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第五十話 残された人々 side デボラ

 あの事件の後、大公妃殿下の失踪はあっという間に城内に知れ渡りました。


 わたくしはあの時、公子様と現場におりましたのに、口惜しいことに当時の記憶が定かではありません。長く気を失っていたらしく、気がついた時には全てが終わった後でした。


「公子様、お食事をお持ちいたしました」


 公子様も当時の記憶がはっきりとしていないと医師から聞いております。


 この小さなお身体で、何度も何度も危険な目に遭うこのお方を思うと、途方もない無力感と、やり切れない気持ちでいっぱいになってしまいます。


「今日は公子様のお好きなケーキがございますよ」


 公子様は前よりお一人でボンヤリとする時間が多くなりました。お食事の量も減り、熱心にされていた魔法の練習にもあまりご興味を示さなくなってしまいました。


「公子様。御母上様がお戻りになられた時に、その様に元気がなくては御心配されますよ。今日のお食事はしっかり召し上がって下さいね」


 大好物にもあまり興味のないご様子に胸を塞がれるような気持ちでお声をおかけすると、小さく頷いてから、ゆっくりとわたくしの方をご覧になりました。


「デボラ。ははうえ、はいつかえってくるの?」


 以前は舌は足らずだった可愛らしい発声も、落ち着いてお話になるせいかだいぶ明瞭になり、どことなく大人びた表情を見せる様にもなられた気が致します。


「そうですね。公子様が良い子にしておられれば、きっと早くにお帰りになると思いますよ」


 毎日同じ質問をされる公子様に、同じ返答しかできない事に罪悪感を感じます。公子様は今日もわたくしの返事を聞くと、がっかりとしたお顔でお食事を始めました。


 妃殿下が行方不明であることは、公子様には伝えておりません。お仕事で遠くに出かけていると説明しているので、こうして毎日お帰りの時期を質問なさいます。


 ご本人がどの程度察しているかはわたくしにも判りませんが、城内の空気から何らかの不安を感じているのかもしれません。 


 現在は無事だった本館のお部屋に戻られて授業も再開しているので、わたくしの目の行き届かない所では様々な噂話も耳にするかもしれません。


(妃殿下、きっとご無事でいてください……)


 わたくしの最後の記憶には、庭園の反対側で必死にわたくしと公子様に呼びかける妃殿下のお姿。すぐにお返事をしようとして、後ろから衝撃を受けました。


 あの後どうなったのか、使用人には妃殿下が神族という異種族であったという事実以外には何も知らされていません。


 母国のエリスモルトでも、神族が恐ろしい怪物であるとか、人食いであるとか言う伝承は知られていますが、妃殿下と恐れ多くも親しくお話させていただく中で、その様なものは迷信だと今でははっきりと分かっているつもりです。


 確かに妃殿下は人族を超越したお力を有しているとは思いますが、それ以上にお優しく、善良な方なのです。


 その点では城で働く者達は皆意見を同じくしており、発表された当初こそ多少の戸惑いはあったものの、今ではほとんどの使用人達が妃殿下の安否を気遣い、無事の帰還を願っているのです。


「ははうえは、レイが、きらいに、なったのかな」


 物思いに沈んでいたわたくしに、公子様が悲しそうに涙声で尋ねられました。


「まあ。どうしてそのようなこと……」


「だって、レイは、おるすばんなのに、いつもの、おてまみも、ないもの」


 公子様の途切れ途切れのお声はとても小さく、涙で震えていました。


 俯いた紫の瞳からは大きな涙の粒がぽとぽとと溢れて小さな膝に零れ落ちています。


 以前の妃殿下は公子様となかなか会う時間の取れない時には、いつも可愛らしい絵のついた短いお手紙をわたくしに言付けてくださいました。


 でも今回はそれもなく長くお出かけになったことを、公子様は不安に思っているのでしょう。


 わたくしは思わず言葉に詰まりました。


 事件の後、大公閣下も長く臥せっておられたので、腹心のジルベール様も大変お忙しく、公子様への様々な配慮は医師とわたくしに一任されておりました。


 大公閣下の復帰後も、夜の遅い時間に公子様の寝顔を見にいらしていただく事がほとんどでしたので、公子様は大変お寂しい思いをされています。


 家庭教師の授業以外で、言葉を交わすのは医師とわたくしや使用人達のみ。皆お寂しそうな公子様には同情的ですが、立場上弁えた会話しか出来ません。


 わたくしだけは、人のいないところではレイモンド様となるべくお名前で呼びかけるようにしていますが、それだけでは御心が晴れないご様子で、日に日に口数も減ってきてしまいました。


 幼い公子様には、近くで確かな愛情を伝えてくださるご両親が、何よりも必要なのでしょう。最初は理解していなかった主人と臣下の関係も、ご家族や両親という関係も、今ではうっすらとご承知であるように思います。


「そのように泣き虫でどうするのだ、レイモンド」


 突然背後から、大公閣下のお声がしました。


 最近公子様の私室にいらっしゃる時はいつも深夜の時間帯なので、全く予想しておりませんでした。わたくしも他の者も驚き慌てて顔を伏せて下がります。


「ちーうえ!」


 公子様は伏せていたお顔を勢いよく上げて、テーブルの方に近づく閣下を目をまん丸にして見ています。


「おけが、なおったの?もう、いたくない?」


「うむ、会いに来るのが遅くなって悪かった」


 少し高い椅子から飛び降りるようにして、公子様が大公閣下に駆け寄り、両腕を上に伸ばしました。先ほどまで涙をこぼしていたので、大きな瞳と小さなお鼻は赤みを帯びています。


「……」


 大公閣下は、腕を伸ばして自分を見上げる公子様の前でしばらく動かずにいらっしゃいます。


 こんな時、いつも妃殿下が閣下に抱き上げてくださるように促されておりましたが、わたくしからは何も言えず、他の者たちも成り行きを見守るしかありません。


 ですが、ハッとした様子で大公閣下は公子様を軽々と抱き上げると片腕で支え、その顔を覗き込みました。


「誰もお前を嫌いになどなるものか。お前の母も、きっとお前に会いたくて、すぐに戻ってくるだろう」


 閣下のお言葉に嬉しそうにはにかむと、公子様はその首筋にしっかりと抱きついて、頬を擦り寄せました。小さい手が大公様の肩章をギュッと握っています。


 その様子に、わたくし始め侍従や傍付きはほっと胸を撫で下ろしました。これできっと、少しは元気を出してくださるはずです。


「わかった!レイ、これからとってもいいこにして、はやくははうえがきてくれるようにする」


「ああ。沢山食べて、よく眠りなさい。それと魔法の練習もしっかりやるのだ」


「はい!わかりました!」


 大公閣下のお言葉だけで、あっという間にいつもの元気を取り戻していらっしゃる様子に胸が温まります。本当にあの時、この大公国に留まれた事は幸運だったと心から思います。


「ちちうえ!これね、レイの!」


 公子様は、跳ねるようにお部屋を駆け回ると、ご自分の玩具を閣下に見せては、どのように遊ぶのか説明をしているようです。小さな宝剣の様な玩具には大公閣下も興味を示され侍従を呼んで何か話されています。


 そうしてしばらく公子様と過ごされてから閣下は執務に戻られました。公子様付きの者たちには異変があれば遠慮なく報告するようにとのご指示もなされました。


 後日閣下から子供向けの美しい木剣のような玩具が贈られて、今はそれで遊ぶのが公子様の一番のお気に入りです。先日から騎士団の訓練の見学も許可されました。


「けんをもて!そうだ、これをこう!」


 毎日すっかりご機嫌になられて、しきりに閣下の真似をされてはわたくしたちに格好をつけて木剣を振って見せるので、そのお姿が大変可愛らしく、使用人たちにも笑顔が拡がります。


「けんしたるもの!ちゅよくあれ!」


 妃殿下の長い不在が、今でもその御心を苦しめている事とは思いますが、時々大公閣下と面会されるようになってからは、気丈に振る舞うようになられました。


 それでも毎日お眠りになる前に、必ず妃殿下の事をわたくしにお尋ねになられます。


「ははうえ、あしたはあえるかな」


「そうですね、明日かもしれませんし、もう少し後かもしれません。お早いお戻りを今日も女神様にお願いしておきましょう」


 毎日わたくしと一緒に祈りを捧げて眠られる公子様。

 その必死なご様子の小さな横顔に胸が痛みます。


 願わくば、一日も早い妃殿下のお帰りを。

 どうか女神様に公子様のお願いが届きますように。

 

 

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