第四十七話 怒り
ルシルは混乱の中でレイモンドを連れ去った敵のやり方に、抑えきれない怒りを感じた。腹の底で、毎日増え続けた魔力が、マグマのように煮え立っている。
慌てて城内に探知魔法を拡げると、こちらに向かって来るレイモンドとデボラ、数名の騎士らしき気配の他に彼等と一緒に移動する強大な存在を感じる。
「ジャック、子供を人質に取られたかもしれない」
「君にとって大事な子なのか」
「そう。大切な子なの」
龍族のしつこい襲撃にお互いに背を預けて戦いながら、今の腹立たしい状況を伝える。眉を顰めたジャックが横顔で頷くのが見えた。
神族である事を暴露された今、もう魔力を隠蔽する意味もあまりない。ルシルは魔力隠蔽すらも解いて、この場に現れようとする最後の敵を待った。
離れたところに、フェリクスの剣を突きつけられて地面に倒れているダケット騎士団長が見える。二人は、その体勢で何事か話しているようだった。
レイモンドを抱いたデボラを囲むようにして数名の騎士が走り込んできた時、庭園にはすでに何人もの龍族が倒れており、しつこく向かってくる残党の数もだいぶ少なくなっていた。
「デボラ!こっちよ!」
ルシルはデボラの注意を引こうと声を上げた。
デボラは一緒に走り込んできた騎士達が、一斉にフェリクスと対峙するダケット騎士団長の方へ加勢に行くのを唖然として見ている。レイモンドを抱いて立ち尽くす彼女の傍には、ひときわ大柄な龍族の男が一人。
恐らくジャックと同じ位か、それ以上の体格だ。目眩ましのためか大公国騎士団の黒い隊服を着ている。暗い緑色の長髪にルビーのような赤色の瞳。ルシルとジャックを見ると、さっと纏っていた幻視の魔法を解いた。顔半分が鱗状の皮膚に覆われていて、恐らくそれが右半身全体に及んでいる。かなり純粋な上位の血族の者なのだろう。
ルシルも、恐らくカリンもジャックも、デボラたちの姿が見えた途端に彼等の周りに結界を張ろうとしたが、何かに干渉されて跳ね返された。ルシルはいつも纏わせているレイモンドの防御膜さえ、解除されていることに気付く。ここまで来る間に外側からの魔力の干渉を受け付けない魔道具をつけられたのかもしれない。
「デボラ!」
ルシルの焦った叫びに弾かれたようにこちらを見るデボラが、次の瞬間声もなく仰向けに倒れた。横にいた龍族が瞬時に彼女の背面に立ち、急所を突いたのだ。
「デボラ!!レイ!!」
「殺してはいない。今はまだ」
龍族の男はデボラの背に手を添えてゆっくりとその場に横たえると、その手からレイモンドを無造作に取り上げた。
レイモンドは、目を閉じていなかった。
ひたすらに大きな瞳を恐怖に見開いて、男の腕の中から、横たわるデボラをじっと見下ろしている。悲鳴も嗚咽も、ただの一言さえ漏らさずに。
レイモンドの閉じた心から漏れてきた恐怖と混乱の感情が、ルシルにほんの微かに伝わってきた。レイモンドの声にならない悲鳴が聞こえる気がして、ルシルの胸がギリギリと痛む。同時に目の前が真っ赤になる様な怒りの感情に襲われた。
「その子を放して」
地の底を這うような声でルシルが男に言った。
「こんばんは。初めてお会いしますね。私はゼド。ゼド・アイゼンバーグです。私の父のメイソンは今皇太后陛下と帝都にいるので、家長と揃って貴方にご挨拶出来ないのがとても残念です。ルシル・クロフォード嬢」
この場にそぐわない朗らかな声音で、ゼドはルシルに話しかけてきた。そしてこちらの貴族がする胸に手を当てた挨拶を、片手にレイモンドを抱えたまま、おどけたように大袈裟にしてみせる。
「その子を放して」
ルシルはさらに声を低めた。このままでは、あまりの怒りで心臓が張り裂けてしまう。
直後、無意識に怒りの感情と共に魔力が勢いよくとぐろを巻くように発散され、刃の様な形になって一直線にゼドに向かって伸びていく。それはほとんどルシルにも制御不能な放出だった。
いまやルシルの全身は激しい怒りに満ちており、その魔力が呼応して漏れ溢れ、嵐の様に猛り狂っている。ジャックもカリンもルシル本人から少し距離を取らないと呼吸がしにくい程の状態になっていた。
「おっと!皇子様に気をつけて。その怒りを少しコントロールして貰わないと」
ルシルの無意識の攻撃を結界で辛うじて避け、ゼドは飄々とした様子でレイモンドを己の身体の正面に抱き抱えると、ルシルに笑いかけた。
「レイは関係ないでしょう。私に用があるのなら、話は聞くわ。大公国の人達は解放して」
レイモンドはもちろん、デボラもフェリクスも、騎士団の人々と招待客全てを解放して貰えば、ルシルはこの龍族と、自分を連れていきたい場所まで地獄だろうがこの世の果てだろうが、どこまででも同行するつもりだ。
「ふむ。悪くない条件ですが。皇子様なしに貴方と二人きりになるのはちょっと。できれば魔石で魔力を吸収させて貰ってから交渉に移りたいですね、しばらく寝ていて貰えるなら尚ありがたい」
「ルシル。奴の言葉は信用するな。アイゼンバーグはこの国の人間を殺す様に権力者から指示を受けているかもしれない」
少し離れた所から囁いてくるジャックに、ルシルは軽く頷いた。渦巻く怒りの感情で、小さな動作もぎこちない。そしてレイモンドから全く目を離せない。
「レイモンドには手を出さないと約束するなら、要求に応じてもいいわ」
ルシルは1秒でも早く、この状況からレイモンドを遠ざけたかった。あの子は、こんな風に辛い経験ばかりして良いはずがない。もっと温かで優しい場所で憂いなく過ごさせたいのに。
この事がまたどれだけレイモンドの心を傷つけるかを考えると、嵐のような焦燥感に駆られる。
「閣下!!」
離れた場所で騎士団長が倒れたままフェリクスに叫ぶのが聞こえた。フェリクスはその声に振り返らず、倒れた騎士団員や龍族達を避け、ルシル達の方へ近づいた。
「お前は皇太后の手先なのか」
レイモンドを抱えたゼドに、凛とした姿勢と厳しい表情で問う。
そんなフェリクスを赤い吊り目で一瞥して、ゼドは嘲笑うように答えた。
「ハッ。我々にとっては皇太后もお前も同じ未開人である事に変わりはない。未開人の分際でルシル嬢を娶るとは分不相応にも程がある」
唾棄するかの様な声音で告げられた言葉に、ルシルは吐き気を催した。存在自体に上下があるというのなら、どちらが格上なのかは誰が見ても一目瞭然だ。ましてやこの男に、フェリクスとの関係をとやかく言われる筋合いは全くないはずだ。
「子供を人質に取るような痴れ者の方がよっぽど原始的で粗野な、低レベルの存在よ」
ルシルはありったけの嫌味を込めてゼドを睨みつけた。身体の中で抑えきれない怒りの感情が渦巻き、今にも爆発しそうになっている。
「そうだ。子供は関係ないだろう。まず乳母と子供はこちらに返して貰おう」
「ふん。私に話しかけるな。あの馬鹿な騎士団長は役に立たなかった様だな。お前はこちらの用が済んだら私が直々に処分してやろう。ありがたく思うがいい」
ルシルに正論で罵られた腹いせか、ゼドはフェリクスに向かって尊大な態度で顎を上げた。
「あの男、何故魔法攻撃を仕掛けないのかしら」
ルシルは淡々と龍族にも向かっていくフェリクスが心配で、やきもきしながらジャックに呟いた。恐らくフェリクスもレイも、ルシルにとって重要な事を理解していて利用価値があるとでも踏んでいるのだろうが。
「アイゼンバーグ家の族長は代々あまり魔力に恵まれないと聞いたことがある。結界魔法と同時に攻撃魔法を展開したくないのかもな」
つまり、近接戦闘以外は恐れるに、足らず。
まあ恐らく殴り合いでもあれに負ける気はしないが。
『カリン』
『分かってるぷ。ただアイツ、偉そうな口ぶりの割にビビりまくりでカチカチの結界を張ってるぷよ』
カリンの気配遮断は優秀だ。唯一この状況でレイモンドをあの男から安全に遠ざけられるのはカリンだけだ。
ルシルは今すぐにでも駆け寄って、あの男をぶちのめしてやりたい衝動に駆られる。
それでもレイモンドが意識を保っている以上、残酷な場面を見せないためにも、これ以上少しの恐怖も感じさせないためにも、カリンが隙を見てここから遠ざけるのを待つしか無かった。
『何か、アイツの意識を一瞬逸らせる事が出来れば、あの程度の結界ならなんとか破れると思うぷ……』
『分かった、合図するから準備して』
「ルシル、どうする」
ジャックが声を抑えて聞いてくる。ルシルは燻っている怒りの感情を持て余しながら、なんとか集中を取り戻して防音結界を張った。
「目に見えない精霊に手伝って貰うの。あの男から隙を見て子供を遠ざけて貰ったら、アイツを叩きのめす」
「手加減が難しいだろうが、殺さないようにな。あれでも連邦警察の重要参考人だろうから」
ジャックの言葉は正論だ。グッと歯を食いしばり、腹の底で煮え立つ感情を抑え込む。
「分かった」
ルシルはまた、頷くだけの動作にも違和感を感じる。怒りの感情でここまで自分は制御不能になるのか。濃厚なルシルの魔力が、不気味な塊となって周囲をうねるように循環している。誰も傍に近寄れないほどに。
ジャックは気遣わし気にしているが、何も言わない。
ルシルは、再び嫌な予感に苛まれた。
何か、自分の中でまた、おかしな事が起こっている様な気がする。けれど今はそんな事を言っていられる余裕もなかった。




