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第1話 望まぬ婚約破棄

ロイヤルブルーの絹のドレスに身を包み、銀糸で縁取られた裾を優雅に揺らしながら、私――ソフィア・グレイス・カミングトン(リングハム伯爵家次女)は王立学園卒業パーティーの会場へと足を踏み入れた。六年間の学園生活の集大成となる晴れの日。頭上には豪華な水晶のシャンデリアが煌めき、大理石の床には靴音が心地よく響いていた。


「ソフィア!」


声の方を振り向くと、幼馴染のアイリスが手を振っていた。彼女は学園一の美貌の持ち主と言われる公爵令嬢だ。


「アイリス、素敵なドレスね」


「あら、あなたこそ。さすがは未来の王妃様ね」


未来の王妃。その言葉が今日まで、私の自信と誇りだった。十二歳の時に交わした第二王子エドガーとの婚約。王立学園では常に模範生として振る舞い、将来の王妃にふさわしい教養を身につけるため、礼儀作法からダンス、外交術、経済学まで懸命に学んできた。


「エドガー王子はどちらかしら?」アイリスが会場を見回した。


「まだ見かけていないわ。きっとすぐに来るでしょう」


そう言って微笑んだが、胸の奥では不安が渦巻いていた。最近、エドガー王子の態度が妙に冷たい。約束の茶会をキャンセルされることも増え、話し合う機会も減っていた。


「あら、エドガー王子が来たわよ」アイリスが入口を指さした。


会場の入口から第二王子エドガー・ハインリヒ・フォン・ザクセンが入ってきた。金髪を後ろでまとめ、深緑色の正装に身を包んだ彼は、間違いなく会場の目を引く存在だった。しかし、その右腕には見知らぬ金髪の女性が寄り添っていた。


「あの女性は……?」アイリスが眉をひそめた。


私も目を凝らした。流行りの派手なピンク色のドレスに身を包んだ女性は、学園内で見たことがなかった。


「ウッドフォード男爵家の令嬢だったかしら…名前は確か、エレイン」アイリスが小声で言った。


エドガー王子とエレイン男爵令嬢は、まるで自分たちだけの世界にいるかのように笑い合いながら会場を横切っていった。彼らは微笑みを浮かべ、時折耳打ちをしあっている。まるで恋人同士のように。


会場のあちこちから、ひそひそとした声が聞こえ始めた。


「あれって第二王子様じゃない?」


「どうして婚約者のカミングトン令嬢と一緒じゃないの?」


「あの子、王太子様の噂のアレじゃないかしら?」


「まさか、第二王子も手を出したの?」


私は動揺を悟られないよう、深呼吸をした。何事もなければいいのだが…その祈りも虚しく、エドガー王子は私の前に歩み寄ってきた。


「ソフィア、話があるんだ」彼は珍しく真面目な表情で言った。


「どうしたの、エドガー?」できるだけ平静を装ったつもりだが、声は少し震えていた。


「ちょっと人目につかないところで」


彼は私をバルコニーへと誘導した。春の夜風が頬を撫で、遠くにはトリストニア王国の美しい夜景が広がっていた。普段なら心躍る光景だが、今夜に限っては胸が締め付けられる思いだった。


「ソフィア、言いにくいことなんだが…」エドガーは言葉を選ぶように少し間を置いた。「僕たちの婚約を解消したいんだ」


一瞬、耳を疑った。


「え? 今、なんておっしゃいました?」


「だから、婚約を解消したいと言っているんだよ、ソフィア」エドガーは繰り返した。


頭の中が真っ白になり、足元がふわりと浮いたような感覚に襲われた。六年間、私の人生設計の中心にあった婚約が、たった一言で崩れ去ろうとしている。


「どうして……」やっとの思いで言葉を絞り出した。


エドガーは会場の方をちらりと見た。エレインがにこやかに手を振っている。


「実はな、僕は本当の愛を見つけたんだ」


「本当の……愛?」


「そう、エレインとの間に芽生えた感情は、政略的な婚約とは比べものにならない」エドガーは熱っぽく語った。「彼女と出会った瞬間、運命を感じたんだ」


運命。なんと都合のいい言葉だろう。


「王子様、そのようなことは王家の許可が必要だと思いますが…」


私は必死に冷静さを保とうとした。王子が婚約を破棄するには、王と王妃の承認が必要なはず。しかし、あいにく国王夫妻は隣国との外交交渉のために不在だった。


「許可?」エドガーは鼻で笑った。「そんなものはどうでもいい。俺は自分の人生を自分で決める」


突然、彼の口調が乱暴になった。そして、私の手を取って会場へと引っ張り戻した。


「みんな、聞いてくれ!」エドガーは会場の中央に立ち、声を張り上げた。「重大な発表がある!」


パーティーの音楽が止まり、一同の視線が私たちに集まった。私は恥ずかしさと不安で震えていた。


「本日をもって、私エドガー・ハインリヒ・フォン・ザクセンは、ソフィア・グレイス・カミングトンとの婚約を解消することをここに宣言する!」


会場が静まり返った。シャンパングラスを持つ手が宙に浮いたまま、全員が私たちを凝視していた。


「王子様……」私の声は震えていた。「どうか、公の場でこのような……」


しかし、エドガーは周囲の視線などまるで気にしていない様子で、高らかに宣言し続けた。


「僕は自分の心に従う。そして僕の心は……」彼はエレインに手を差し伸べた。「エレイン・ウッドフォードを選んだ!」


エレインはキラキラした目で駆け寄り、エドガーの腕に抱きついた。


「まぁ、素敵!」彼女は小躍りして喜んだ。「王子様、私も同じ気持ちです!」


その瞬間、パーティー会場の端から小声が聞こえてきた。最初は一人、二人だったが、次第に声は大きくなっていった。


「あの王子様、何考えてるの?王家の威厳はどこへ行ったのかしら」


「そうよ。王太子ならともかく、第二王子が勝手にそんなことをしていいはずがないわ」


「王家の品格に関わる問題だぞ……」


「ほんとうに王族の教育を受けたのか疑わしいな」


「国王陛下がお戻りになったら、さぞかし激怒されるだろうな」


ざわめきは次第に大きくなっていった。しかし、エドガーはそんな声など聞こえないかのように、エレインを抱き寄せた。


「俺は心の声に従うだけだ。エレインと結ばれるのが運命だと感じている」


私は呆然と立ち尽くしていた。六年間の努力が水の泡。周囲の同情と好奇の視線が、まるで針のように私を刺す。


その時、会場の別の角から新たなざわめきが起こった。


「あの男爵令嬢、誰?」


「知らない?噂の王太子の愛人よ。王太子がもてあましている間に第二王子に乗り換えたらしいわ」


「なんですって!?」


「ははは、王族の兄弟で女を取り合うなんて、まるで古典劇みたいだな」


「しかも王太子様が今日、ここに来ると聞いていたわ…」


右も左も驚きと嘲笑の声。エドガーの顔が一瞬こわばったが、すぐに笑顔に戻した。エレインもどこか落ち着かない様子を見せ始めた。


「愛は時に常識を超えるものだよ」エドガーは高らかに宣言した。「そして、俺たちの愛は真実だ。ソフィア、君も新しい相手を見つければいい」


その言葉が、私の中の何かを折った。


「わかりました、エドガー王子」私は静かに言った。「あなたがそう望むなら……」


声を震わせないように必死だった。私の周りには同情の視線が注がれ、ささやき声が聞こえる。


「あの伯爵令嬢、よく耐えているわね」


「ああ、リングハム家の教育は流石だな。品格が違う」


「それにしても、第二王子とあの男爵令嬢、どうなることやら……」


そして、会場の入口に新たな来客が現れた。第一王子、アレクサンダー・ルドルフ・フォン・ザクセンだ。彼の顔は静かな怒りで引きつっていた。


「あ、王太子様だわ……」


「これは面白くなりそうね……」


「どんな顔してるんだろう、エレインを取られた王太子様は……」


アレクサンダー王太子は一瞬会場を見回し、エドガーとエレインを見つけると、眉をひそめた。しかし、彼は何も言わずに別の貴族たちと会話を始めた。


私はこれ以上恥をさらすのは耐えられないと思った。静かに会場の端へと移動し、親しい友人のアイリスに近づいた。


「ソフィア……大丈夫?」アイリスは心配そうに尋ねた。


「ええ、もちろん」と答えたものの、声は虚ろだった。「少し、新鮮な空気が必要なの」


「一緒に行こうか?」


「いいえ、一人でいたいの。ごめんなさい」


アイリスは理解したように頷き、私の肩を優しく撫でた。「明日、訪ねていくわ」


「ありがとう」


私は静かに会場を後にした。学生寮の自室に戻り、扉を閉めると同時に、堪えていた涙がとめどなく流れ出した。


~~~


朝日が寮の窓から差し込み、私の顔を照らす。目を開けた瞬間、昨夜の出来事が現実だったことを思い出し、胸が痛んだ。だが、もう泣くまい。これも人生の一部。立ち直るしかない。


ベッドから起き上がり、鏡に映る自分を見つめた。目は少し腫れていたが、それでも伯爵令嬢としての威厳は失っていなかった。


「よし」


心を決め、荷物をまとめ始めた。学園寮を出て、一旦王都の自邸に立ち寄り、そして父の領地へ帰る。それが今の私にとって最善の道だろう。


寮を出る前に、卒業式へ出席するか迷ったが、もはや意味はないと思った。式典の後に授与される卒業証書は、後日郵送してもらえばいい。


「お嬢様」見送りに来たメイドのリリーが声をかけた。「馬車の準備ができました」


「ありがとう、リリー」


馬車に乗り込むと、王立学園の壮麗な塔が朝日に輝いているのが見えた。六年間過ごした場所。楽しい思い出も多かったが、最後はこんな形で去ることになるとは。


馬車が学園の敷地を離れると、王都の邸宅へと向かった。この邸宅は、将来王妃になる私のために父が用意してくれたものだった。行く先も決まらぬ今、この邸宅にも長居はできないだろう。


「お嬢様、ご気分はいかがですか?」リリーが心配そうに尋ねる。


「ええ、大丈夫よ」と答えたものの、私の声は虚ろだった。


王都の邸宅に到着すると、すぐに荷物をまとめるよう指示した。今夜中に父の領地へ向かいたかった。都にいれば、あの二人の噂を聞かされることになるだろう。


「カミングトン伯爵家令嬢、捨てられたんですって」


「第二王子様とあの男爵令嬢が……」


「王家の恥ね」


そんな声が聞こえてくるのは耐えられない。


邸宅の書斎で手紙を書いていると、執事のオールドマンが届け物を持ってきた。


「お嬢様、アイリス様からです」


「ありがとう」


封を開くと、アイリスの達筆な文字が並んでいた。


「親愛なるソフィアへ


昨夜の件、本当に心が痛みます。あなたのような素晴らしい人が、こんな仕打ちを受けるなんて。でも、あなたの価値は婚約によって決まるものではありません。


今朝の卒業式では、エドガー王子とエレインは現れなかったわ。噂では二人で小旅行に出かけたとか。でも、アレクサンダー王太子が出席されていて、式典後にエドガー王子の行動について「許されざる行為」と言っていたそうよ。


どうか元気を出して。もし話し相手が必要なら、いつでも呼んで。


愛を込めて、アイリスより」


手紙を胸に当て、深く息を吸った。少なくとも、友人の支えがあることに感謝したい。


その日の午後、必要な荷物をまとめ、邸宅を後にする準備ができた。


「お嬢様、すべて馬車に積み込みました」リリーが報告した。


「ありがとう。では、出発しましょう」


夕暮れ時、私たちの馬車は王都の石畳の道を走り、やがて郊外へと出た。窓からは沈みゆく太陽が赤く染まった空を眺めることができた。美しい光景だが、心を癒すには至らない。


「リングハム伯爵領までは一晩かかりますね」リリーが言った。「夜はブレイクウッドの宿で休みましょう」


「ええ、そうね」


馬車は街道を北へと走り続けた。窓の外の景色が少しずつ変わっていく。都の華やかさは次第に薄れ、のどかな田園風景が広がり始めた。


「お嬢様、少しお休みになりませんか?」リリーが心配そうに言った。


「いいえ、まだ大丈夫よ」


しかし、その言葉とは裏腹に、私の心は疲れ果てていた。目を閉じると、昨夜のパーティーの光景が鮮明によみがえる。エドガーの冷たい瞳、エレインの勝ち誇った笑顔、そして周囲の同情と好奇の視線。


馬車が揺れる中、私はふと考えた。これまで王妃になるという目標だけに向かって生きてきたが、その目標を失った今、何を目指せばいいのだろう?


カミングトン家の次女として、特に才能があるわけでもない。ただ、小さい頃から身についた「癒しの手」というスキルがあるだけ。それは母方の血筋から受け継いだもので、触れた相手の傷を癒す力を持っている。しかし、そんな力も、今の私の心の傷は癒せない。


「お嬢様!」突然、リリーの声が私の思考を中断させた。


「どうしたの?」


「あれを見てください!」


窓の外を見ると、前方の薄暗い森の切れ間で、何やら騒がしい様子だった。剣戟の音と叫び声が聞こえる。馬車の灯りに照らされた先に、黒づくめの集団と、王家の紋章を掲げた一団が戦っているのが見えた。


「止まって!」私は御者に命じた。


何が起きているのかはわからないが、王家の紋章を持つ一団が危険にさらされているのは間違いない。ここ最近、この街道では盗賊の被害が増えていると聞いていた。


そして、先頭に立って戦う人物の姿が、わずかに見えた。それは……


「あれは……王太子!?」


心臓が高鳴った。昨夜のパーティーで見た第一王子アレクサンダーの姿だった。彼は何故ここに?


「お嬢様、危険です!」リリーが制止するが、私は馬車を降りようとしていた。


「でも、助けないと!」


窓の外では、黒づくめの集団が王太子の護衛を次々と倒し、王太子本人も腕から血を流しているのが見えた。


この時、私は決断を迫られていた。安全な馬車の中にとどまるか、危険を冒してでも助けに行くか。


しかし、心の奥底では既に答えは出ていた。


「リリー、薬草の袋を取って」


私は迷わず馬車から飛び降り、暗がりの中へと走り出した。


この瞬間、私の人生が大きく変わろうとしていることに、まだ気づいてはいなかった。

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