第二十七話 初夜
ルシルの部屋は、内々に婚約が発表されてからフェリクスの部屋の並びに移設されていた。
正確には、夫婦共用の主寝室を挟んで、隣り合うようになっている。
主寝室への扉には、どちらの部屋も内側から鍵がかけられる造りなので、特段問題はない。
自室で再びてんやわんやの身支度をされた後、ルシルは一人、主寝室の窓辺にある長椅子に腰掛けて、星空を見上げながら果実酒を飲んでいた。
(新婚初夜か……)
普段より若干薄手の夜着を着せられたが、テロイアの女性たちの感覚では慎み深い方だ。
生地は光沢のあるすべらかな美しい生成りのワンピースと揃いのガウンで、肌触りがとてもいい。ルシルは高級感のあるこの夜着がとても気に入ったので、できれば毎晩こちらにしてほしいと思う。
ぎゅうぎゅうに結い上げられていた髪もほどかれ、香油を使って何度もくしけずられて、湯上りの肌にさらさらと零れ落ちてきて、そのたび良い香りが立ちのぼる。
新婚だ初夜だと騒ぎ立てられるので多少その手の露出を心配したが、存外大人しいものだったので胸をなでおろした。紳士的なフェリクスとは、そういう部分で変にギクシャクしたくない。
(あんまり深く考えてなかったけれど、なんだか凄いことになってきちゃった……)
夜でももうそれほど気温が下がらない時期らしいが、暖炉には火が入れられて部屋はほんのりと暖かい。部屋の中央には重厚な天蓋が付いた巨大なベッドが置かれていて、なめらかなシーツには鮮やかな花弁が撒かれ、美しく彫刻された蝋燭がぼんやりと照らしている。
(確かにまるで、新婚旅行先の高級なクラッシックホテルみたい)
きっと一生縁がないだろうと諦めていたような事態に、今自分が直面していると思うと、なんだか可笑しくなってくる。照れくさいのと珍しいのとで、いますぐあの花弁の海に飛び込んでみたいが、それはさすがにフェリクスが来た時に気まずいので出来ないでいる。
ちらりと再びベッドを見た後、暴れたい衝動を散らして、果実酒を飲み干した。
その時、軽いノックの音と共に、フェリクスが現れた。ルシルとお揃いの生地で作られたガウンと下履きのみの姿で。ルシルは思わず、厚い絨毯の上にぽとりとグラスを取り落とし、飲み干しておいてよかったと頭の隅で考えた。
「フェ、フェリクス様、お、お疲れさまでございました」
挙動不審になりながらも、できるだけ顔を伏せてグラスを拾い、心を落ち着ける。あの生地の夜着は、男性用になると露出がだいぶ激しいようだ。困ったことに。
「君も今日は疲れただろう。ご苦労だった」
ねぎらいの挨拶を交わした後、二人の間には、なんとなく沈黙が流れる。
(まあ、当然気まずいわよね。ガチガチの契約婚なのに、初夜のふりなんて)
久々に居心地の悪い沈黙を破って、ルシルはできるだけ快活に声をあげた。
「こちらに果実酒と蒸留酒の用意があります。それから軽食も」
「ああ、そうか。少し貰おう」
フェリクスの低く柔らかな声に、緊張していた気持ちが少し緩む。動揺しているルシルとは違い、落ち着いている様子だ。
(そりゃそうか。私なんかとじゃそういう雰囲気になるわけないんだから。本当に馬鹿ね、ルシル)
ルシルは軍立学園時代から、演習や合宿などでは同期と雑魚寝も全くいとわなかった。そもそも女性扱いを受けたことがないのだ。
だから、男性と同室だとかで騒ぎ立てるような女性らしさはないのだが、実際こうしてフェリクスと二人きりになると、どうにも変に落ち着かない気分になっていた。
そしてそんな自分が少し恥ずかしく、目の前の普段通りのフェリクスの顔を見ていたら、何故か気分が落ち込んで胸がチクチク痛んだ。
「君には明日から、専属侍女と、護衛騎士の選定に入ってもらうつもりだ」
「あ、はい。ジルベール様から聞きました。私はこれまで通りで誰でも、交代とかで構わないのですが。いろいろな方と話せて楽しいですし」
「まあこれも慣例でな。面倒だろうがこちらである程度絞った者から指さす程度でいい」
「はい…。あ、それとレイと私の教育係の選定もありましたね」
「ああ、そちらの人選はジルが慎重に身辺調査をしているから、もう少し時間がかかるだろう。君も魔法関連の授業に同席したいとのことだからなおさらだな」
「こちらの魔法教育に興味があるので。他にも自分が学ばなければならないことが多いのに我儘を言ってすみません」
「いや、君の授業はこちらの慣例や礼節などは最小限でいいと言ってあるから、興味のあるものを中心に学べばいい。それと、隔絶の森の調査団にも明日以降は同行許可を出してある」
「はい!ありがとうございます」
スタンピード後の森への調査は続けられており、あれからしばらくの間、魔物の反応はほとんどないと報告されたので、ルシルも晴れて調査団に同行できると聞かされていた。
毎日早朝と夕刻に少人数で行われているため、いつでも参加可能ということらしい。あの後も騎士団とは幾度か顔を合わせていたので知り合いも増えたし、きっとルシルの行きたい場所なども融通をきかせてくれるだろう。少しは単独行動も期待できるかも。
少し沈んでいた気分はあっという間に復活して、ルシルは月明かりに蒸留酒を傾けるフェリクスを見つめた。
「あ、そういえばジルベール様から、フェリクス様の事は、二人の時はフェルと呼んではどうかと提案されたのですが」
「ごほっ」
強い酒にむせているフェリクスに、慌てて水を差し出すルシル。
確かあまりお酒に強い方じゃないのに、どうして蒸留酒を選んだのかしら。
「二人の時と言っても、仲睦まじさを演出するために、専属侍女や護衛のいる前でという意味だと思うのですけど」
「そ、そうか。まあ夫婦仲の良さを見せておくのは悪くないな。使用人たちはいくら諫めても、主の噂話をしたがるものだから」
「私の事はこれまで通りルシルと。愛称は、ルーとかルシとかありますけどなんだか変ですよね。可愛すぎて私にはちょっと」
「い、いや。可愛らしくて似合っていると思うが。ルーというのも」
「えっ!」
「え?」
ルシルは驚いた顔でフェリクスを見つめ、みるみる顔が赤くなるのを止められなかった。
(可愛らしくて!!可愛らしくて?誰が?私か)
この人は時々本当に訳が分からないほどルシルに普通の女性のように接してくる。また貴族流の社交辞令かもしれないが、可愛らしいとか、大人になってからは誰にも言われた事がないかもしれない。
「うむ、それではこれからはルーと呼ぶことにしよう。君はフェ、フェルと」
フェリクスはなぜかさらに果実酒も一気に飲み干して、ますます酔いが回るのでは、とルシルが不安を感じていると、案の定少し暑くなったのか、はだけたガウンの首元をさらに緩めて、さらさらと零れ落ちる前髪をかきあげながら、ふうと溜息をついている。
これではまるで魔道動画の広告映像のようだと、さっきまでの謎の緊張感を通り越してもはや感心してしまう。
こういう類の広告映像に大枚をはたいて集めている女性もいると聞くが、ルシルは全く興味を持てなかったのだ。
それでも確かに、ここに音楽を付け足して切り取っておけば、いつでもこの光景を見られるのは、それなりに価値がありそうだと初めて思った。
蝋燭と暖炉の明かりだけの部屋の大きな窓辺に月明かりがうっすらとさして、フェリクスの端正な身体に奇麗な陰影を作っている。
ルシルは一人でドギマギする自分がまた恥ずかしくなって、慌ててフェリクスから目をそらして立ち上がった。
「フェル、暑かったら暖炉の火を弱めますか」
思い切って呼んでみた愛称に、びくっとこちらを見たフェリクスは、そのまま破顔した。ゆっくりと首を振って、また前髪をかきあげる。
「いや、大丈夫だ。ルーが寒くなるといけない」
ふふ、と思わずお互いのぎこちなさを笑ってしまう。
ルシルは体表の寒さや暑さを調節できるが、そんな風に気遣われるのは悪くない心地だった。
なぜか酒を飲んだ時のように、お腹の底が温かくなった気がした。
「ベッドは、使ったように見せる為に少し乱しておかないとな。私はこれで自室に戻るが、ルーはこのままここを使っても構わないし、部屋に戻っても問題ない」
「はい!それなら、この綺麗なベッド、折角なので少し使わせてもらいたいです」
「そ、そうか。部屋にはこちらからも鍵をかけるので安心して使うといい」
「?はい。鍵はどちらでも。私も気が済んだら部屋に戻りますので」
「分かった。それでは今日はこれで失礼する。いい夢を」
「おやすみなさいませ」
小さく微笑むルシルに、真面目な表情でひとつ頷くと、フェリクスは自室に戻っていった。やっぱり少しはまだ緊張していたのか、一人になると急にホッとする。
そしてルシルはおもむろに、花弁の散ったベッドを振り向いて、にんまりと笑った。
直後、軽くジャンプして寝具の真ん中に飛び込んだ。
「きゃははは」
花の香りに包まれて、綺麗に整えられていた寝具と柔らかな花弁が身体に纏わりつくのを感じる。
そのまま長い手足を泳ぐようにジタバタと動かすと、すべすべのシーツに面白いように皺が寄った。『くふふふふふ』とくぐもった笑い声を出しながら、ルシルはしばらくそのまま泳ぎ続けた。
(ルーだなんて!可愛らしいだって!きゃあああああ)
その時、反対の部屋のドアが再び開いて、朝食の時間には主寝室に戻るように伝えに来たフェリクスが、驚きのあまりに固まっていたことには全く気が付かないルシルだった。
しばらく瞠目していたフェリクスは、静かにもう一度自室の扉を閉めたのだった。
結婚式関連が続きましたが、次回最後にフェリクス視点で、明後日以降は通常の話に戻る予定です。




