第六十四話 運命の人
大きく見開かれた金の混じった碧色の瞳に、ふわりと透明な涙が浮かんだ。
「もちろん。私の気持ちは変わらないわ」
絶望的だと思っていた恋が突然報われた喜びで、ルシルの声は震えていた。
「貴方を好きになった理由は、外見でも地位でも能力でもない。フェル。私は貴方が、貴方だから、好きになったのよ」
ルシルの瞳から一粒涙が溢れた瞬間、あっという間にフェリクスの広い胸に抱き寄せられた。
温かい彼の体温と鼓動が、ルシルの頬に伝わる。
(やっと……ここに帰ってこれた)
再会への緊張や、これまでの様々な出来事ですっかり強張っていた身体が、すっと楽になった気がした。
(私でさえ私自身が何者かが怖いのに……。どうしてか、この人はそんな事は些末なことだと思わせてくれる)
ルシルが何者でも構わない、と言い切ったフェリクスの寛大さが、自分自身の出自への不安や恐怖をゆっくりと押し流してくれるようだった。
やっぱり、この人なら大丈夫なんだ。
私が何を言っても、きっと受け入れてくれる。
説明のつかない安心感がルシルを包んだ。
「実はね、自分でも知らなかったんだけど、私は神族でさえなくて、祖神族と言う珍しい種族だったの」
思い切って切り出すと、頬に伝わるフェリクスの規則正しい鼓動は、少しも揺れなかった。それにまた少し、安心する。
「それに、この数ヶ月で前よりずっと魔力……神力も強くなって。その事が自分でもなんだかとても怖くて」
訥々と語るルシルは、話すうちに自分の鼓動が早まるのを感じる。無我夢中だった今日までを思い出して、今さら不安と恐怖が押し寄せる。
あの山で目覚めた時は、また一人だった。
エイリーヤに事情を聞いて自分の真実と向き合った時も、急激に増えた神力や身体の違和感を感じても、一人で飲み込むしかなく、誰にも相談できなかった。
「そうか」
「うん……。だけど、私は私で」
ルシルは言葉に出してみると当たり前すぎるその普通さに、急に安心して泣き笑いしたくなった。
「中身は何も変わってないの。北の山で目が覚めてからはただ、あなたとレイモンドの事が心配だったし、大公城の人達も心配だったし、それと結局、嫌われたと知ってても、結局あなたのことは好きなままだった」
彼の騎士服の胸元の房飾りをボンヤリと見ながら、ルシルはとりとめもなく話しつづけた。これまでの不安も理不尽だと思った事も、全部聞いてほしかった。
「北の山では、私の同胞だと言う男性にも会ったわ。彼は……少し変わっていて……私が産まれる前の話も聞いたの。なんだか自分の事だなんて信じられない話だった」
正直今でも誰かに、たちの悪い冗談だったと言って欲しい。今までずっと信じてきた家族や、自分の記憶が、全部デタラメだったなんて。
「……でも友達が迎えに来てくれて。それで帰ってこれたの」
「友達?」
「そう、あなたが言ってたジャック」
少し気まずい気持ちで、ルシルは顔を上げずにギュッと唇を噛んだ。
「小さい頃の友達なの、それに、今は私の眷属龍だとか……とにかく彼とは、あなたが心配するような、そういう関係ではないわ。あなたとのことも、諦めないでもう一度話してみろって言ってくれてたし」
彼の胸に頬をピッタリとつけていると、力強い鼓動が耳に響く。その音を聞いているだけで不思議ととても安心できた。
「そうか……。くだらない勘違いをしてすまない。彼は……命の恩人でもあるのに」
フェリクスは抱きついたままのルシルに微笑むと、大きくて温かい掌で落ち着けるように何度も髪を撫でた。
「彼が持っていたポーションで助かったんだ」
「本当に良かった……私、あなたが死んでしまったのかと思って、ショックでわけがわからなくなって……」
そこまで話して、急に最後の場面を思い出した。
「あの!そうだ、私……お城を壊してごめんなさい!」
慌てて飛び退いて勢いよく頭を下げるルシル。
フェリクスは苦笑しながら頭を下げているルシルの両手を握った。
「いや、君が無事で戻ってくれたなら、他のことは大した問題ではない。それに君の部屋の魔晶石が復興資金として役立っている」
フェリクスの優しい声と顔つきに、ほっと息をついて、ルシルは再び控えめに笑顔をこぼした。
「役に立って良かった。あれはカリンのおやつにしかならないところだったから」
「カリン?ああ。あの精霊の名前か」
「そう。あなたもレイモンドを庇った時に見たのね。クッションになった白い大型猫。あの子もジャックと迎えに来てくれたの。今や私の神獣らしいんだけど……眷属とか神獣とか、私にもまだよくわかってないわ」
ルシルの要点を得ない説明にも、穏やかに笑うフェリクスは、相変わらず見惚れてしまう位にキラキラと美しく、その視線は驚くほど柔らかで優しい。
ルシルはこの人が自分の恋人なんだと改めて思うと、喜びで森中を駆け回りたくなった。
今ならドラゴンを三匹くらい串刺しにして、愛の証に差し出したい。
そんな奇行はもちろん出来ないので、繋いだ両手にギュッと力を籠めるだけにする。
「とにかく城に戻ろう。テロイアの関係者も君の帰りを待っているはずだ」
ふいに彼の口からテロイアの話が出て、舞い上がっていた気持ちがすっと冷えた。
思わず視線を少し伏せる。
あの後エイリーヤとはかなり話し合ったつもりだが、核石との繋がりやその他諸々については、何も結論が出ないままだった。
「そうね」
フェリクスと向かい合って両手を繋いだまま微かに頷く。
彼に受け入れてもらえたのは嬉しいけれど、結局この先のことを考えると、喜んでばかりもいられない。
フェリクスは急に元気をなくしたルシルを気遣わしげに見下ろすと、優しい仕草で左手の指輪に口付けた。
「あれから、君を想わない日はなかった」
こちらを愛しげに見つめながら指輪にキスをする彼の瞳は、心臓が破裂しそうなほど色っぽくて、ルシルは思わず目を丸くして唾を飲み込んだ。
「この指輪が、ずっと君と共にあって良かった」
ルシルの知る限りの彼は、少しシャイで誠実な人柄だけど、この天性の魔性の美しさは、その全てを凌駕する程に圧倒的だ。本人は全く無意識なのだろうけど。
「私も、ずっとこの指輪が気になってたの。記憶を無くしても心の何処かで貴方に会いたかったんだと思う」
ルシルが照れくさくて小さな声でそう答えると、フェリクスは見た事もないほどに甘やかに微笑んだ。
ルシルは再び熱くなった頬を俯けた。
こんな時どんな顔をしていいか分からないのだ。
「ルシル」
フェリクスは赤くなって俯いてしまったルシルに、とても優しい声で言った。
「レイモンドも君に会いたがっている。城の皆も」
「私も早くレイと、城の皆に会いたい」
その言葉が嬉しくてルシルはすぐに笑顔を返したが、直後に眉を下げてフェリクスを上目遣いに見た。
「ああ……でも私……皆に怖がられてるはずだから……」
「初めは皆も戸惑っていたが、今では全員君の帰りを首を長くして待っている。何しろ、君がいないと城にはどうにも活気がないんだ」
「でも……神族は残忍で傲慢な化け物なのよね……?」
「君を知っている者で、いまさら君を傲慢な化け物だと言う者はいないさ。我が城の者たちはそんなに恩知らずではないからな」
ルシルは慌てて瞬きをして、滲んだ涙を堪えた。
「そう……そうなのね……、良かった、私。まだロトで帰る場所があるんだ」
ルシルの脳裏には城で出逢った人達一人一人の笑顔が次々に浮かんでくる。
「当たり前だ。城に戻ったら、契約結婚の話は見直して、きちんとこれからの二人の事を話し合おう」
軽く腕を引かれて再び彼の胸に収まると、ルシルはその温かさにホッとして、深く息を吐き出した。
「うん」
二人は離れていた期間の寂しさを埋めるように身体を寄せ合ったまま、これまでお互いに何があったのかを思いつくままに語り合った。




