第七十五話 夜会
夜会の前、客室でこれでもかと着飾られているルシルの所に、姿を消したカリンが戻ってきた。
『カリン。お疲れ様。偵察は終わったの?』
カリンは皇室が準備したド派手なドレスに戸惑いつつも、いつものように肩に着地した。
『皇帝もテロイア人も大した悪巧みはしてなかったぷ。今の所ルシルを利用する気はないみたいだぷ。貴族達も文句は多いぷが、あれ位なら問題ないぷね』
『良かった。ありがとう』
『でも大公は家族に会ってゴタゴタしてたぷよ』
『そうなのね』
(やっぱり。そうなると思ってた)
『ありがとう。夜会の前に彼と少し話してみるわ』
ルシルの支度が終わると、正装したアンとオニキス、姿を消したカリンと共に皇族専用控室に向かう。
封印が解けてからは神力の調整は至極容易になり、放出神力で周囲を萎縮させることもなくなった。回廊ですれ違う人々もルシルの外見に注目する程度だ。
「妃殿下、今日もとてもお美しいです。ですから、出来るだけお淑やかになさってくださいね」
「とにかく、転移でどこかに消えたりしないでくださいよ、本当にヒヤヒヤするので」
アンとオニキスは通常営業。ルシルは帝都でも何をしでかすか分からないと言う顔でだいぶ警戒している。
『先に会場を見てくるぷ。ルシルも油断するなぷ』
心配顔の彼等と別れたルシルは一人、扉番の立つ分厚い大扉の前にいた。
恭しく挨拶されて皇族専用控室に入ると、回廊の喧騒は急に遠のき、室内はとても静かだった。
背の高い観葉植物の間をゆっくりと一番奥まで進むと、黒地に金色の刺繍の施されたジュストコール姿のフェリクスが、壁にかけられた大きな肖像画の前で一人、佇んでいた。
ガランとした豪華な部屋には、他には誰もいない。
その背中が他者を拒んでいるようで、ルシルはしばし声をかけるのをためらった。
(この絵の人は……先代の皇帝?)
巨大な姿絵の男性はフェリクスによく似た黒髪と紫の瞳で、冷たく厳しい顔でこちらを見下ろしている。
同じ色合いでも、レイモンドやフェリクスの温かな瞳とは似ても似つかない。姿絵をじっと見上げるフェリクスは、何を思っているのだろう。
ルシルは遠慮がちにそっと声をかけた。
「フェル」
振り向いた紫の瞳に、ルシルが映っている。
先帝に似た瞳は冷たく無機質で、少し胸が痛む。
「ルー」
ルシルを見つけると、無機質だったフェリクスの瞳には温かい光が宿った。その劇的な変化に、どんな言葉をかけられるよりもはっきりと、彼の愛情を感じた。
「今日も本当に美しいな。私の女神は」
ルシルの今日の装いは皇帝側が準備したドレス。
黒地に緻密な黄金の刺繍がびっしりと施され、その合間に小さな宝石が数え切れない程縫い込められている。全体はどっしりと重みがあり、大陸最高級の布地で作られたドレスは驚くほど手触りが良い。そして今気付いたが、フェリクスのものと対になっていた。
ただ、彼にはその高貴さがとても良く似合っているが、ルシルはまさに着ているだけでも緊張する程で、正直自分に着こなせているかは自信がなかった。
「会場の誰もが今日の君を崇めるだろう」
しかし実際には、その格調高いドレスはルシルの神秘的な美しさにとても良く似合った。彼女の清廉な魅力を何倍にも引き立てており、その姿には誰もが近づき難い程の神々しさがあった。
フェリクスはその姿をじっと見つめ、ルシルの手に口付けると、髪にもキスを落とし、そのまま、熱っぽい視線でルシルを見つめ続ける。
「美しすぎて、片時も離したくない」
いつもはそんな貴族的な挨拶に照れてしまうルシルだが、今回は彼への心配が勝って、ただ曖昧に微笑んだ。
「ルー?……どうしたのだ」
「……フェル、さっき、ご家族と話したのね」
「何故その事を?ああ、神獣か……。なんと報告されたのか分からないが、君が心配するような事は何も無い」
(私のせいじゃないから気にするな、って顔ね)
「……分かった。でも」
フェリクスの手を引いて金縁の長椅子に座らせると、訝しげな顔に笑いかけて、そのまま胸に抱きしめた。
「フェル」
少し驚いた様子だったが、すぐに力を抜いたフェリクスの重みが微かに伝わって来る。その重みでさえもが、とてつもなく愛おしい事に、ルシルの胸は震えた。
「貴方には私がいる。私には貴方が」
ルシルにとっても、家族は幻想だった。
求めても本当には手に入らなかったもの。
「私達はいつも寄り添い合える家族でいよう。レイモンドのためにも。お互いが、お互いの帰る場所になろう」
でも、この人となら。
そんな予感がする。
「そうだな」
「うん」
豪奢な部屋で豪華な対の装いの二人は、そっと額を寄せ合って、小さく微笑み合った。
***
夜会は大公国で経験したものとはまるで次元が違う程の華やかさで始まった。
楽団の奏でる音楽と、会場を照らす光源の多さ、着飾った人の数に至るまで、大公国のものとは格段に違う。
冷遇されるという予想に反して、大公夫妻には皇帝と同じ壇上の皇族用特別席が用意されている。
そして今夜ばかりは妖精の様な皇帝よりミステリアスな大公より、噂の大公妃の、人族とは違うレベルの美しさに人々の視線が集まった。
大公夫妻やテロイア特使の簡単な挨拶も終わり、夜会が今夜一番の盛り上がりを見せる頃、リンリンと言う涼やかな鐘の音が響いた。勅言を報せる鐘の音だ。
「ここでみなに知らせておく事がある」
皇帝は静まり返る会場を壇上から見渡すと、両手を広げて誇らしそうに宣言した。
「本日の主賓であり、多くの者が認める帝国の守護神、我が兄フェリクス・トーリ・ラフロイグを、これまでの功績を讃えると共に、辺境軍統括として正式に任じるものとする!」
急な宣言に呆気にとられる人々の前で、上機嫌の皇帝は宰相が掲げるビロードの箱から大きな宝石の留まった勲章を持ち上げると、フェリクスに目で合図した。
堂々とした所作で叙勲を受ける大公に歓声が起こると、その肩を抱いた皇帝がにこやかに続けた。
「本日これより、我が兄であるトーリ大公への侮辱は、我が名を貶める事と同義である。みな心して尽くすように」
皇帝の言葉は巨大なホールを一瞬静めたが、すぐに空気を読んだ貴族らによる大歓声と拍手を持って讃えられた。
皇帝は、夜会の前に二人が待つ控室にもやってきて、今夜の叙勲や待遇の改善など様々な話をしてくれた。これまで皇太后の影響下で出来なかった事を悔やんでいると。そしてルシルとの婚姻を認める文書を手渡された。
(これからは彼を兄弟として、家族として扱うと言った)
冷遇されると予想していたので、突然好意的になった皇帝には二人とも面食らうばかりだったが、ルシルの母国を考えれば、為政者としての計算もあるのかもしれない。それでも、ルシルはとても嬉しかった。
フェリクスも大公国も、帝国内で今後馬鹿にされることは無くなるのだ。帝国中央の貴族達と腹の内を探り合う事も、いがみ合う事も無くなる。
(何よりも、レイモンドを私達の養子に迎えても良いと言ってくれた)
レイモンドは、成人まで大公国で養育する事になった。母親の後ろ盾の弱い皇子は後宮でも安全ではないからだ。本人の意志次第で将来的にそのまま公子として北に残る事も許されると聞いて、心の底からホッとした。
やがて主賓の二人には宰相からダンスの披露を促されたが、ルシルは青ざめて必死で首を振った。
(ダンス?!そんなのさすがに無理!)
直後に会場のあちこちから冷笑や悪意のこもった令嬢達の囁きが小さく聞こえる。慌てて神力で聴力を抑えて、無表情を取り繕った。自分への悪口を聞いても良いことはないからだ。
情けない顔になったルシルをフェリクスが庇うように皇帝に何事か囁くと、代わりに皇帝自らがご令嬢達と優雅なダンスを披露し始めた。
ルシルは引き攣る笑顔でそれに精一杯の拍手を送る。
(はあ。なんだか色々あって気疲れした……)
ルシルは化粧直しと言って席を立ち、ざわめくホールを出て巨大な回廊を一人、歩いていた。
風通しの良い回廊はそれまでの熱気を冷ましてくれるようで、心地が良い。
封印が解けてから、体表温度の管理は無意識下で出来るようになったので、大公国よりも気温の高い帝都の夜も爽やかに感じられた。
「それで、どうご覧になられまして?」
「トーリ大公妃の事でしょう?」
回廊の途中、着飾った若い女性達が話しているのを聞いて、何故か思わず太い円柱の影に隠れてしまった。
「本当に人とは思えない美しさですわね」
「体格から違いますもの。それにしても、化け物同士、テロイア特使の方の容姿とはピッタリお似合いで」
皮肉めいた声音に、複数の同意する声が上がる。
「ええ。大公には少し……合わない様に思いますわ。あの勇ましい大公閣下のお隣にはもっと楚々とした小柄な女性がお似合いよね」
「ええ。いくら容姿が美しくても、お相手があの様な化け物では、閣下がお気の毒だわ」
「それに」
一人の女性がさっと辺りを見回して声を潜めた。
こちらに気がついた様子はないが、ルシルは思わず柱の陰で身体を固くした。魔法で姿を隠すことも忘れて、何故かただ、野ネズミのように縮こまっていた。
「妃殿下は貴族の礼法を全くご存知ないそうよ。まるで庶民の様だと、側に上がった友人から聞きましたの」
「わたくしも聞いたわ。周囲に魔法を見せつけて、とても乱暴に振る舞うのですって」
まあ!とわざとらしく驚いて、扇で口元を隠す女性達は、口々に不満の声を上げだした。
「しっ、大公閣下があちらにいらしたわ!」
「良い機会ですわね。わたくしたちが本物の淑女としておもてなししなくては」
「皇帝陛下の兄君ですもの、あの様な化け物ではなく、本心ではまともな女性を望んでおられるわ」
ドレスを翻して女性達が去っても、ルシルはそのまましばらくボンヤリとしていた。
そして遠くで大公を讃える華やいだ声が上がると、思い出したように結界を張って、見つからないようにその場を去った。




