での運び方までも。
全てが見える。
輸送品目は28種。
手慣れたもので、彼らは替えの利かない貴重品にも関わらず、的確、迅速な働きぶり。
結果、二時間もかからず、全ての品をトラックへ積み込み固定した。
博物館職員から最終確認の書類にサインを署名してもらい、アムステルダム国立美術館への文化財資料と輸送目録を受領。専用のアタッシュケースに収納した。
無事に積み込み作業を終えたトラックは、そのままイスタンブール空港へ。
道路距離にして約44キロの道のりだ。
「あとは無事に空港へ着くだけだ」
外見は一般車両と変わらない、パラディン・セキュリティの護送車両に警護され、車列は市内を走り続ける。
「地上班へ。こちらコブラ4だ。上空はクリア。今のところ進行先に不審な車両の姿はない。オーバー」
空を飛ぶヘリコプターにはパラディン・セキュリティの社名とロゴが描かれていた。
搭乗員は操縦士、機体カメラ操縦士、武装要員四名。
高感度赤外線カメラによる監視によって、隠れた人物も瞬時に見つけることが可能。
武装要員も視野を自在にズームできる赤外線スコープを装着しているため、明瞭にものが見えた。
「こちら地上班、チェックポイント通過。異常なし」
高所や入り組んだ場所に狙撃手がいたとしても、すぐに分かる。
さらに、はるか上空の宇宙空間──
パラディン・セキュリティの人工衛星が周回、地上を監視していた。
旅は順調そのもの。
何も変わらない、いつもと同じ景色。
東から太陽が昇り、街を光で包み込む。
吹き抜ける風も、流れゆく雲も。
静かな一日。
これが日常だ。
「コブラ4、こちら地上班。まもなくイスタンブール空港に到着する。オーバー」
「了解。コブラ4は旋回を続ける」
特に大きなトラブルに巻き込まれることもなく、空港に到着。
ここで車列は一般車両と異なる進路を取る。
「こちら地上班、空港ゲートを通過した」
「了解。周囲に不審車両なし」
空港側から事前に指定されたルートを進み、チャーター機専用の滑走路を目指す。
「コブラ4へ。護衛対象は目的地に到着した」
「了解。こちらは警戒態勢を維持」
ある格納庫内で車列が停車した。
一般的な保安検査を受けることもなく、チームはチャーター機へ荷物の積み込みを始めた。この機はトランスフラックスの特別空輸便であり、貴重品の空輸、要人の輸送にも使われる。
パイロットはトランスフラックス航空輸送部門所属、一名のみ。
副操縦士がいないというのは安全性に問題が生じそうではあるのだが、機体自体がAIの高度な管理下にあり、万が一、パイロットが急死したとしても、機体が正常ならば離着陸に問題はない。
また、この一名体制は機密保持と他の便へ、パイロットを回すパイロット確保の意味合いもあった。
ただ、基本的にパイロットは優秀そのものだった。
様々な危機シミュレーションをこなし、会社に認められた者だけが選ばれている。
未だかつて空輸事業における事故は存在しない。
「忘れ物は無しにしてくれよ。それはフライト予定にないからな」
機内への積み込み作業を確認しているのはアドリアン・ヴァルクール、元フランス航空宇宙軍パイロット。
彼は以前、パラディン・セキュリティに所属しており、航空戦における戦術教官を務めていた。彼のように元軍人やパラディン・セキュリティからの転職組は多い。AIの学習も優秀なパイロットがいてこそだ。
「積み込み作業は終わりました。これが輸送目録とアムステルダム国立美術館への文化財資料です。ケースの鍵はこちらになります」
「出発時刻まで間に合いそうだな」
「あとはお願いします」
「ああ。ここからは私の仕事だ」
アリからアタッシュケースを受け取り、アドリアンは腕時計を見た。
問題ない。
計画通りのフライトができる。