第四十三話 救助
静かに腰を落として接敵の瞬間を待つルシルの前に、森の木々をかき分けるようにして走り込んできたのは、新たな龍族の男だった。
柔らかそうな癖のある髪は、燃え立つ炎のように赤い。それを短く刈り込んで、小さい頭と長い首を顕にしている。身体にピタリと沿う装備の下の筋肉は彫刻のように美しく、締まった腰のベルトには連邦軍がよく使うサバイバルナイフが見える。
(軍関係者?)
ルシルに緊張が走った。
だが相手の漆黒の瞳に強い敵意は見えない。
(ただ、今までの二人より圧倒的に身体が大きい)
離れた場所に座り込んで震えている小柄な龍族の男と、倒れて意識のない男、そして臨戦体制のルシルを瞬時に捉えると、赤毛の男は慌てたように大きな両手を挙げて二人を庇うように立ち塞がった。
「待ってくれ、我々に敵意はない」
ルシルは油断なく相手の心音を確かめる。
「そう言って敵を油断させるのは常套手段でしょう」
相手の心音に大きな変化はなかった。嘘ではないらしい。
しかし転移を使えると思わしき龍族が目の前に三人。もしルシルに向けてでなくとも、大公国に対しての害意があるなら、見逃すわけにはいかない。
ルシルは両腕の力を抜くと、一層腰を落として斜めに構えた。ルシルの警戒に、赤毛の男は嘆息した。
「まあ、信じてもらえないだろうな」
座り込んでいた小柄な龍族は、こちらの隙をついて倒れた相棒に走り寄っているが、あえてルシルは放っておいた。今は新たにこの場に現れた男を警戒すべきと判断する。
「ルシル。俺のことを覚えていないか」
赤毛の男が突然ルシルの名を親しげに呼んだ。驚いてその顔を凝視する。
(龍族でそんな風に私を呼ぶほど親しい人はいないはず)
学園の数少ない顔見知りの顔が次々と思い浮かぶが、どれも当てはまらなかった。
ルシルでも見上げるほどの長身で肩幅がとても広く、逞しい両腕には、立派な鱗状の皮膚。いかにも正統派な龍族らしい身体つきをしている。
ただ、吊り目が特徴の龍族にしては優しげで穏やかな丸みを帯びた瞳には思慮深さが感じられる。赤の癖毛も彼の柔らかい印象を強めていて、無骨な龍族の中ではかなり目立つ容姿だ。
歳もそれほど離れていなそうで、一度見た事があれば確実に印象に残るはずなのに、全く思い出せない。
何よりもその深い漆黒の瞳が、ルシルの遠い記憶を刺激した。
(何?なんだかこの人のことを知っている気がする。でも思い出そうとすると……頭が痛む)
ルシルは急な頭痛と眩暈に襲われて、その場で少しふらついた。
「君は……多分記憶を封印されているんだ」
「記憶を封印?いったい何を言って」
「記憶だけじゃない、能力も……。今故郷を離れて、その封印が解けかかってるんだ」
頭を抱えて下を向くルシルの隙をついて、小柄な龍族が倒れた仲間と共に転移で逃げ出したのを感知したが、ルシルは対応できなかった。黒い瞳の龍族の言葉に酷く動揺している自分が情けない。
「わか……わからない。覚えがあるような気はするけど、今すぐには思い出せない」
低く構えたままこめかみを押さえて俯くルシルにカリンが心配そうに声をかけてくる。
『ルシル。大丈夫かぷ?念のため結界を張ったぷ』
『カリン』
『お前を動揺させるのが目的かと思ったけど、アイツ全然臭わないぷ』
『ありがと、それならもう少し話を聞いてみたい……この人の言っている事、何か私にとって大切な事のような気がするの』
「俺の名前はジェイコブだ。ジェイコブ・ルイガス。君は昔、俺をジャックと呼んでいた」
「ジャック……いえ、ルイガス?それって婚約の……?」
「ああ、そんな話もあったが、それよりずっと前の話だ……俺達が初めて会ったのは」
「ずっと前……子供の頃?」
「そう、君が8つの時、セントラル病院の研究病棟で」
「ジャック……ジャック……」
フラッシュバックのように何かの映像が頭をチラついてはすぐに消えて行ってしまう。今よりずっと幼い、黒い大きな瞳に赤い髪の男の子がルシルに何か言って笑いかけている。病室の白いカーテン。神族の魔力を吸う医療用の白い魔石。
「わからない」
酷くなる頭痛と苛立ちとでルシルは強く頭を振った。
自分のものではないはずの記憶が、次々と壊れた魔道画の様に流れてきて濁流のようになり、ルシルはその場に立っているのがやっとだった。このままでは危険だ。
無言になったルシルに、遠慮がちなジャックの声。
「龍族と言っても思惑はそれぞれだ。少なくとも我らルイガスは君に害意を持っていない。特に俺は、むしろ君の救出が任務なんだ」
「救出?」
「そうだ、この未開の地から君を救い出す為に来た」
何故かジャックの言葉に動揺する自分に驚く。
(ここから救い出す……そうだ、以前の私ならただそれだけを求めていたのに)
「あなた達はどうやってロトに渡ってきたの」
ましになってきた頭痛を振り払うようにして、ルシルは顔を上げ、ジャックを見つめた。
「……さっきの二人は、潜水艇を使ったらしい」
「潜水艇?」
「ああ、魔物の海域に関するある調査研究チームが極秘に開発した水中船のことだ。まだテロイアでも公開はされていない技術だ」
「……なるほど。貴方は違うの?」
「違う。あの二人は俺とは別ルートで以前から潜入していて、君の救出とは関係のない任務に就いている。彼等は表向きこの大陸の有力者に雇われているはずだ」
「それってまさか皇太后?つまり、あの二人は私に害意はなくても大公国に敵対する側かもしれないのね」
ルシルはジャックへの対応を優先して先程の二人を逃がしたことを後悔した。
「あの二人もルイガスの遠縁にあたるんだが、テロイア連邦警察の所属で、少し前から潜入捜査中なんだ」
「潜入捜査?」
「そう、だから君にも正体を明かせなかったんだろう。
今彼等は、この大陸の権力者に取り入って何か良からぬ事を企んでいるある龍族の族長を調べているらしい」
つまり、帝国中央とテロイアとの繋がりは、そのとある龍族の独断ということだったのか。そこに連邦警察の捜査が入っている?
「潜入捜査中は疑われる行動は出来ないはずだ。彼等も今は向こうの命令通りに動くしかないんだろう」
「つまりその潜入先の思惑通りに彼等が今夜何か起こしても、こちらも知らないふりで迎え撃つしかないのね」
難しい顔で考え込んでいるルシルに、ジャックが少し遠慮がちに話しかけてきた。
「それとは別に、君が襲撃にあって事故でロトに来てしまった事は、すでにテロイア連邦議会でも、連邦軍でも把握されてる」
ルシルは目を見開いて、ジャックを凝視した。こんな学生一人の行方不明が、連邦議会で把握されている?
驚きに固まっているルシルに少し困った顔をして、ジャックは乱暴に頭をかいた。
「うーん、驚くかもしれないが。実は君は少なくとも平凡な一学生などではなくて、テロイアにとっての重要人物なんだ」
「プッ、あ、ごめんなさい」
ルシルは悪いと思いながらも我慢できずに思わず吹き出してしまった。君は世界の重要人物なんだ、なんてまるで少年向け娯楽作品のセリフみたいで。
先程の緊張感は霧散して、二人の間にはもう弛緩した空気感が漂っている。
「重要人物って。ふふ。そんなわけないでしょう」
冗談にしても酷い発想だと苦笑するルシルの反応にますます困った顔をしてジャックは続けた。
「そりゃまあ……そんな反応になるよなあ。でもまあ、知らぬは本人ばかりなり、って話なんだけどさ」
「待って、その冗談はとりあえずおいといて、まず貴方は私をテロイアに連れ戻しに来てくれた、って?」
「そう、俺は君をここから救い出すのが唯一の任務で、この大陸には数日前に渡ってきたばかりだ」
(ここから救い出す、か)
ルシルは彼の言い回しにまた違和感を感じて、ロトに迷い込んだばかりであれば、泣いて喜んだはずの申し出にためらう自分を意識した。
たぶん、もう一時も離れたくない存在が、この大陸で出来てしまったから。
「君は……帰りたくないのか?」
突然投げかけられた疑問に驚くルシル。
まだ何も話していないのに、どうして?
驚くルシルに焦ったようにジャックが言う。
「いや、なんかそんな感じがして。学園長や友人達が凄く心配していたけど……」
「もちろん……テロイアで心配してくれてる皆には、私が元気にしている事はなんとか伝えたいと思っていたの。だから、貴方が来てくれてホッとした。ただ……」
「ただ……帰りたくない理由が出来た?」
真正面からそう問われると、素直に肯定できない自分が歯痒かった。なぜなら自分はまだ、その理由に当たる相手に何も伝えられていないから。
何も許されていないから。
ただ俯いて黙り込んだルシルに、ジャックは軽く溜息を吐いて、少し明るい声で続けた。
「まあ、別に救出任務に期限があるわけでもないし(俺が叱責を受ければ済むことだ)」
ルシルは柔軟に自分の気持ちに寄り添ってくれるジャックに不思議なほど親しみを感じて、もう一度顔を上げ、優しげな黒い瞳がふわりと微笑むのを見つめた。
「悪いけれど、少しだけ、待ってくれる?」
「もちろん。君の思うままに。俺はどこにいても、君をただ護るだけだ」
(良かった。連邦軍か連邦警察の関係者に見つけてもらえたならもう安心だわ。これで父や友達にもきっと連絡してもらえる。後は、私がちゃんとするだけ。結果がどうなろうと、まずは当たって砕けないといけない)
ルシルはロトに来て初めて、本当に心から安心して、ジャックに感謝の気持を込めて微笑んだ。




