第五話 大公国
目が覚めると、魔力はだいぶ戻っていた。
回復が驚くほど速いのも、ルシルの長所だ。
天蓋付きの豪華なベッドに、すべすべでふわふわの寝具。広い室内にはほのかに爽やかで良い香りが漂っている。
身体を起こしたルシルはとりあえず、サイドテーブルの上の水差しから水をごくごくと飲んだ。
見知らぬ場所で目覚めたばかりで警戒心も何もあったものではない行動だが、頑丈な神族は多少の毒にはびくともしない。
人族や獣人族なら致死量でも、多少腹を壊す程度なのだ。そんなものなら、恐れるだけ無駄だと思っている。
(みたところ人族ばかりの集団だった)
一般的に神族や龍族はその容姿と豊富な魔力で他種族とは明らかに区別される。また龍族に限ってはその身体の一部にあるうろこ状の皮膚で、すぐにそれとわかる。
素性を隠そうとしない限り、どちらもその証を誇示するのが常だ。
救助に来てくれた軍隊の様な集団には、どちらの気配も全くなかった。
転移前自分を襲った刺客は、恐らく龍族。少なくともここにその気配はない。
ほんの少しだけ緊張を解いて、周囲を見回す。
(たぶん、あの大公様とかいう男性の屋敷よね……)
さっと魔力を耳に集めて、屋敷内の人々の会話を盗み聞くことにする。
『あの大公様に隠し子がいたなんてね!』
『あー!!口止めの制約魔法さえなかったら、いますぐ皆に話して回りたいわ』
『公子様付きか、奥様付きか、どちらかに選ばれれば、お給料が跳ね上がるらしいの!』
『でも公子様の乳母兼侍女のデボラ様?って方、なんだか陰気くさいのよね』
『お前たち!お喋りしてないでさっさと仕事に戻れ!』
男性の怒鳴り声に、思わず眉を顰めたルシルは、寝室に近づいてきている足音に意識を向けて、盗み聴きを中断した。
軽くドアをノックする音が響き、そっと入口の扉が開いた。
「お目覚めでしたか」
身体を起こしているルシルに気が付くと、デボラは慌てて扉を閉めた。
そのままベッドに走り寄ると、ほとんど床に伏せるようにして頭を下げた。
「まことに申し訳ありません、ルシル様」
床にうずくまるようにして謝罪するデボラに、ルシルは何と声をかけていいかわからない。
「命を助けていただいたにも関わらず、大変な勝手を致しました」
ルシルはひとつ大きな溜息をつくと、壁際の重そうな椅子を魔法で軽々とベッドのすぐ側に引き寄せた。
「ひとまず、私からの質問に答えてください」
恐る恐る顔を上げたデボラの目をのぞき込んで、頭の傷の後遺症がないのを確かめると、傍らの椅子を手で示して、彼女を座らせる。
「確認なんですが、ここは何という国ですか」
「ここはトーリ大公国。ラフロイグ帝国の北端に位置する国です」
「大公様というのは先ほどの男性ですね?」
「はい、恐れ多くも皇帝陛下の兄君であらせられ、このトーリ大公国を治められている方です。穏やかなご気性だそうで、巷でも名君と評判の……」
「うわああ、もう!」
(皇帝陛下とか大公とか、やっぱり名前も知らない国だわ。貴族がいるって事は、あの時転移魔法に魔力を注ぎすぎたのね!海を越えて旧大陸にまで来てしまってるじゃない!)
突然頭をかかえてベッドに突っ伏したルシルに、慌ててデボラは再び頭を下げた。
「本当に申し訳ありません!」
「あ……ああ、そうね、えーとデボラさんの話は……まず、マリアンヌ様の身代わりを私にしてほしいって事ですか?」
「その通りです。大公様にはマリアンヌ様のご事情をお伝えしてありましたが、お二人に面識はなかったので、今はルシル様が本当のマリアンヌ様だと思っていらっしゃるかと」
「面識は……なかった?」
(え?じゃあレイモンド君は誰の子なの?)
「はい。エリスモルトという北部小国の第二王女殿下でいらしたマリアンヌ様は、先の併合時、皇帝陛下のお子を宿されたのですが、長らく母子ともに体調が優れず、これほどに後宮入りが遅れてしまったのです」
(皇帝陛下の……御子と、後宮入りする予定の……お、王女様??)
「ですが、昨今の後宮では、先に入宮してお子を授かった姫君たちが、互いに牽制しあっており、その皇子様方も数名、不審な死をとげているとか」
皇帝とか後宮とか、さらに皇子暗殺とは。
なんだかますます時代劇じみてきたな、と眉間に皺をよせるルシル。
「そこで、王都に向かう道中の警護と、後宮の詳しい情報を伺いたく、兼ねてより北部では賢君と評判の大公様に、密使を飛ばしてご助力を願ったのです」
「だいたいの事情は分かりました。でもマリアンヌ様は亡くなった。皇帝陛下の御子ともなると、恐らく大公家でも乳母は新たに雇われるでしょう。デボラさんは、お子様を大公様に託して、祖国に戻ることもできますよね?」
「わたくしは、自分の子を死産して、婚家から離縁された身。生家に戻る場所もなく……。それを王宮の乳母として召し上げてくださったマリアンヌ様には大恩があります。ご子息を放って、帰りたいとは思いません」
なるほど、と頷くルシル。まだ歳若いデボラだ、乳飲み子の実子が祖国にいるというわけではないなら、レイモンドに執着してしまう気持ちもあるのかもしれない。
「ご生母のいないレイモンド様は、今後大変なご苦労をなさるでしょう。あの時、ルシル様の巧みな魔法を目の当たりにして、ついこのような方が今後も後宮でご一緒ならと、詮無い夢を抱きました」
力なく肩を落とし、涙をこぼすデボラ。数時間前に本人も瀕死の状態だったのだから、混乱していて当たり前だ。その姿に、ルシルはほんの少し同情してしまう。
「そんな事情があったのですね。私もちょうど、最近の記憶をなくしてあの森をさまよっていたので、人里まで保護していただいて、助かったのもあるのです」
(記憶喪失としておこう。そもそも、新大陸から来たなんて言えない。テロイアとロトでは公式にはほとんど没交渉、不干渉のままだもの)
文化や魔工技術などに大きな差があるのは確かだった。部屋の中の内装は、テロイアではだいぶ旧式なものばかり。灯一つでも、魔動力のものではなく、魔石式か、もっと自然なものかもしれない。
ルシルは困った顔で、小刻みに震えながら涙を落とすデボラを見つめた。
「それでも、皇帝陛下の御子のご生母を騙った、なんて話になれば、私も無事ではいられません。すでに大公様には無礼を働いたことになるのかもしれませんが」
ひとまず、名君だとか、賢君だとか、穏やかな性格とか言われているらしい人でよかった。
貴族やら華族やらという身分制のある国の話は、ルシルにはあまりピンとこないが、魔動画で時代劇を見るのが好きだったことから、ある程度はボロを出さずにいられるだろう。
あれは事故後の混乱だったと言い訳して、許してもらえる雰囲気なのだろうか?
生来、楽天的なルシルは、内心ではそれほど深刻には捉えていなかったが、はらはらと涙を零し続けるデボラの沈痛な表情に、ほんの少しひや汗をかく。
「ルシル様にご迷惑とならない様に、大公様に全ては私の愚行だったとお許しを願いたいと思いますが……騎士団の方々の耳目のある所でしたので、どのような沙汰になるかはわたくしにも想像がつきません……」
「とりあえず、まずは謝ってみるしかなさそうですね……」
(いや、そもそも、ここの使用人の人達は、レイモンド君、じゃなくてレイモンド様を大公様の隠し子だと思ってるみたいなんですけど?)
あちらもこちらも誤解ばかりで、大混乱に陥っている気がする。ただ幸運なことに、デボラも含め周囲の人達はそもそもルシルが同じ人族だと思っているようだ。
「恐れながら、ルシル様はご記憶が定かではないとおっしゃいますが、少なくともどちらかの大貴族か、王族の方とお見受けいたします」
震える声で、遠慮がちに言うデボラを、ルシルはきょとんと見返した。
「大貴族か王族?」
「はい。私どものような小貴族程度の者には、あのような魔法は扱えませんし、瀕死の状態から人が回復する薬など、聞いたこともありません。この御恩をどうしてお返ししたらよいものか、考えも及びません」
あの特級ポーションは、ルシルの常識でも確かに珍しいものだ。
それを使ったのに、未だ戻らない顔色のデボラは、主を亡くした心痛やショックがよほど大きかったのだろう。
デボラは、自分の肩を抱くようにしながら、恐る恐るという様に付け加えた。
「それとルシル様は……そもそも御身に纏う魔力量が桁違いですので。そしてその、そのような膨大な魔力をあまりお隠しになられていないようですので……」
魔力を隠す?
ルシルは一瞬唖然としたが、慌てて考えを巡らせた。
確かにテロイアでは神族も龍族も今や自然に暮らしているから考えが及ばなかったが、ひと昔前は、他種族が強い魔力にあてられることがあるとか、脅威を感じるとかで、魔力の自然放出を抑えていたとか。
結局、強者の自由が優先されて他種族の方が工夫するようになったので、ルシルが生まれた頃にはそんな話があった、という事しか伝わっていない。
ルシルは焦った。
先ほどは総魔力量の下限にだいぶ近づいてはいたが、それでも人族の中では多い位という事もあり得る。それに今はだいぶ回復もしたので、他種族が傍に来れば何か影響があるかもしれない。
「デボラさんは今、私といて大丈夫ですか?」
顔色が悪いままなのは、そういうことだったのか。ルシルは慌てて魔力隠蔽の魔法をかけた。
今でも、気配を消すとき等にはあえて使われることがある魔法だが、これを常時発動するとなると、余剰魔力が残りすぎる。時々どこかで魔力を発散させないといけないだろうか。
「だいぶ楽になりました」
デボラが目に見えてほっとした顔になった。このまま大勢のいるだろう部屋の外に出ないでよかった。
「私は記憶がないので、その辺の常識が抜けているかもしれないのです。一緒にいる間だけでも良いので、デボラさんが気づいたことはその都度ご忠告下さるとありがたいです」
「かしこまりました」
「私の出自は置いておくとして、大公様には事情の説明をしないとですね」
「そのことですが……。やはり、レイモンド様の縁者として逗留されるのはいかがでしょうか。ルシル様のように目立つ方が単独で大公家に身を寄せられると、あらぬ誤解や憶測を招くこともございましょう」
ルシルは自分が目立つといわれてもピンとこないが、魔力隠蔽はしても、常識がないのでいろいろとごまかすのが大変そうだとは思う。
「そうですね……何か名目があった方が、私もお世話になりやすいかとは思いますが。ひとまずは大公様に相談してみます」
まずは謝って、私が王女様ではなく、記憶喪失の旅人だと伝えないと始まらない。そのあとで、テロイアに戻るめどがつくまでは、保護してもらわないとならないのだ。
そもそも、どうやってテロイアに戻ればいいのか。
何よりも、転移魔法で大陸間移動ができるなんて、聞いたことがない。
そこまでの長距離を移動できたという例が今までなかったからだ。
現に新天地を拓いた祖先達だって、想像を超える困難の中、地道に海を渡って新大陸に到達した、とされている。
今のルシルがもう一度挑戦してみても、失敗して大洋のど真ん中に落ち、魔物の餌食になるのが落ちだろう。
それが現行の転移魔法の常識である。
つまり逆に言うと、消えたルシルがまさか旧大陸ロトにいるとは、誰も思うまい。
急にますます不安になってきて、ルシルはまた俯いて頭を抱えた。
そして必死に、とんでもない距離を移動することになった事件当時を思い出す。