第八話 ジルベールの願い sideジルベール
ジルベール・アルトワは、突然の僥倖に喜びが隠せなかった。敬愛する大公に、ついにお相手が見つかりそうなのだ。
ルシル・クロフォード嬢。
十分な魔力を持つ、どう見ても高位の令嬢。出自は今のところ全く不明だが、各地に飛ばしている諜報員からの報告ですぐに明らかになるだろう。
帝国の北に住む大公と言えば、たいていの令嬢は尻込みするか、遠巻きにするか。
当たり前だが自分から近づこうなどという酔狂はいない。記憶でも失っていない限りは。
ジルベールにしてみれば、腹立たしい事この上ないが、どんなに人柄が優れていようが、どんなに眉目秀麗であっても、帝国では周知の事実が、明らかに大公を孤独にしている。
現皇帝とそれを溺愛する母親。そして北に追放された兄皇子。
その構図は、大公が幼いころから、みじんも変わらない。
先帝が崩御し、先の皇妃が皇太后になった今でも、また恐らくは未来永劫、皇族の輪に彼が迎え入れられる事は決してないのだ。
現皇帝の治世になって唯一あった変化といえば、帝国の一部であった大公領が、ある程度は独立した大公国として認められた事くらいか。
これによってますます帝国中央とは縁遠くなり、皇帝の実の兄君である大公の存在は、忘れられたも同然の扱いだった。
もともと険しい山脈地帯と、深い森に囲まれた大公国は、気候にも恵まれず、比較的温暖な帝国中央領の領主たちにはあまり注目もされないような場所である。辺境の中の辺境、とでも言うべきか。
近隣の小さな国々も、併合前は事情を知らずに帝国への橋渡しとして大公を頼っていたものの、自らが併合されて帝国領の一部となった今は、大公国をあまり顧みなくなった。
現金なものだが、中央貴族への根回しの方が、ずっと重要な事に気が付いたのだ。
(まあこの人はそんな奴らの思惑など気が付いてもいないだろうな)
ジルベールは執務机で黙々と仕事を片付けている大公を見ながら、苦笑を漏らした。
大公は、そんな周囲の者たちの矮小さにはあまり関心がない。もともと、帝国にまつわる人や物には、ほとんど執着を持たない人なのだ。
関心があるのは、ひたすらに、大公国の国民の平和な生活だけ。
成人前の幼い少年が、実の母君に皇宮を追放されて、最初は泣き叫びもしただろうに、いつの日か家族や身分など、昔の自分にまつわる全ての事を諦めてしまった、という。
追放当時から幼い大公を見てきた唯一の乳母が、昨年亡くなる直前にジルベールに聴かせた昔話は、それは壮絶なものだった。
領地というにはお粗末な辺境の不毛な土地に、今はある程度整えられた大公城も、当時は捨て置かれた廃城だったというのだから。
辺境の寒さに凍えながら、いつか迎えが来ると信じて過ごした幼少期が、幼い大公の心を完全に壊してしまわなかったのは、乳母から追放のいきさつを聞いたまだ少ない当時の領民達が、力を合わせてこの不憫な小さな皇子を必死で守ってきたからだという。
それに応えるように、大公は皇族としての豊富な魔力を領地の為に費やした。
安全な水源を確保し、土壌の特質を調査して収穫量を増やし、徴税は最小限にして領民に寄り添った。
幼い大公が細々とした改革を進める中で、中央から追放された幼子を不憫に思った忠臣達が、幾らか後から合流したと聞いている。
そうやって大公は、小さな村程度だったこの領地を着実に発展させてきた。
かなり昔には、同じく寂れていただけの近隣諸国からの人口流入もあり、大公国は、いまや近隣ではそこそこ豊か、ともいえるほどには体力のある国になっている。
隔絶の森には、しばしば海峡から山脈を超えて侵入してくる魔物が出るが、よく訓練された騎士団がそれを退けて、辺境に暮らす素朴な住人たちを守っている。
国民たちは安心して暮らせるので、他の近隣諸国に比べると一様に明るい表情をしている。
さらに大公国では、身分の差異なく能力で人材を登用し、時には性別にもこだわらない。そして武官も文官も、一代で身を立てた者が多い。
帝国でいわれなく迫害されて、逃げ延びてきた他領の貴族の子息たちも、事情をよく鑑みたうえで、忌憚なく受け入れてきた。
そのせいかどこの職場も風通しが良い。
大公自身も、城下の視察に精力的で、問題があれば出来る限り率先して自ら騎士団を率いて解決に赴く、というのも良く知られている話だ。
このように大公はおおらかで親しみやすく、国民人気が大変高いのだが、年頃を過ぎても、中央貴族はともかく、近隣国からも縁談は一向に舞いこまなかった。
何故なら、近隣の貴族や王族には、「帝国の嫌われ大公」や、「幽霊大公」などの蔑称が広まっていることもある。その上、大公自身も、女性に対して大変冷たい事で有名なのだ。
近隣諸国との親交を深める宴の席でも、決して表情を変える事のない大公は、気弱な貴族女性たちの勇気をくじくには十分すぎる迫力だった。妙齢の女性と食事の機会を設けても、どんな話題を振られても一言も発さずに、にこりともしないのだから。
(無駄に顔が良いと余計に近寄りがたい)
自覚はないだろうが、整った顔と大きな身体でじっと大公が黙っていると、ジルベールでも時々怖い。皇族特有の魔力の多さも関係があるだろう。
さらには帝国が近隣の小国家を併合して、大公国を孤立させている、という見方もある。
(これは眉唾だけどな。あの弟皇帝は何を考えているか皆目分からない人だから)
さすがに平民や国内の田舎貴族や一代貴族から公妃を娶るのもはばかられるし、何より大公にその気がない。皇太后に拒絶された記憶があるせいか、女性に対しては非常に警戒心が強く、大公が好ましいと言った女性など、ジルベールの記憶には一人もいないのだ。
ところが、だ。
先日、御子を助けた為に魔力欠乏で倒れていたルシル嬢に対して、大公が自ら優しく気遣う姿を目撃した。ジルベールが大公の成人と共に、文官として城に召し上げられて早10年、女性に優しく語りかけるお姿を見たのは初めての事だった。
無理もない。気を失って馬車まで運ばれる女性の姿を見て、ジルベールはすぐに納得した。
ルシル嬢は飾り気がないにも関わらず、内から輝くように美しいのだ。
一本にまとめられて、背に流れる銀髪は、彼女の白い肌を際立たせ、同色の長い睫毛も、形よい鼻梁も小さな唇も、奇跡の様に整っていて、全く隙が無かった。
その姿を初めて見たものは、みな一様に息をのんでいたと思う。
人の容姿など普段は気に留めないジルベールもまた、その一人だった。
皇族たちは一様に美しいとは思うが、中身も皆美しいとは到底言えない。人の美醜とは、その程度のこと。
しかし彼女には何か、人の目を覚まさせるような、清廉な美しさがあった。
そしてそれを際立たせていたのが、彼女の意識のない全身から、微かに漂う魔力と、そこから香る不思議な香りである。そもそも魔力に香りがあるなど、聞いた事がない。
おかしなことに、回復して晩餐に訪れた彼女からは、その香りは消えていた。
魔力枯渇から回復して、戻った彼女の魔力は大変潤沢であり、それに驚いたジルベールは香りのことなど気のせいか勘違いだと思い、結局忘れてしまったのだが。
生まれつき魔力の豊富な王侯貴族にとっては、魔力の相性なるものがあるらしく、そこが合わない者同士では、魔力量が多ければ多いほど、傍に寄るのも難しい事があるらしい。
様子を見るに、幸いお二人ともに、魔力の相性で問題があるようには見えない。
ジルベールにとって、ルシル嬢の出自などはこの際どうでも良かった。
皇帝の御子を宿した側室候補でなければ、の話だが。
彼女が真実、隣国のマリアンヌ王女でない事だけは、すでに密偵から確認済みである。
そしてあの魔力なら、平民や商人だとかいう可能性は万に一つもない。血の問題はないだろう。
大公が興味を示した女性は、後にも先にも彼女が初めてである。この機を逃しては、大公の腹心とはとても言えない。
ジルベールは張り切っていた。
大公に不都合な、「帝国の嫌われ大公」だとか、「辺境の幽霊大公」だとかの噂を全く知らない、というか記憶に持たないルシル嬢であれば、大公の人となりを知って、先に親交を深めてしまえば、希望はあるのではないだろうか。
彼女の記憶が戻る前に、なんとか二人を親密にさせるべく、大公城の使用人をあげて、作戦を練るしかない。
幸いなことに、使用人たちはルシル嬢を、大公の恋人か何かだと勘ぐっているらしいし、レイモンド殿下をその隠し子だと噂しているようだ。隠し子とはまだまだ気が早いが、ゆくゆくはそうなって貰えるように、盛り上げていかないと。
ひとまず彼女の身の上は、遠国の貴族令嬢で、レイモンド殿下に同行していた教育係とでもしておくのがいいだろうか。
あの放蕩皇帝の何人目かの御子だというレイモンド殿下については、この際後回しにしても大勢に影響はないだろう。後宮では御子の暗殺が後を絶たないらしい。しばらくはこちらで保護するのが得策ともいえる。
エリスモルトには簡単な知らせをやった。
そもそもこちらとしては、皇帝側などと関わりを持つのは迷惑でしかないのだ。
母親を亡くした御子でも利用価値があるなどと下劣な事を考えるならば、すぐにでも迎えをよこしてほしいくらいなのだが、あちらの国でどうするか結論をだすにも、相応の時間がかかる事だろう。
どちらにせよしばらくは御子のことは乳母に任せて、まずはお二人の接点を作らないと。
初めての好機への興奮から、乳母とレイモンドの件は、ジルベールの心から簡単に抜け落ちていくのだった。