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第六十八話 湖上の船

 ルシルが湖の最終整備を終えて、視察の準備をしに本館へと急いでいると、若い女性たちの潜めた話し声が耳に届いた。


「見て!あの方がきっと噂の……」


「ええ、神族だというのは本当なのかしら……!」


「確かに外見は恐ろしいくらいに整っているわ、あれで不落の幽霊大公を惑わせたのね」


 声の方に近づくと、近隣国から訪問中の貴族女性と思わしき姿が蜘蛛の子を散らすように去る。


「はぁ……」


 ここのところ同じ様な事が何度も起きていた。

 すでに大公国の化け物は、見世物としての効果を発揮し始めたと言うことだろう。


『わざと聞こえる様に話すくせに、近づくと逃げるぷ』


 姿を消して首に捕まっていたカリンが不思議そうにルシルを見上げる。


『よく分からない行動よね』


『気になるぷ?』


『彼等にしてみれば私は得体のしれない化け物だもの。仕方ないわ』


 それを聞いて不機嫌そうに鼻を鳴らすカリンを、ルシルは落ち着けるように軽く撫でた。


「妃殿下、ご無事のお帰り何よりでございます」


 そのすぐ後、ルシルは城の応接室の一つでメルセラン商会の会頭と対面していた。広い部屋にはところ狭しとドレスや靴などの装飾品が並べられて、商会員達が忙しく動き回っている。


 さすがに大商会の会頭は、ルシルが神族だと聞いていても物怖じする様子はなかった。


「ありがとう。会頭にも心労をかけたわね」


「いえいえ。偶然にもこの様な時に少しでもお力になれたこと、心からありがたく思っております」


 大商会にとって情報とは何にも代えがたい価値があるものだ。帝国中が固唾を呑んで注目するこの国の現場に奇しくも居合わせたのは確かに幸運なのかも知れない。


「帝都での謁見用のドレスの他にも、こんなに沢山あるのね?……普段着と、上着に、靴に、下着と夜着と……騎獣用の鞍まで?」


 ルシルは先ほど散々試着させられた品物とさらなる品達が続々と運び出されていくのを驚いた顔で見つめ、一息つくためにゆっくりとお茶を飲んだ。


「はい。妃殿下がお留守の間に、大公閣下から色々とお申し付け頂けたものですから」


 ホクホク顔で両手を合わせる会頭は本心から嬉しそうだ。


「ほとんど全て妃殿下の物である事には少々驚きましたが」


 ルシルは、フェリクスの真剣な表情を思い出した。


 彼は、その頃どんな気持ちで、戻るかもわからないルシルの私物を作らせていたのだろう。


「あの状況で閣下が、妃殿下の無事のご帰還を心から信じておられる事には、私共も誠に感銘を受けました」


 ルシルは唇を震わせて、公妃専用に購入されたと言う金の装飾の美しいティーセットを指先でそっと撫でた。


 自分だけの為に贈られた私物たちを見ると、これまでの仮初の立場ではなく、本当にここに根を下ろして暮らしてゆくのだと言う実感が湧いてくる。


 思わず潤みそうになる瞳を咄嗟に瞬いて顔を上げ、ルシルは咲き誇る花のようにそれは美しく微笑んだ。


「素晴らしい品ばかりで、私も本当に嬉しいわ」


 メルセランはその姿に少し息を呑んだが、ゆっくりと姿勢を正すと、さりげなくまた話し出した。


「それに閣下より賜った魔晶石は純度が驚くほど高く、大変な価値がございます。これら全てのお代をお支払い頂いても品数の方が足りないほどで。よもやあれ程の石がこの北の地で採れるとは存じ上げませんでした」


 探るような目線にも気がついているが、ルシルは鷹揚な笑顔を崩さず聞き流した。


「それは良かったわ」


「今後ともぜひご贔屓に」


「もちろんよ。商会にはドラゴンの遺骸の一部も買い取って貰えたようだし。大公国としても良い取引をさせて貰えたと聞いているわ。これからも宜しく頼みます」


 会頭はあの石がルシルと関わりがあると睨んでいるようだが、中央との繋がりが強い相手に、わざわざ種明かしをするつもりはない。


 ルシルはできる限り威厳のある大公妃らしく振る舞った。慣れない口調に、上品な所作を必死にひねり出す。


 これまではおおらかな大公国の人々の間だけだったのに、これからは帝国中央の人々や、近隣諸国の人達とも交流していかねばならないと思うと、いつ自分のガサツさが露見するか分からない。それが一層憂鬱だった。


「最近は近隣諸国から祝宴に参加する貴賓が続々と到着している様ですな」


「ええ。祝宴は皇帝陛下との謁見後に私達が帰国してからなのだけど、本当に気が早い方が多いようで」


 ルシルは笑顔の下に無言の苛立ちを含んで答えた。


「私共を来賓塔に呼び付けて商取引をしてくださる事も増えまして……大変ありがたい事でございます」


 恐らく商会関係者に探りを入れてルシルの事をあれこれ聞いているに違いない。


 最近はジルベールが客人の行動範囲を厳しく制限していると聞いたが、道に迷ったふりでルシルを一目見ようと勝手にうろついているようだ。


「折角ですから私共も、出来れば祝宴までは滞在させて頂けたらと思っております。どうぞよしなに」


 柔和な笑顔の下に計算高い顔を隠して、メルセラン会頭は深々と頭を下げた。


***


 夜半、宿泊施設と湖の視察を終えたフェリクスとルシルは桟橋から小舟に乗って湖面に出ていた。


 北部に訪れる短い夏の涼やかな気候が、薄着の二人の間に心地良い風を運んで来て、湖畔に植えた花々の香りがふわりと漂っている。


 紅色の月が鏡面のような湖面に映り込み、今日は遠慮して留守番しているカリンの悪戯なのか、薄紅色の霧がゆっくりとたなびいて、幻想的な雰囲気だ。


「こんなふうに夏の夜にボートで舟遊びなんて素敵ね。折角だからと何艘か準備しておいて良かった」


 テロイアでも定番のデートコースで、わざわざ昔ながらの小さな手漕ぎボードに乗ると言う趣向はあった。まさか自分がそれを経験するとは思わなかったけれど。


 照れ隠しで弾んだ声を出すルシルとは対照的に、フェリクスは先ほどからずっと黙したまま、湖の中央付近でオールを止めた。


 ポチャポチャと風で岸辺に打ち付ける水音以外はシンと静まり返った湖に、月明かりがキラキラと反射して二人の顔に不思議な陰影を作っている。


「ルー」


「は……はい」


「君はまだ何か悩んでいるだろう?」


「え……」


「私の伴侶になることを迷っているのか?それとも、この地に残る事を?」


 ルシルは思わず無言でフェリクスを見つめた。


「君は隠し事が本当に苦手だな」


 苦笑いするフェリクスにルシルは目を瞬いた。自分が人知れず悩んでいたことなんて、この人にはお見通しだったのだ。泣き出したい様な、ホッとした様な気持ちになって、ルシルはため息をついた。


「迷ってるわけではないの」


 ルシルはフェリクスの視線を避けるように、ボートから身を乗り出すと冷たい湖水に軽く手を浸した。


「私は貴方とレイモンドとずっとここで幸せに暮らしたい。だけど、北の山で聞いた話が気になって」

 

 ルシルは山頂で見た神罰のことや、テロイア大陸の核石の事を、震える声でゆっくりと説明した。


「私個人の想いは決まってるの、でも……」


 小さな小舟がさざ波に揺られるように、ルシルの心もどうしようもなく揺れていた。


 今までこんなにも自分の気持ちを優先したいと思う事はなかった。いつでも人の為に行動して、それが辛かった事なんてなかった。


「あの大陸で暮らす大勢の人達の暮らしを犠牲にしてまで、私の幸せを優先するのは……」


 やっと自分にも、人並みに大切な存在が出来たと思っていた。それなのにまた、そんな日々が遠のいていく不安と恐怖。


……どうしても、すぐに結論を出したくなかった。


 ルシルは湖水に濡れた手をハンカチで拭うと、無意識に布をきつく握りこんだ。


 フェリクスの手がゆっくりと近づいて、ルシルの強張った指をそっと解いた。


 ルシルは手の中でグシャグシャになったハンカチを見つめた。綺麗なレースに縁取られて、隅にはルシルの名前が小さく刺繍されている。


 ここに自分だけの物が増えていく喜びを、自分の居場所だと確認できる喜びを、もっと感じていたかった。


 不慣れで身勝手な自分の感情に、ただ呆然とするルシルの掌を、フェリクスはハンカチごともう一度温かく包みこんだ。


「私はテロイアに戻らなきゃ。一緒に暮らせないのに、貴方を本当の結婚で縛り付ける訳にはいかない」


 ルシルは声を絞り出すようにしてようやく言った。

 自分の言葉に、胸が張り裂ける様に痛んだ。


「それは君の本心なのか?テロイアに帰りたい?」


 静かなフェリクスの問いかけが、夜の湖に響く。

 ルシルは迫り上がる感情を堪えきれずに口にした。


「……いいえ!いいえ!私は、貴方と一緒にいたい。ロトにいたい。貴方がいないと、もうどうやって息をすればいいかも分からないのに」


 ルシルは激情のままに叫んで、幼子の様に見開いた瞳から大粒の涙をボロボロとこぼした。


「私……どうしよう」


「大丈夫。きっと方法はある。それを一緒に探そう」


「フェル……」


「他人の幸せのために、君だけが犠牲になる必要なんてない。どちらも幸せに暮らす方法を探せば良い」


 月光が作る影がチラチラと揺らめき、二人の姿を神秘的な色合いに輝かせている。


 ルシルの止まらない涙をフェリクスがハンカチでそっと拭うと、ルシルは急に心が軽くなるのを感じた。


「不思議ね。貴方がそう言うと、きっと最後には何もかも上手くいくような気がする」


 ルシルは微かに微笑んで、フェリクスの広い胸に頬を寄せた。膨らんだ不安が消えていく。


 彼がルシルをそっと抱きしめると、バランスを失った小舟がゆらゆらと揺れたが、カリンの施していた魔法ですぐに静かになった。


 二人の間に暫しの沈黙が落ちたが、ルシルには二人分の鼓動がいつもより早く強く打つ音が聞こえていた。


「こ、この船、カリンの魔法で転覆しないようになってるの、それに湖の水も枯れない様にね……」


 急に照れくさくなってアレコレと早口で話し出したルシルの顎にフェリクスの長い指が添えられた。


(ど、どどどどうしよう!これはたぶんそういう!)


 ルシルの真っ赤になった顔が、ゆっくりととても優しく上向かせられる。ルシルはパニックになった。


 目の前には、長い睫毛に縁取られた紫の瞳が、月光を反射する湖面を映して揺らめいている。


 その宝石の様な美しさに、爆発寸前のルシルの思考は急に停止し、無意識の呟きが一言漏れた。


「綺麗……」


 フェリクスの形の良い唇が弧を描いた。


 ルシルはゆっくりと近づく紫の瞳の奥をひたすら見つめ続け、月明かりの下で湖上の影が一つに重なった。




これにて第三章完結です。ここまでお読みくださりありがとうございました。明日からの第四章は帝都編になります。引き続き完結までお付き合い頂けたら嬉しいです。

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