第七十六話 夜の庭園
複雑な気持ちを持て余して、ルシルはよく手入れされた広大な庭園の方に足を伸ばした。
元々神族は化け物だと噂されていたのだ。今更そんな悪口で傷ついたりはしないが、何故か気持ちが沈んだ。
ぼんやりとした魔石外灯の下で、初夏に咲く大輪の薔薇が芳醇な香りを放っている。
(確かに、彼にはもっと貴族らしいちゃんとした奥さんが必要だって思ってた……。こんな私じゃなくて)
彼を好きになってしまう前の冷静な気持ちが蘇る。
(しかも私じゃ、馬鹿みたいに訳ありすぎるもの)
テロイアの事も核石の事も、何も解決していない。
きっと今自分がテロイアに戻れば。
何もかもが元通り、うまくいくのかもしれない。
「案外そんな格好も、似合うんだな」
考えに沈んでいたルシルは、スカイの声に驚いて振り向いた。会場では、よそよそしい政治家の演技をしていたスカイが、いつもの不遜な態度で立っていた。
「スカイ……。貴方もすごく似合ってる」
伸びやかな長身を今日は帝国風の礼服で飾り、襟元にフリルのあるクラバットを巻く姿も堂に入っている。
「まあ、俺は何を着ても似合うんだよ」
「ふふ、お坊ちゃまはやっぱり違うわね」
あまりにいつも通りの友人に少し気持ちが和む。
「なあ、さっきの話だけど……砂漠に大穴が開いた話」
その言葉に、ルシルの顔は途端に強張った。
それを見て何かを察したらしいスカイは、心配そうな顔になる。
「何だよその顔。あの砲撃は、お前がやった訳じゃないんだろ。もう一人いるって言ってた祖神族の仕業か?」
「うん」
ルシルは大きく息を吸い込むと、辿々しくもなんとか事情を説明した。エイリーヤの事も核石の事も。
黙って聞いていたスカイは、話が途切れると綺麗に整った髪を乱暴に掻き回して唸り声を発した。
「核石って……なんだよそれ。なんかもう凄いな」
夜空を見上げて呟き、側にあるベンチにぐったりと座り込むと、長い脚を通路に投げ出した。
「私も……どうしたら良いかまだわからないの」
「それでも……ルシルがいなけりゃ、テロイアは大陸ごとそのうち沈むってことかよ……」
「もちろんそんなことさせないよ。私は、ロトにいたいけど、テロイアを見捨てるなんてできるわけない」
「そりゃそうだろうけど……でもお前は……」
「うん。彼の事が好きだし、私を慕ってくれる子もいるの。だからほんとはここで暮らしたい。だけど……だけど私じゃ、やっぱり大公妃なんて無理な気もして……」
ルシルは、急に自信をなくして揺れ動く気持ちを持て余していた。そっと隣に腰掛けて、スカイに泣き出しそうな顔で笑いかけた。
「スカイも見たでしょ。時代劇みたいな世界で、お淑やかなお姫様みたいな人達からせっかく大人気なのに、私を奥さんにするのは確かに可哀想よね」
スカイも何故か、悲し気な顔でルシルを見てくる。
ルシルは、申し訳ない気持ちになってまた笑った。
「ごめんね。なんだか久しぶりなのに、暗くて」
「結局そんな悲しい顔してるなら、俺が我慢することなんてないよな」
「ん?」
「ルシル。戻ってこいよ。学園は卒業したけど、連邦軍も良いところだよ」
突然真剣な顔で両腕を掴まれて、心を揺らしていた悩み事よりふと目の前の情景に目を奪われる。
ルシルは思わずマジマジとその姿に見入った。肩までの薄いブルーの髪がサラサラと風に揺れて、アクアマリンの様な瞳に長い睫毛が影を落とす。
(本当に良く似合ってる)
満開のバラに囲まれた庭園で貴公子然としたスカイは、まるで時代劇の中の本物の王子様のように見えた。
学園でスカイの容姿に騒いでいた同級生達に今更ながら共感する。
彼は確かに何を着ても似合うが、これは似合いすぎじゃないだろうか。記念撮影でもしておくべきだろうか。
「テロイアに戻れば、好きなことをして、いつも通りのお前で良いんだ」
別の事に思考が飛んでいたルシルだが、突然降ってきたスカイの言葉が、ふと深く心に刺さる。
テロイアに戻れば、確かに元の自分に戻れる。
逆にこのままロトにいれば、無理をして貴族の振りをしようと必死になる自分が想像できる。
(でもそれは……)
「それにルシル、テロイアで俺と結婚しないか。俺ならお前を絶対に悲しませたりしない」
「け……けっこん?スカイと?」
「そうだ。俺さ、ルシルに好きな人が出来たって聞いてようやく分かった。遅くなったけど、俺はルシルが女性として、好きなんだ」
「えええええ!?」
驚きすぎてそれ以上の言葉が出ない。
「プッ。驚き過ぎだろ。まあ結婚は急でも、まずは付き合うって事ならどう?普通に。若者らしく」
(えええええ?!)
ルシルは、あまりに予想外な提案にベンチの上で思わず仰け反った。学園時代にもそんな事、一度も考えてみたことがなかった。
学園であんなに浮いていた私を、女性として、好き?
目の前のスカイは冗談を言っている様にも見えない。
それにエイリーヤや核石の話までしたのに、こんなにも真剣に交際を申し込んでくるなんて。
祖神族だと打ち明けたルシルに対して、スカイは、全く態度が変わらないどころか、逆に距離を詰めてきた。彼は変わり者過ぎて、いつも予想を超えてくる。
自分はフェリクスに全く相応しくないと思っていた。
でも一方で、こんな自分でも、女性として認めてくれる人がいると知った。それだけで驚くほど勇気が持てる。
そんな身勝手な思考に驚いて急に自分が嫌になった。
同時に嬉しさと、安心と、温かな感謝の気持ちが心の底から湧いて来て、ルシルは精一杯、心を込めて微笑んだ。
「ありがとう、スカイ」
その笑顔に一瞬悲しげに瞳を揺らすと、スカイはすぐにいたずらっぽく笑って立ち上がった。
「え?それって交際の了承ってこと?」
慌てて説明をしようと自分も立ち上がるルシルの後ろから、地を這うような声がかかった。
「そんなわけがないだろう」
驚いて同時に振り返った二人は、庭園の片隅に立つフェリクスの姿を見つけた。
「あ……フェル……」
ルシルは思わず気まずくて、フェリクスの胸の勲章辺りに目を逸らしてしまう。
そんなルシルの手を優しく引いて、そっと片腕の中に抱き込むと、フェリクスは見たことの無い程険しい表情でスカイを睨みつけた。
「既婚者を夜の庭園に連れ出して愛を囁くのは、テロイアでは常識的な行動なのか」
穏やかな声だが、フェリクスから漏れ出る魔力で周囲の温度は下がり、ひんやりと涼しくなった。
「あいにくとこの大陸では下衆のやることだが」
どんどんと下がる気温にルシルの顔は青ざめた。
どこから話を聞いていたのだろうか。
スカイとの関係を変に誤解されたくない。
フェリクスとの結婚に弱腰になっていた事も忘れて、ルシルは焦った。
フェリクスの腕の中からハラハラと二人を交互に見るルシルをよそに、スカイは淡々とした態度を崩さない。
「確かに、人妻を口説いたのはこちらが悪かった。謹んで謝罪しよう」
スカイは、不遜な態度でフェリクスを睨み返した。そしてルシルに一瞬笑いかけて、スカイは付け加えた。
「でも、彼女は本当に幸せなのか?」
そして真剣な表情になって、フェリクスを真っ直ぐに見た。
「彼女は我々と共にテロイアに戻るべきだ」
「それはテロイア政府の見解か?それとも特使の個人的な希望か?」
フェリクスの硬い声が耳に響く。
「ルシル。君も同じ考えなのか?」
「いいえ、私は……」
ルシルが慌てて弁明しようと身動ぎすると、別の声が割って入った。
「ルシル!そんな奴やめとけよ!」
別の通路から身軽に現れたのはトミーだ。先程のメイド服からテロイア式の礼服に着替えている。
「トミー」
呟いたルシルにフェリクスが尋ねた。
「誰だ?」
少し強張った声でトミーがそれに答える。
「俺はトミー。ルシルの友達だ」
長く伸ばした赤い髪を高い位置で縛って、テロイアの礼服をビシッと着込んだ姿は先ほどとは別人だ。もう獣人である事を隠すのは辞めたのか、大きな三角の耳とフサフサの尻尾が興奮でピンと伸びている。
「ここにいるスカイと、もう一人、俺の双子で獣人のレミーがテロイアから外交使節の一員で来てる。俺達3人の方が、お前よりルシルの事はよく分かってるんだ」
「そうか」
横柄な言葉にも冷静に頷くフェリクスに、少し驚いた顔をしたトミーが、ルシルの方を向いて言った。
「ロトの奴ら、ルシルの悪口ばっかりだったぞ。幾らそいつが好きでも、嫌な目に合うのは分かりきってる」
トミーが不満そうに言うのに、ルシルは何も答えられない。それは、ルシルにも分かっているからだ。
「それにここは、人族ばっかりじゃないか。あいつら神族を敬うどころか、化け物だとかって……!」
「……分かってる。でも、文句が出るのは、多分私が貴族のご令嬢みたいには出来ないからだから」
ルシルが呟くと、その場をふと沈黙が満たした。
フェリクスも気遣わし気にルシルを見た。
「すまない、嫌な思いをさせたな」
フェリクスがルシルを抱く腕に力がこもり、耳元で囁く声が悲しげに響く。ルシルの胸は少し痛んだ。
フェリクスは充分に庇ってくれていた。それにルシルが貴族の礼儀も何も知らず破天荒なままでも、そのままで良いのだと、自分の立場は後回しで、いつも優しくそう言ってくれる。
(だけど、それじゃだめなんだ)
人が何か大事な物を得るなら、努力が要るのは当然だ。
そして彼との未来の為なら、幾らでも努力出来る。
ここで簡単に投げ出せるなら、もうとっくに投げ出していた。
「トミー。スカイ。それでもね。私、やっぱりここにいたいよ」
人生がひっくり返るような出来事を経験しても、変わらなかった自分の恋心が不思議だった。でもそれはきっと、唯一の、かけがえのないものだから。
「どうしても私……この人が好きなの」
ルシルは初めて「どうしても」と思う事を見つけた。
「私が駄目駄目すぎて彼に迷惑だって分かってても。私が全部諦めたら、皆が幸せになるって分かってても!」
これまでそれほどこだわるものも無かったし、人に必要とされたいと漠然と思うくらいだった人生で、初めて自分のために最優先で、何かを欲しいと思う気持ち。
「彼の為なら、どんな事でもやってみせる」
少し目を見開いてこちらを見下ろすフェリクスの顔を見上げて、ルシルは大輪の花が綻ぶように笑った。
あまりに凛々しく決意に満ちたその微笑みに、誰もが言葉を失った時だった。
カーン、カーン、と言うけたたましい鐘の音が夜の庭園に不似合いなほど大きく響いた。
スカイが眉をひそめて呟いた。
「こんな夜中に何の鐘の音だ?」
「これは警報だ、敵襲警報!」
フェリクスがその疑問に鋭く答え、ルシルを抱く腕にぎゅっと力を込めた。




