第六十話 狂気 side 皇太后
主の蟄居が決まってから、皇太后宮には緊張感が漂っている。使用人たちは主の機嫌を損ねまいと、細心の注意を払っているが、ほぼ毎日のように怒鳴り散らされ、厳しい罰を受ける者が何人も出る。
皇太后の周りには自然と人が少なくなっていた。
「どうしてなの、どうして……っ」
エリザベートは豪奢な寝室のベッドの上で身体を折り曲げるようにして泣いていた。
大切に育てられた母国を捨て、一人孤独に耐えながら、嫁ぎ先でやっとの思いで得た我が子をあの悪魔に殺されまいと、必死に生きて来た。
その我が子が、突然変わってしまった。
これまでは、そんな素振りもなかったのに。
何が、いけなかったのか。
「ああ、あんな異邦人さえ……っ、あの男さえいなければ」
美しく結い上げた髪を振り乱して、シーツを握りしめるエリザベートに、背後から柔らかな声がかかった。
「母上」
慌てて振り返ると、そこには大切な我が子、今では光り輝く皇帝となった一人息子の、いつになく冷たく感情のない瞳があった。
「ああっ……っ、アリオン!ごめんなさい、わたくしが悪かったわ、あの者がこんな悪さをするなんて本当に思わなかったのよ」
寝室の入り口扉の向こうに立つ息子に走り寄ると、その腕に縋りつくようにして膝をついた。
「蟄居、蟄居だなんて……、そんなこと、貴族達に向けての対面の為なのよね?あのとかげ男が北の僻地で何をしようと、貴方やわたくしには関係がないはずだもの」
縋り付く母を見下ろして、アリオンは薄く笑った。
「いいえ、母上。貴方と貴方の配下の貴族達には今回の事件の引責で政の舞台からは永遠に去ってもらいます」
冷たく突き放すような息子の言葉に焦燥感が募る。
「そんな……!どうしてなの、アリオン。今までこんな事一度も……っ、あのトカゲはもう処分したはずよね、殺さずにわざわざ自国に送り返したって……!」
あの異種族の男が全ての元凶だ。あの男は初めから北の地にこだわっていた。何かがおかしかったのだ。
静かに北の地の整理を指示したつもりだったのに、勝手にこんな騒ぎを起こすとは。
「母上、私は再三あの男を警戒するようにお伝えしたはずです。愚かな貴方がたのおかげでテロイアと我が国は、すでに水面下では一触即発の事態になっている」
いつもは優しい息子が、突然冷たい為政者の顔で怒っている理由は、あのトカゲの出身地である新大陸のせいらしい。
「向こうの犯罪者達が我が国内で暴れたのだから、こちらが被害者というだけでしょう?どうしてそんな……」
エリザベートをいつも女王のように扱う配下の貴族たちがこぞって陛下の機嫌をとるように進言してきたが、どうしてなのか結局理由がよく分からなかった。
「テロイア連邦国は我が国よりも強大です」
それでも、大洋の向こうの見知らぬ大国だ。
それに攻撃を仕掛けてきたのはあちらが先なのに、何をいちいちそんなに騒ぐ必要があるのか。
「大公国には彼の国の重要人物がいました。それに、あの男、アイゼンバーグが大公国でなしたことは母上の命令だった事もあちらに知られている」
「そんな……」
愕然とした顔でアリオンを見上げるエリザベート。
全ての責任がこちらにあるとでも相手が言っているのだろうか。確かに大公とその家族の暗殺を命じたのは自分だが、あんな騒ぎを引き起こせとは命じていない。
それに重要人物など知らない。いつもの様に邪魔なものを排除しようとしただけ。配下が勝手にそれに失敗しただけ。
「わ、わたくしは……」
「母上。なぜ兄上を殺そうとしたのですか」
どんな時でも感情を見せない礼節教育を受けているアリオンの柔らかい声音に、エリザベートは息を呑んだ。
「あ……あなたに兄など」
「いいえ。私には父も兄もいます。いや……いました。
貴方が……どちらもある意味殺してしまったけれど」
ある意味、と言う部分でアリオンが顔を歪めるのをボンヤリと見ていた。確かに先帝は殺したが、黒髪のあの男はトカゲ達が仕留め損なったと聞いている。
最後にあの姿をこの目で見たのは、大公領が正式に大公国となり、公王となるあれに皇帝が自ら戴冠の儀を執り行った時だ。
エリザベートは激しく反対したのに、別の国となれば今よりずっと接触が減ると説得され、あの時だけはアリオンが強硬に大公領の独立を進めてしまった。
思えば息子は、これまで兄という存在について決して母親に尋ねる事はなかった。不自然なほどに。
「アリオン……わたくしは」
これまで真綿のように優しかった息子が突然知らない誰かに代わってしまった様な気がして、エリザベートは不安に駆られた。
この子のためには、全てのことが必要だったのだ。
不必要な厄災はこの子の側から取り除いておくべきだった。見慣れない息子の冷たい表情に動揺する自分を落ち着けながら、エリザベートが優しく取りなそうとした時だった。
「……そして私の子供たちまでをも」
息子から聞いたこともない低い声が響いた。
「貴方が殺してしまった」
ほんの少し残っていたエリザベートへの同情は息子の瞳から全て消え去り、彼は一切の感情を消して冷たく整ったその顔でエリザベートを真っ直ぐに見つめた。
「……その事を私が知らないとでも?」
アリオンの声は変わらずに穏やかなのに、エリザベートは息をするのが苦しいほどの怒りを、その瞳から感じ取って小刻みに身体を震わせた。
(それは……!消してこの子には知られないように手を回したはずなのに。後宮での毒殺は容易いとあの男が言って……ああ、またあのトカゲのせいなのね……)
子供と言う言葉を聞いて、エリザベートの脳裏には若い頃に後宮で可愛がっていた子供達の姿がフラッシュバックした。
若く純粋だった自分に楽しそうに笑いかける茶髪や赤髪の幼い子供達。そしてその全員が冷たい骸に成り果てた姿も。
エリザベートの心は悲鳴を上げる寸前でその映像を追い払った。殺られる前に、殺らなければならない。そうすることでしか、ここでは生き残れない。後宮の他の女達からも、冷徹な皇帝からも、まだ見ぬ厄災からも。
この大切な我が子を守るにはそうするしかないのだ。
「アリオン。全ては、貴方のためなのよ」
そしてその心は再び冷たく凍り付き、エリザベートは感情の籠もらない明るい声で息子に事実を告げた。
「仕方がなかったのよ。黒髪の子供なんて縁起が悪すぎるわ。貴方と同じ金髪の子達がこれから幾らでも産まれてくるはずよ、そうでしょう?」
その瞳に狂気を光らせて息子に切々と語りかける。
黒髪に紫の瞳。それはこの国を滅ぼす凶兆だと、彼女はいつも言っていた。母国から付いてきた唯一の頼れる侍女。彼女の言葉は神の言葉なのだから。
「不吉な子供は処分するしかなかったの、それがこの後宮での掟なのよ」
焦点が合わない瞳で空を見つめながら、エリザベートはブツブツと同じ言葉を繰り返す。そんな母に向かって、アリオンは悲しげに言った。
「貴方にとっての私のように、私にとっても彼等は我が子だった。容姿がどうあれ、私の息子達だったのに」
その言葉はもうエリザベートには届かなかった。
「黒髪の子が産まれたのはあの男の呪いよ!あの血も涙もない殺戮者のね……!トカゲ男は少なくともあいつを殺してくれたわ、ふふ、それだけは役に立った。アリオン、この母がすることはね、全て貴方の為なのよ」
青ざめた顔で歪に笑う母親から目を逸らし、アリオンはその美しいアイスブルーの瞳を固く閉じた。
「あなたは結局、ずっと狂ったままなのですね……」
「大丈夫よ、アリオン。わたくしが必ず貴方を守ってあげるから。新大陸など恐れる事などないわ」
息子の様子は全く意に介さず、ほとんど瞬きもせずに目を爛々と輝かせるエリザベートは、誰が見ても常軌を逸していた。
アリオンは小さく溜息をついたあと、静かにその場を去った。
その後、長い間、皇太后の蟄居は覆らなかった。




