第五十九話 帝国の誤算 side 皇帝
大公国での襲撃事件の後、ラフロイグ帝国には大きな変化があった。
長らく栄華を誇った皇太后派が倒れ、若い現皇帝を支持する皇帝派が、ついに実権を握ったのだ。
事の起こりは皇太后が近年重用していた身元不明の商人が、新大陸テロイアから来た龍族で、大公国を襲撃した一派だと判明した事だった。
暴力的な異種族の存在は人々の恐怖を煽り、皇太后の軽挙妄動が巷でも不安視された。
現皇帝派の巧みな暗躍で、その衝撃的な知らせは瞬く間に国境を越えて大陸中に知れ渡り、皇太后派の勢いは、急速に削がれていった。
その後皇太后は引責により蟄居し、皇帝は新大陸との交流開始を堂々と傘下の国々と近隣国に宣言した。
アリオン・オステルマノフ・ラフロイグは、豪奢で広大な議会場の玉座に背筋を伸ばして座し、その妖精のような美しい顔を顰めた。
目の前には黒いベールで顔を隠し、神妙な様子で力なく跪く皇太后が涙声で許しを請うている。
居並ぶ諸侯と近衛騎士は、一様に青ざめた顔でその様子を固唾をのんで見守っていた。
「陛下、どうかこの哀れな母に慈悲を……」
皇太后の切々とした涙声での弁明はとても長く、人々は辟易としていたが、皇帝以外の誰もこれに文句を言う者はいない。
「神聖な議会場でそのような世迷い言を延々と聞かされるとは。我が母ながら実に嘆かわしい」
ついに皇帝が皇太后の言葉を遮って結論を述べた。
「宰相、皇太后は心労のあまり正常な判断力を失っている様だ。専属の皇宮医を付けて蟄居宮まで丁重にお送りする様に」
「御意」
「陛下!!」
尚も取り縋る母親を冷たい視線で一瞥すると、これまでの柔らかな物腰を一変させたアリオンは、緊張で背筋を伸ばす臣下達を玉座から睥睨した。
「さて、諸君の中のどれだけが我が国の置かれた状況を正確に把握しているだろうか」
重たい空気が議会場に満ちた。貴族達は互いに視線で牽制し合い、皇帝の問いに応える声はない。
「新大陸に存在するテロイア連邦国の文明、技術力は我が国を明らかに凌駕している。そしてこの大陸に我が国より秀でた国力を持つ国は存在しない」
感情の籠もらない淡々とした皇帝の声が、静まり返った議会場に響いた。
「彼の国が大洋を渡る術を手に入れた今、我々に出来る事はもはや交渉のみ」
するとそれまで黙っていた臣下の列から一人の老臣が進み出て、大袈裟な身振りでその場に跪いた。
「陛下!!その様な弱腰では帝国の威信に関わりますぞ!我が国はこれまで数多の国を武力でのみ攻略して来たはず。先代の皇帝陛下ならその様な事はけして仰らなかった!……ああ、先帝さえご顕在ならば……!」
老臣は口惜しそうにその場で胸に手を当てると、天を仰いだ。それを機に場はざわめき、やがて議場は騒然となった。
しばらく無言の皇帝の前で、人々は罵り合い、そのうち小さな怒号まで響き出した。
(……愚か者どもめ)
アリオンは表情を変えずに静かに立ち上がると、おもむろに胸元から一丁の魔力銃を取り出した。それはとても美しく装飾されており、誰も脅威を感じなかった。それが小型の兵器である事は皇帝と宰相しか知らない。
人々が静かに動き出した皇帝に訝しげな視線を投げる前で、アリオンは先程口火を切った老臣の傍に控える侍従の一人に向けて、その美しい魔力銃の一撃を放った。
驚くほど大きく硬質な音が響き、人々は目を見開いた。撃たれて血を流す侍従を凝視し、続いて恐る恐る見慣れない武器を構えた皇帝を振り返った。
騒々しかった広間は一瞬で再び静寂に満ちた。
左肩を銃で撃たれた侍従は衝撃で後ろに吹き飛び、後方の諸侯達を薙ぎ倒しながら数メテル先で仰向けに倒れ込んでいた。
血痕は少ないながらも、一撃で成人男性が意識を失うのに充分な威力であることは明白だった。
「これが彼の国の文明、そして我々の知らない武力だ」
アリオンの声が静かな室内に響いた。
「さらにテロイア大陸には、エルフやドワーフ、獣人族以外にも、神族と龍族なる強力な異種族がいると言う」
呆気にとられて瞬きも忘れた様子の老臣は、声にならない声を上げようと口を開け締めしている。
「異種族達は、基本的には好戦的ではないが、この小さな武器の他にも様々な兵器を持っている。そして彼の国の史実では、互いの国を滅ぼすまで戦った世界大戦の歴史もあるそうだ」
この小さな兵器であの威力ならば、他は想像を絶するだろう。そして異種族達は身体的にも人族より強靭で、かつ魔法にも長けている者が多いのだと聞く。
(武力がどうこう言うレベルではない。巨大な森林熊と子兎が平等な振りをして卓に付く様なものだ)
「国交樹立の草案の裏にはどんな取引があるのですか」
理知的な瞳を持つ若い臣下の一人が、アリオンに向かって緊張に震える声で尋ねた。
頭の固い老臣達以外は、すぐにテロイアの未知の脅威と、このロト大陸の窮状を察した。
「彼等はこの大陸に潤沢にある自然の魔素を欲している。そしてそれよりも重要なのは、大公妃の存在だ」
「大公妃?あの、つまりトーリ大公妃の事でしょうか?」
静けさが満ちていた謁見室にまたさざ波のようにざわめきが拡がった。『幽霊大公の……』と言う囁きも漏れ聞こえる。
「我が兄の娶った女性はテロイア大陸出身だったそうだ。大公国でそれが周知の事実だったのかは不明だが、少なくともテロイア側は彼女との対面を要求している」
「しかし、噂では大公妃は現在失踪中とか……」
「そうだ。本人の所在が分からない以上、その要求には応えられていない。我々の交渉はまだ何も進んでいない状況とも言える」
そこまで真っ直ぐ前を向き淡々とした声で話していたアリオンは、軽く視線を伏せた。
「公国には彼女の捜索についてすでに通告してある。そのうち朗報がもたらされると信じている」
静まっていた臣下の中から、焦った様な声が上がる。
「その様な、悠長な!大公国への圧力を強めて、すぐにでも交渉に移るべきではないのですか」
その声に次々と賛同の声が上がった。
アリオンはテロイアの脅威に今更気が付いて、慌てて保身に走る有力貴族達に蔑みの籠もった視線を投げた。
「幸いにして大公国に逗留中のヒューゴ・ダイン魔法師団団長も捜索任務に就いている。今はただ待つのだ。あちらは今回の事件の被害国でもある。傘下の国々は帝国の寛容さを注視しているはずだ」
不安にざわめく議場を見ながら、ふと追放同然に北の地に去った幼い日の兄の小さな背中を思い出した。
それを見送る無力な幼い自分と、あの頃毎日の様に響いていた母の狂ったような叫び声。
アリオンは小さなため息をこぼすと、再び厳しい表情に戻って臣下達を睨みつけた。
「その間にすべきは我が帝国国内の懲罰だ。皇太后に近しい者たちは、彼女への忠言を怠ったものとして厳罰に処す。その者達には、追って沙汰を申し渡す」
最後の一言で再び混乱に陥る広間を眺めて、アリオンは苦々しく言葉にして呟いた。
「役立たずどもめ」
先帝に放置されていた母の我儘は際限がなく、多くの貴族がそれを巧妙に利用していた。どいつもこいつもおべっかが上手いばかりで、大事なことには使えない。
アリオンは傍に戻った宰相に面倒そうに指示をして、騒がしい臣下達を議会場から追い払った。
静けさの戻った議会場にはアリオンと宰相が残された。彼等にはもうひとつ、やることが残っている。
「陛下、皇太后陛下とはお話になりますか」
アリオンはこめかみを推しながら顔をしかめたが、仕方なさそうに頷いた。
「そうだな。あのまま放置しても母上のことだ。また良からぬ悪だくみをしかねない。使いをやって会いに行くと伝えてくれ。皇太后宮の使用人の数は絞り、外部との接触を完全に遮断しろ」
「御意」
アリオンは美しい顔を歪めてヒステリックに叫ぶ母親を想像して、重いため息を吐いた。




