第三十一話 密約 side 皇太后
「報告しなさい」
怜悧なアイスブルーの瞳を細めて、エリザベートは目の前で跪く臣下を見やった。
どいつもこいつも使えない。いまだに例の女を捕まえてくることさえできないのだから。
「は。砦の調査に向かわせた者が一名、暴走したあげくにあちらに捕虜として捕縛され……」
報告の途中で勢いよく扇子を投げられた臣下の男は、震えながら平伏した。
「まあまあ、皇太后陛下。お怒りをお鎮めください。下っ端の一人位押さえられたとて計画に影響はないでしょう。我々の真の目的は知られるはずもないのですから」
天高く聳え立つ様な豪華な玉座に手を添えて、エリザベートを宥める穏やかな声。
周囲のどの兵士より明らかに体格のいい、黄色みを帯びた鱗状の肌をその首に持つ、異種族の男だ。
エリザベートは苛立ちを冷たい微笑に押し込めて、玉座の横に立つその男に視線を向けた。
「アイゼンバーグ卿。わたくし達のお約束はそのように悠長にしておられて本当に果たされるものなのかしら」
普段は幻視魔法とやらで隠しているが、この男の不気味な正体を分かっているからこそ、エリザベートは極力穏やかに聞こえるように苦心して尋ねた。
「わたくしは北にいるあの男の処理をお願いしたはずよ。それとあれが匿っている我が息子の落とし胤も」
「勿論です陛下。彼の国の大公妃が、我々が探している女性本人だと確証が持てれば、我々の要求は彼女の身柄だけですから、付随する者は全て仰せのように」
「その割には手をこまねいているように見えるわね。確か、その女は一人でドラゴンを撃ち落としたとかなんとか。まさかそのデマを信じて、貴方がただけでは力不足だとでも言うつもり?」
「いいえ。我々に不可能はありません」
(はっ。随分尊大な態度ね。調査調査とこれだけ準備に時間をかけておいて、よく言うわ)
あくまでも余裕をみせる男に、それ以上の問答を続ける気も失せて、エリザベートは軽く腕を振って足元で震えている臣下を下がらせた。
(そもそもその女が大公国で目撃されたと報告があってから、どうも様子がおかしいわ)
確かにこの男は2年前、突然現れてすぐに、エリザベートの悲願だった先帝の暗殺を叶えてくれた。大切な我が子の為には、不必要なゴミだった先帝の始末がどうしても必要だった。
(少なくとももう今はあのゴミに我が子を殺される心配はなくなった)
気性が荒いくせに用心深く、隙のないあの男をあっという間に仕留めてみせて、それ以来まるで当然のように傍に侍るようになった不気味な容姿の男。
長年のしこりが取り除かれ、気を良くしたエリザベートは、男の望みのままに屋敷を与えて、帝国の賓客待遇と御用商会との通商権までくれてやった。
男は数人の部下を従えて少しばかりの商取引を行い、唯一欲しがる権利と言えばただ北方にある隔絶の山脈を時々秘密裏に調査したいと言うだけだった。
北に興味を持つなど異邦人の酔狂かと特に気にも止めなかったが、重要なのは今でも男がこの帝国に残り、エリザベートの個人的な命令で不要なゴミを排除するのに役立っていると言う点だ。
男の仕事は早く、的確で容赦がなかった。
エリザベートが望めば、理由も聞かずに従う。
だからこそ、何時でも望みのものはすぐに手に入ると思っていた。それなのに何故か今回は、時間がかかり過ぎている。
エリザベートは待たされるのが嫌いだ。
西の大国の妖精姫と呼ばれ、大切に育てられた自分がまさかこの野蛮な帝国の皇妃になるとは思わなかったが、今ではこの地位にも慣れてしまった。
この大陸中で手に入らないものはないし、エリザベートの存在を無視できる者などいない。全ては思いのまま。そう、だからきっと心配は要らない。
「それで今日は何を持っていらしたの」
仕方なく、男の持ってきた献上品をあらためることで少し苛ついた気分を落ち着けることにした。
「テロイアでも選りすぐりの魔道具と装飾品を追加でお持ちしました」
大陸中で手に入らないものはなくなったのだから、次は別の大陸の物を望めばいい。この男はエリザベートの気持ちを巧みに理解して動く事に長けている。
新大陸などという馬鹿げた話もこの男の献上品を見ればすぐにホラ話ではないと分かった。その全てが、今手元にある物よりもあまりに優れていたのだから。
次々と運び込まれる豪華な品々を満足気に眺めて、エリザベートは感嘆のため息をついた。
今身につけている美しい織りのドレスも、見たこともないほど美しくカットされた輝く装飾品も、この大陸で所有できるのは自分だけ。当然のことだ。
年齢を経ても尚美しさを求める自分に、若返りの為のあらゆる手段を与えてくれたのもこの男だ。彼の献上品の中には優秀な機能のポーションが数多くあり、それらはもちろん、皇家以外に卸すことを禁じた。
「これだけのものを保有する貴方がたですから、信用していないわけではないけれど、先ほどの件、何か問題があるのなら早めに聞かせておいてほしいの。あちらにいる協力者があまりに使えないのなら、すぐに交代させるわ」
「陛下。現状、隔絶の山脈の調査に少し手間取ってはおりますが、それが終わり次第すぐにでもご命令に着手しますので。いましばらくのご猶予を」
(はあ、結局また調査だ準備だ、いつになったら自分でその女を捕まえに行く気なのかしら。まさかあのゴミ皇帝よりも手強いなんて事もないでしょうに)
西の王族の特徴である黄金色の髪とアイスブルーの瞳を受け継いだ愛しい我が子も、今では立派に務めを果たしている。息子が時々作り出す小さな問題も、この男を使って簡単に排除できる。
(ふん、いいわ。待たせると言うならその間、精々わたくしの役に立ってもらいましょう)
エリザベートはまさに、この世の春を謳歌していた。
ただひとつ、いまだに叶えられない望みを除いては。
エリザベートはたった今装飾品の入った箱を運び込んだ侍従を見咎めて、再び眉を吊り上げた。
「私の宮に汚らわしい黒髪が入り込んでいるわ。すぐに処分なさい」
冷たい声音で命令するエリザベートに、侍従の一人が玉座に近づいて頭を垂れた。
「陛下、あの方は普段は皇帝陛下の近習で、後宮出身です。今日は、休みの者の代わりに手伝いに来ているだけですので、勝手に処分されては皇帝陛下から我々が罰せられてしまいます」
「わたくしの命が聞けないのなら、おまえも要らないわ。即刻この宮から立ち去りなさい」
苛立ったエリザベートが玉座から立ち上がった時、謁見室の表で扉番が慌てた声で叫ぶのが聞こえた。
「皇帝陛下がお越しになりました!!」
すぐに扉が開かれ、部屋の内部にいた者たちが一斉に礼をとった。エリザベートと横にいた男もすぐに玉座から降りて礼をとり、声を合わせる。
『帝国に登る太陽に拝謁いたします』
入ってきたのは黄金色の髪とアイスブルーの瞳がエリザベートによく似た、妖精のように甘い雰囲気の美しい青年。この国の現皇帝、アリオン・オステルマノフ・ラフロイグである。
「母上」
蕩けるような優しい笑顔と、細くても均整のとれたしなやかな身体つき。女性なら誰しもがうっとりと鑑賞したくなるような自慢の息子が、エリザベートの手を優しく取り、玉座へと再びエスコートする。
皇太后宮には二つの豪奢な玉座が置かれている。
隣り合ったその玉座に腰掛けると、アリオンは合図して、大勢いた侍従たちを下がらせた。その中に件の黒髪の男もいたが、エリザベートはもう見向きもしなかった。
「ああアリオン。わたくしの陛下。最近は忙しいと言って全然こちらの宮に来てくれなかったわね」
「執務が一段落したので本日やっと母上に会いに参りました」
上機嫌で息子の美しい顔を見つめ、ふと気がついたように檀下に控えるアイゼンバーグに声を掛ける。
「アイゼンバーグ卿、今日はもういいわ、献上品についての説明は後日また日を改めてちょうだい」
「御意。皇太后陛下、皇帝陛下、それでは御前を失礼致します」
静かに去って行く男を見送って、アリオンはその目に剣呑な光を一瞬宿した。
「母上、またあの男に会っていたのですか?」
「あら、彼はなかなか使い勝手のいい男よ。あなたの治世にもとても役立っているわ」
「その事は認めますが、帝国としてはあまり深入りしすぎないようにしたいのです」
「まあ。新大陸だなんて遠い国の異種族なのよ、そんなに恐れる事はないわ。この大洋が間に横たわっている限り、大軍で押し寄せてくることはないはずだもの」
「それは確かにそうですが……あの者は、早晩我が国に害をもたらす気がしてなりません」
「考えすぎではなくて?そんなことより、あなたはすぐにでも、西国の姫たちと顔合わせをしなくてはならないわね」
嬉しそうに話すエリザベートに、それ以上アリオンは何も言わない。いつものように優しく笑んで、難しい話はひとまずやめにしたようだ。
(この子も不憫だわ。あのゴミ男の残した異母弟達の世話までしていると聞くし、ストレスのせいであちこちで子種を落としてしまうのね)
エリザベートにとって、アリオンが作る子供は金髪で青い瞳でなくてはならなかった。それ以外は存在自体を認めるつもりはない。
そして子供の容姿は、アリオン自身にも、アリオンの治世にとっても大切な事だ。これは少し前に事故で亡くなったが、長年仕えてくれた巫女兼侍女が積年エリザベートに伝えてくれていた予言でもある。
「あなたは美人とみると見境がないと近習達を困らせていると聞いたわ。西国の姫達はそれはもう美人揃いだそうだから、これから大変ね」
「お戯れを。母上にそのような事を言いつけたのはいったい誰なんでしょう。あとで懲らしめないと」
母親似の妖精のように美しい顔に甘やかな笑顔を浮かべて少し顔をあからめている様は、いつ見ても完璧。
(この子の安泰な治世を守るためなら、何だってできる。そしてどんな危険だってこのわたくしが逆に利用してみせるわ)
息子に穏やかに笑いかけると、エリザベートは久々の親子の会話に戻った。