第3話 兄弟の対決
リングハム伯爵城の中庭に、第二王子エドガーの馬車が滑り込んできた。その姿を城の窓から見つめる私たちの表情は様々だった。父は厳格さを取り戻し、母は不安げに唇を噛み、アレクサンダー王太子は冷静な中にも警戒心を忍ばせていた。そして私は……胸の内に複雑な感情が渦巻いていた。
「殿下、いかがなさいますか?」王太子の護衛長が小声で尋ねた。
「このまま迎えよう」王太子は静かに答えた。「私の弟だ。逃げる理由はない」
数分後、エドガー王子が広間に入ってきた。彼の表情は暗く、どこか取り乱しているように見えた。普段の華やかな装いとは打って変わり、旅の埃にまみれた服を着ていた。
「兄上! こんなところにいたのか」エドガーは王太子を見るなり叫んだ。「城から忽然と姿を消すなんて、皆心配していたぞ!」
「心配をかけたようで申し訳ない」王太子は冷静に答えた。「ただ、ある用事があってな」
エドガーの視線が私に移った瞬間、彼の目が見開かれた。
「ソフィア……?」
「お久しぶりです、エドガー王子」私は静かに挨拶した。
「まさか……」エドガーは王太子と私を交互に見た。「兄上、これはどういうことだ?」
「説明の必要があるだろうか?」王太子は腕を組んだ。「単にカミングトン伯爵家を訪問しているだけだ」
「しかし、なぜ……」
「貴様こそ」父が厳しい声で割り込んだ。「第二王子殿下、我が家に何のご用でしょうか?」
父の声には明らかな怒りが含まれていた。婚約を破棄した王子が、何の前触れもなく訪れるなど、礼儀に反する行為だからだ。
エドガーは一瞬たじろいだが、すぐに姿勢を正した。
「リングハム伯爵、失礼をお許しください。実は……個人的な用件でソフィアに会いたいと思いまして」
「個人的な用件?」王太子が皮肉っぽく言った。「先日の卒業パーティーでは、かなり『個人的な用件』を公の場で済ませたようだが」
エドガーの顔が赤くなった。広間に集まっていた人々の間から、小さな笑い声が漏れた。
「それは……あの……」エドガーは言葉に詰まった。
「王子様、もしかして男爵令嬢との間に何かあったのでは?」
王太子の護衛の一人が、わざと聞こえるように言った。これを合図に、広間のあちこちでささやき声が聞こえ始めた。
「聞いたわよ、あの男爵令嬢、もう王子様の元を去ったんですって」
「ええ、わずか二日で!」
「まさか、第二王子様は振られたから、元の婚約者に戻りたいとか……?」
「いやいや、さすがにそれは厚かましすぎるだろう……」
「でも、王子様ですもの。自分の思い通りになると思ってるんじゃないかしら」
エドガーの顔が徐々に赤から青へと変わっていった。私は複雑な気持ちでその様子を見ていた。かつて私を傷つけた彼が、今や衆目の前で恥をかいている。復讐などしなくても、彼は自ら墓穴を掘ったのだ。
「エドガー」王太子が冷静に言った。「用件があるなら、はっきり言ったらどうだ?」
エドガーは深呼吸をし、意を決したように前に出た。
「ソフィア……」彼は直接私に向き合った。「先日の件は、本当に申し訳なかった。私は間違っていた」
広間がシーンと静まり返った。
「エレインは……」エドガーは顔を曇らせた。「昨日、俺を捨てたんだ!」
「!」
「あいつ、今度は隣国の公爵と密会していたらしい。外交使節団の一員としてやってきた公爵だ」
館の中に笑いをこらえる声が漏れた。それは護衛の一人だった。
「失礼……」と言いながらも、護衛は笑いを止められない。
「何がおかしい!」エドガーは怒鳴った。
「いや、これは……」王太子が口を開いた。「父上と母上が帰国されたら、きっと大笑いされるだろうな」
「マティアス公爵といえば、まだ22歳の独身貴族ですよね」王太子の護衛の一人が言った。「女性に人気があるとか……」
「それに財産も十分」別の護衛が付け加えた。「第二王子より格上ではありませんが、実質的な権力は……」
「黙れ!」エドガーは怒鳴った。
場の空気が重くなったが、父がわざとらしく咳をした。
「第二王子殿下、それで我が家に何の用があるのでしょうか?」
エドガーは一瞬躊躇したが、やがて覚悟を決めたように私の方を向いた。
「ソフィアと俺の婚約を元に戻してくれないか?」
その言葉に、広間全体がどよめいた。
「俺が間違っていた。君こそ最高の花嫁だ」
「は?」思わず私の口から声が漏れた。
館の中が再び静まり返った。エドガーは私の反応に気づき、周囲を見回した。
「どうして誰も答えないんだ?」
その時、王太子が一歩前に出た。
「遅すぎたぞ、弟よ」
「な、何だって?」
「私はたった今、ソフィアに求婚したところだ」
「なっ……!?」エドガーは目を丸くした。「冗談だろう!?」
「冗談ではない」王太子は厳しい口調で言った。「王と王妃の許可なく婚約を破棄した第二王子。そしてその相手は、噂の男爵令嬢。王室の面目を潰す行為だった」
「し、しかし……」
「父上と母上はすでに帰国された。そして、エレインの一件も知っておられる」王太子は静かに言った。「君は当分、北方の砦で静かに過ごすことになるだろう」
エドガーの顔が青ざめた。
「北方の砦って……あの何もない辺境の……」
「そこで反省するがいい」王太子は厳しく言った。「そして、カミングトン家に謝罪の気持ちを表すため、君の個人的な宝物庫から相応の賠償を」
「賠償だって?」エドガーは声を上げた。「いくらなんでも……」
「王族の行いによって名誉を傷つけられたのだ。当然のことだろう」
王太子の言葉に、父が満足げに頷いた。
「殿下の仰る通りです。王室の名誉のためにも」
エドガーはしばらく言葉を失っていたが、突然私の前に進み出た。
「ソフィア、頼む! 俺を許してくれ!」彼は切羽詰まった様子で言った。「あの時は一時の迷いだった。本当は君しか考えられないんだ!」
私はエドガーと王太子を交互に見て、深く息を吸った。過去六年間、私はこの人の花嫁になるために努力してきた。しかし、たった二日前に彼は公の場で私を捨てた。そして今、彼に振られた途端に戻ってきたという……。
「エドガー王子」私は静かに言った。「あなたの求婚はお断りします」
館の中で小さな拍手が起こった。それは母だった。
「そうです、娘は正しい選択をしました」母は満足げに言った。「カミングトン家の誇りにかけて」
エドガーは愕然とした表情で立ちすくんだ。
「しかし……兄上が求婚したというのは本当なのか?」
「ああ、本当だ」王太子は頷いた。「そして、ソフィアは考える時間を求めた。それが礼儀というものだ」
王太子の言葉に、エドガーの表情が暗くなった。
「俺は……本当に全てを台無しにしたのか」
エドガーのつぶやきを聞いて、一瞬だけ同情の念が湧いた。しかし、あの晩の屈辱を思い出すと、その感情はすぐに消え去った。
「第二王子」父が厳格な声で言った。「もはやここに用はないでしょう。お引き取りください」
エドガーは何も言えずに肩を落とした。彼は私に最後の一瞥を投げかけ、館を後にしようとした。
「ああ、それと弟よ」王太子が彼を呼び止めた。「父上の命令だ。明日の朝には北方へ出発するように」
エドガーは答えず、ただ大きくため息をついて広間を去った。彼の後ろ姿は、かつての威厳を完全に失っていた。
門まで見送った後、王太子の護衛たちの間から、再びささやき声が聞こえてきた。
「やれやれ、第二王子様は何を考えているんだ?」
「王太子様が男爵令嬢と別れた後に横取りして、今度は伯爵令嬢に戻りたいだなんて……」
「王太子様と伯爵令嬢の方が絵になるわ」
「そうだな。それに伯爵令嬢には特殊なスキルがあるらしい。王家にとって貴重な血筋だ」
「ああ、北方の砦には何もないからな。エドガー王子、ご愁傷様だ」
その言葉を聞き、私はくすりと笑ってしまった。エドガーの存在が、私の人生から遠ざかっていくようだった。
「ソフィア」王太子が私に近づいた。「先ほどは答えを急かしてしまって申し訳ない。本当に時間をかけて考えてほしい」
「はい、ありがとうございます」
「では、私はこれで失礼する」王太子は深々と頭を下げた。「また近いうちに訪ねてもよいだろうか?」
「もちろんです」父が答えた。「王太子殿下をお迎えできることは、我が家の光栄です」
王太子が去った後、私は自分の部屋に戻った。窓から彼の一行が去っていく姿を見送りながら、この数日間の出来事を振り返っていた。婚約破棄、王太子との出会い、そして今日の求婚と兄弟の対決。まるで夢のような出来事の連続だ。
「お嬢様」リリーが部屋に入ってきた。「素晴らしいニュースですね!」
「ええ……まだ実感が湧かないわ」
「王太子様からの求婚ですよ?」リリーは興奮した様子で言った。「しかも王太子様と第二王子様が、お嬢様のことで争うなんて!」
「争うというか……」私は苦笑した。「エドガー王子は単に自分の立場が悪くなって、慌てて戻ってきただけよ」
「それでも、婚約破棄された傷が、こんなに早く癒えるなんて……」
確かに、二日前の悲しみは嘘のように消えていた。その代わりに、新たな不安と期待が入り交じった感情が芽生えていた。
「王太子様の求婚……受けるつもりですか?」リリーが小声で尋ねた。
「まだわからないわ。あまりにも突然で……」
「でも、素敵な方ですよね」リリーの目が輝いた。「あの夜、お嬢様を見つめる眼差しは、本物の愛情に満ちていました」
「そうかしら……」
窓の外では、空が夕焼けに染まり始めていた。運命の糸は、思いがけない方向へと私を導いているようだった。
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翌朝、目を覚ますと、新たな騒動が城内を駆け巡っていた。
「お嬢様!大変です!」リリーが慌てて部屋に飛び込んできた。
「どうしたの?」
「王と王妃がお見えになります!」
「え……?」私は飛び起きた。「国王陛下と王妃陛下が? ここに?」
「はい! あと一時間ほどで到着されるそうです」
「なぜ?」
「王太子様が昨日、急使を送られたそうです。そして……」リリーは少し言いにくそうにした。
「そして?」
「エドガー王子も呼び戻されたとか」
これは予想外の展開だった。国王と王妃がわざわざリングハム伯爵領まで来るというのか?しかも第二王子も呼び戻して……。
「父上と母上は?」
「既に大広間の準備を指示されています。お嬢様も正装をされた方が……」
「ええ、そうね」
急いで最高の礼装に着替え、髪を整えた。心臓は早鐘を打っていた。
一時間後、城の大広間には緊張感が漂っていた。父と母は正装姿で玉座のように飾り立てられた特別席を用意し、召使いたちは最高のおもてなしの準備に追われていた。
そして、城門から王家の行列が入ってくる音が聞こえてきた。
「陛下がお見えです!」執事のジェームズが高らかに告げた。
大広間の扉が開き、ヘンリー国王とエリザベス王妃が威厳ある姿で入ってきた。その後ろにはアレクサンダー王太子と、不機嫌そうな表情のエドガー王子が続いた。
「陛下、王妃陛下」父は深々と頭を下げた。「リングハム伯爵家にようこそ」
「リングハム伯爵」国王は威厳ある声で答えた。「急なお訪ねで申し訳ない」
「いいえ、光栄でございます」
国王と王妃が特別席に着くと、広間は静まり返った。国王はゆっくりと広間を見回し、やがて私に視線を止めた。
「君がソフィア・カミングトンだな?」
「はい、陛下」私は深々と礼をした。
「近くに来なさい」
緊張しながらも、私は国王の前に進み出た。王妃が私を上から下まで観察しているのが感じられた。
「息子たちから話は聞いている」国王は静かに言った。「先日の卒業パーティーでの出来事も、街道での救出劇も、そして昨日の……求婚の件もな」
私は黙って頭を下げた。
「ソフィア」王妃が優しい声で言った。「あなたは困難な状況にあっても、常に品位を保ち、勇気ある行動をとったそうね」
「ありがとうございます、王妃陛下」
「しかし」国王が厳しい声で言った。「我が家の不始末により、あなたに多大な迷惑をかけたことを深くお詫びする」
国王が頭を下げた瞬間、広間全体がどよめいた。国王が一臣民に頭を下げるなど、前代未聞の出来事だった。
「陛下……」父も驚きを隠せない様子だった。
「エドガー」国王が厳しく呼びかけた。「前に出なさい」
エドガー王子は不安そうな表情で前に出た。昨日よりもさらに落ち込んだ様子だった。
「我が息子が犯した非礼について、公式に謝罪させる」国王は厳格に言った。「エドガー、何か言うことはないか?」
エドガー王子は一瞬ためらったが、やがて深々と頭を下げた。
「ソフィア……いや、カミングトン令嬢」彼は公式な口調で言った。「私の軽率な行動により、あなたの名誉を傷つけ、多大な苦痛を与えたことを、心より謝罪します」
声は震えていたが、彼の言葉は明瞭だった。
「また、リングハム伯爵、伯爵夫人にも」エドガーは続けた。「婚約の約束を一方的に破棄したことをお詫びします。私の行動は王家の名誉にも関わる重大な過ちでした」
父は厳しい表情を崩さなかったが、わずかに頷いた。
「謝罪は受け取ります」父は静かに言った。「しかし、傷ついた名誉は簡単には回復しません」
「その件については」国王が割り込んだ。「相応の賠償を用意した。また、エドガーは北方の砦で一年間の謹慎処分とする」
エドガーの表情が暗くなった。さらに国王は続けた。
「そして、もう一つ大切な件がある」
国王はアレクサンダー王太子に目配せした。王太子は前に進み出た。
「アレクサンダー、改めて意思を表明しなさい」
王太子は私の前に進み、静かに片膝をついた。広間全体が息を呑む音が聞こえた。
「ソフィア・グレイス・カミングトン」王太子は真剣なまなざしで私を見つめた。「私と結婚してくれないか?」
国王と王妃の前での公式な求婚。これは単なる個人的な申し出ではなく、王家としての正式な提案だった。
「この求婚は、王家の総意である」国王が付け加えた。「あなたの才能と人格を高く評価している」
一瞬、広間が静まり返った。エドガー王子の表情は複雑だったが、彼も黙って見守っていた。
私は深呼吸をし、心を落ち着かせた。そして、ゆっくりと答えた。
「アレクサンダー王太子」私は穏やかに言った。「あなたの求婚を……お受けします」
広間に歓声が上がった。父と母は誇らしげな表情を浮かべ、王太子の顔には喜びが広がった。
「おめでとう、アレクサンダー」王妃が微笑んだ。「素晴らしい花嫁を得たわね」
「ソフィア」王太子は立ち上がり、私の手を取った。「ありがとう」
その瞬間、広間の隅からざわめきが起こった。
「なんとまあ、素敵な展開ね!」
「第二王子に婚約破棄されたと思ったら、王太子の婚約者になるなんて!」
「カミングトン令嬢、一気に立場が逆転したわね」
「エドガー王子、さぞや後悔していることでしょう」
「ざまあみろ、だね」
エドガーは顔を赤くしたが、何も言わなかった。彼はただ静かに頭を下げ、一歩下がった。
「これより婚約の儀式を執り行う」国王が宣言した。「リングハム伯爵、準備はよいか?」
「はい、陛下」父は誇らしげに答えた。
その日、リングハム伯爵城では盛大な婚約式が執り行われた。急な準備にもかかわらず、城内は祝いムードに包まれ、周辺の町からも多くの人々が集まってきた。
王太子と私が手を取り合い、誓いの言葉を交わす様子を、人々は熱狂的に祝福した。そして、エドガー王子はその様子を遠くから見つめていた。彼の表情には後悔と諦めが混じっていた。
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婚約式の翌日、エドガー王子は北方の砦へと出発した。彼は城を去る前に、私に最後の別れを告げに来た。
「ソフィア……いや、もうすぐ王太子妃になる方に」彼は少し皮肉を込めて言った。「最後にもう一度、謝罪したかった」
「エドガー王子」私は静かに答えた。「もう謝罪は受け取りました。これ以上、過去にこだわる必要はありません」
「そうか……」彼は少し驚いた様子だった。「君は本当に……大きな器を持っているんだな」
「単に前を向きたいだけです」
エドガーはしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「兄上を幸せにしてくれ。彼は……良い王になるだろう」
「はい、精一杯支えます」
「そして……」彼は言いよどんだ。「俺がどれほど愚かだったか、時々思い出してくれると嬉しい」
そう言って、彼は苦笑いを浮かべた。それは自虐的な笑みだったが、どこか清々しささえ感じられた。
「さようなら、ソフィア。幸せになれ」
エドガーは深々と頭を下げ、城を後にした。彼の馬車が城門を出ていく様子を、私は窓から見送った。
「お嬢様」リリーが部屋に入ってきた。「王太子様がお呼びです」
「ありがとう」
中庭に出ると、アレクサンダー王太子が花束を手に待っていた。
「ソフィア、良い知らせがある」彼は嬉しそうに言った。「父上が、我々の結婚式を三ヶ月後に行うと決めたんだ」
「三ヶ月後ですか?」私は驚いた。「随分と早いですね」
「ああ、父上は『良いことは早く』と言っている」王太子は微笑んだ。「それに……」
彼は少し声を落とした。
「王家打倒同盟の動きを考えると、王太子妃の存在は王国の安定にとって重要なんだ。特に『癒しの手』を持つ貴女は」
私は頷いた。確かに、王太子を狙った暗殺未遂事件以来、王国内の緊張は高まっていた。
「それと、もう一つ」王太子は真剣な表情になった。「エレインの件だが……」
「男爵令嬢ですか?」
「ああ。彼女と隣国の公爵との関係は、単なる恋愛ではなかったようだ」
「どういうことですか?」
「実は、彼女も王家打倒同盟と関わりがあった。公爵を利用して情報を集めていたらしい」
「まさか……」
「エドガーとの婚約も、王家に近づくための手段だったんだ」
この事実に、私は言葉を失った。エドガーは二重の意味で騙されていたのだ。
「彼女は既に捕まり、取り調べを受けている」王太子は続けた。「この件は、エドガーには内緒にしている。彼の自尊心のためにも」
「そうですね……」私は同意した。「彼はもう十分傷ついていますから」
王太子は私の手を取り、静かに言った。
「これからは多くの試練があるだろう。王太子妃としての責任も重い。それでも、一緒に歩んでくれるか?」
「はい、アレクサンダー」私は微笑んだ。「どんな試練も、共に乗り越えましょう」
春の風が二人の間を吹き抜けた。過去の傷は癒え、新たな未来への扉が開かれようとしていた。
「そういえば」王太子がふと思い出したように言った。「父上が、貴女の『癒しの手』について興味を持っているんだ。王国全体の医療改革に役立てられないかと」
「本当ですか?」
「ああ。貴女のスキルを隠すのではなく、多くの人を救うために活かしてほしいと」
この言葉に、私の心は温かさで満たされた。かつて目立つことを恐れて隠していた能力が、今や多くの人々を救う希望になるかもしれない。
「喜んでお力になります」
「素晴らしい」王太子は満面の笑みを浮かべた。「父上も喜ぶだろう」
二人は手を取り合い、城の庭を歩き始めた。これからの日々は決して平坦ではないだろう。王太子妃としての責任、王家打倒同盟の脅威、そして王国の未来。多くの課題が待ち受けているはずだ。
しかし、今の私には不思議な自信があった。どんな困難も乗り越えられる気がしていた。それは単に王太子の婚約者になったからではない。自分自身の内側から湧き上がる強さを感じていたのだ。
「アレクサンダー」私は彼を見上げた。「これから先のことを考えると、少し怖い気もします」
「心配いらない」彼は優しく言った。「貴女には『癒しの手』がある。そして私には、貴女を守る剣がある」
遠くからは、城の使用人たちの声が聞こえてきた。
「見てよ、あの二人」
「本当に絵になるわね」
「エドガー王子がどんな顔をしているか想像できるわ」
「まあ、自業自得ってやつよ」
「ざまあみろ、ってね」
その言葉を聞き、私たちは思わず笑い合った。
「彼らの言う通りかもしれないね」王太子は楽しそうに言った。
「ええ、でも……」私は微笑んだ。「私は過去よりも、未来を見ていたいです」
王太子は私の顔を優しく見つめ、静かに頷いた。
「その通りだ、ソフィア。我々の物語は、これからが本番なのだから」




