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七十四話 氷解 side フェリクス

 その頃フェリクスは、皇帝の私室に呼ばれていた。


(これまでこんな待遇を受けた事はなかったな)


 金の装飾が目立つ煌びやかな居間と思われる場所に案内され、何故か皇帝と二人きりで残された。


 目の前には見たこともない形の菓子や軽食がふんだんに盛り付けられ、香りの良いお茶も用意されている。


(出迎えの時の言葉といい、一体何を考えている?)


 宰相も侍従も、大公国の護衛さえも遠ざけて、本当に二人だけの対面だ。もちろん壁や天井裏には用心のために誰かしら潜んではいるのだろうが。


(俺を懐柔してルシルを取り上げようとでもいうのか?)


 これまで帝都に赴いた回数は少ないが、例え先帝の葬儀であっても、特別扱いを受けた記憶はない。フェリクスは知らずに眉間にしわを寄せて深く考え込んでいた。


 二人分の茶器の音だけが響く室内で、気まずい沈黙の後、皇帝がおもむろに口を開いた。


「今回の件で、皇太后一派の力はついに削がれた。もう、あの人が貴方を狙う事はないだろう」


 フェリクスは目を見開いて目の前の小柄な男を凝視した。突然自分を「貴方」等と呼んだ皇帝に内心で大きく首を傾げる。


 訝しげに黙っているフェリクスに、アリオンは真剣な眼差しを向けた。


「私にも幼い頃の記憶がある。兄上、貴方が謂れもなく城を追われた時の記憶だ」


「陛下……」


 再び兄という言葉に驚く。


 確かに皇帝との年の差は僅かだ。あの時、それなりに思う所があったのかもしれない。


 だが、今更それが何だと言うのか。


 あの時の幼い自分よりもさらに幼く、恐怖にすくむだけの弟には、特別何も期待などしていなかった。


「兄上。これまで狂った母を刺激しない為に、貴方を兄と認められなかったこと、大変申し訳なく思っている」


 そう言って立ち上がった皇帝は、胸に手を当てて軽く頭を下げた。皇帝に許される最上位の礼である。


 フェリクスは混乱しながらも同じく立ち上がった。


「いや……、私は陛下にそのように呼ばれる者では……」


 これまで帝都の人間や中央貴族達とは出来る限り距離を置いてきた。最低限のやり取りもシルベールに任せきりで、皇帝との手紙も事務的な物だけ。


 正直に言えば自分の方が既にこの男を、長い間弟だとは認識していなかった。


「貴方が我々を家族と見なしていないのは分かっている。両親はそれだけの事を貴方にしてきたし、私もまた年齢や実権の無さを理由にそれを看過してきた」


 皇帝は繊細に整った眉をしかめた。


「だが、やっと私の皇権は揺るぎないものになった。時間は掛かったが、母と彼女の母国である西の勢力をこの国から押し戻し、私の下に信頼できる臣下も増えた」


 フェリクスは自分より細く小柄な皇帝が、堂々とした声で話すのを、ただ大きな戸惑いを胸に、黙って聞いていた。


「今更だと言われればその通りだが、ここに貴方の名誉を回復し、今後は対外的にも我が兄として遇する事を誓う」


 しばらく啞然とアイスブルーの瞳を見つめ続けた後、フェリクスは我に返り、ひとつ咳払いをした。


「陛下が我が身をかように気にかけておられるとは思いも寄りませんでした。大変ありがたい事ですが、私は今の処遇に不満はありません」


 突然の事に様々な想いが心の中を巡ったが、思いのほかいつも通りの落ち着いた声が出た事に安堵する。


 顔色一つ変えずにそのまま跪いて自分を見上げる大公の姿に、アリオンは微かに落胆を見せた。


「……そうか。そうだとしても……」


「……ただ一つ許されるのであれば、此度の大公妃の件、テロイア側が何を言ってきても、我々の婚姻に関してはこのまま静観して下さればと」


 フェリクスは胸に手を当てて頭を垂れた。


「……そうか。それならここで約束しよう」


 微かな悲しみが去来する瞳をさっと伏せて、アリオンが再び顔を上げた時には、普段の柔らかな笑顔だった。


「我が帝国は、今後大公夫妻の婚姻に異を唱えない。例えテロイア政府からいかなる要請があろうとも」


「ありがたき幸せ」


「これが貴方の求める最大の保証なのであれば、幾らでも。それだけの仕打ちを貴方は耐えて来たのだ。そしてこれは後に明確に文書として下知するものとする」


 皇帝の揺るぎない声が部屋に落ちたと同時に、性急なノックの音が響いた。


「陛下、お連れしました」


 侍従と共に足早に入室してきたのは、質の良い光沢のある布をスッポリと被った一人の女性だった。


 案内の者が一礼して素早く扉を閉めると、布を被った女性と高貴な兄弟の三人だけが部屋に残った。


「さあ。母上」


 皇帝が微動だにしない女性に声を掛けると、布が一度大きく震えた。


 皇帝がそう呼びかける女性は、世界広しと言えどたった一人だけ。実質幽閉されている現皇太后と言う事だ。


「わたくしは了承しておりませんわ、陛下」


 女性はしっかりと布の端を掴み、震える声で抵抗を示したが、皇帝は毅然とした態度を崩さなかった。


「母上。謝罪なさるなら今この時しか、機会はないから呼んだのです。仮にも母親なら、自分の子ときちんと向き合うべきだ」


 フェリクスは二人のやり取りから、何となく事態を察して、途端に憂鬱な気分になった。


 実の母親に何度も拒絶を受けるのは、身体が成長し、頭で理解はしていても決して気分のいいものではない。


 出来ることなら、二度と会いたくはない女性。


 皇帝に布を取り払われて現れたのは、間違いなくこの国の皇太后、エリザベートその人だった。


「皇太后陛下に拝謁致します」


 フェリクスはただ静かに礼を執った。


「……っ!!お、お前……」


 歳を経ても皇帝と見た目はそっくりで、妖精のようにたおやかな女は、フェリクスを見ると大げさに後じさり、言葉に詰まって唇を慄かせた。


 毎回化け物を見たかのような態度。

 慣れてはいるが、やはり気分は沈んだ。


「や、やはりアリオンの治世を破壊しに来たのか!」


「滅相もございません。お目汚しをお許しください」


 跪いて深く頭を下げた状態で、チラリと皇帝の方を見上げる。


(一体何故、こんな事を)


 明らかに皇太后はこの状況を嫌悪している。証拠に、フェリクスの口上には耳を貸さず、震える手や足で懸命に彼から遠ざかろうとして無残に腰を抜かしている。


「……母上。兄上が我が帝国の厄災等と言う馬鹿げた妄言は真実ではありません。現に彼は不毛の土地だった北の一帯を見事に国として発展させた」


 落ち着かせようとする声も耳に入らない様子で、錯乱を深める皇太后は床を這って皇帝に近づこうとした。


「アリオン!!早く逃げるのです、わたくしが……わたくしがこの悪魔の相手をしているうちに……!」


 息子の服の裾を掴んで激しく縋る彼女は既にとても正気には見えなかった。


「……っ!母上!!こんな時まで貴方は……!」


「アリオン!!これに惑わされてはだめよ!」


 皇帝がどんなに訴えても、皇太后のアイスブルーの瞳にはフェリクスへの恐怖と拒絶しかなかった。


 瞳の奥底に微かに燃えているのも、我が子への慈しみとは懸け離れた憎悪のみ。


 それをハッキリと感じ取ると、フェリクスの心の底は今でもほんの少しだけ、引っ掻かれた様に痛んだ。


「お前、お前がわたくしの腹から出て来た悪魔か!ああ、私のアリオン。だ……大丈夫よ、わた……わたくしが必ず守って……」


 もがく皇太后の美しく儚げだった風貌はいまや魔女のように変わり、振り乱した金髪が窶れた顔にかかり、輝いていた瞳は白く濁った様に虚空を睨んでいる。


 フェリクスは、その場にただ立ち尽くして揉み合う二人の親子を観ていた。時折我に返って睨みつける女の視線を受け止めながら。


 かつて彼女が発する悲しみと怒りのエネルギーは己を萎縮させ、彼女の冷たい美しさはそれでもなお思慕を抱かせた。


 だが今目の前で哀れな様子を晒している女性は誰なのか。この女性を、自分はずっと恨んできたと言うのか。


(大人になって対面してみれば、彼女はただ……)


 彼女も被害者なのだ。心を深く傷つけられた者。


 フェリクスは長年心の奥に燻ってきた感情が氷解していくのを感じていた。会わない間も長年、蓄積された行き場のない怒りと、深い哀しみが砂のように溢れ去る。


 記憶の中の母は、強く厳しく、常に自分をなじった。


 何故自分の子として生まれてきたのか、何故自分を苦しめるのか、と。


 そう怒鳴りつけられる度に、溢れる涙を抑えることは出来ず、ただそれが過ぎ去るのを待つしか無かった、幼い頃の自分と心に繰り返される同じ場面。


 だが今目の前で錯乱している実際の彼女は、ただ積年の病に苦しんでいるだけの哀れな女性だ。


 それを深く知った時、そこにはもう何の感情も無かった。ただ、彼女を哀れだと思う気持ちだけが残った。


 それでも、これまでの蓄積した想いの果てに涙が一筋だけ、フェリクスの頬を伝った。



「もう良い」



 フェリクスは誰にともなくポツリと呟いた。

 


「皇帝陛下、皇太后陛下をどうか別の場所へお連れになってください。これ以上は……」


「しかし……」


「陛下の兄であると対外的に認めると仰せなら私は従います。ただ……元々無かった絆は創り出せません。皇太后陛下をこれ以上苦しめる必要はどこにもありません」


 アリオンはフェリクスの揺るぎない言葉に、一瞬強く目を閉じて深く息をついた。


「……兄上がそう言うなら」


 彼は暴れる母親を抱きしめたまましばらく項垂れていたが、おもむろにベルを鳴らした。


 素早く入室した侍従達が皇太后に再び布をかけると、そっと支えて部屋を出て行った。


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