第二十五話 感情と疑惑
その声にルシルも思わず肩を震わせて、部屋の入口に現れたフェリクスを騎士達の隙間から覗き見た。
煌びやかな婚礼衣装ではなく、すでにいつもの隊服を少し華やかにした程度の黒い装いに変わってはいるが、豪華でたっぷりとした黒いマントのドレープとその生地の上質な艶が普段とは違っていて、彼の凍えるほどの冷たい美貌に驚くほど映えている。
だがその表情はおよそ婚礼の日に新郎がみせるようなものではなかった。
周囲の気温が少し下がっているのは、フェリクスから漏れる氷の魔力のせいだろう。
「は!あっ、あ……た、大公閣下」
顔をゆがめて振り返ったオイゲンは、無意識に魔力の滲み出しているほどのフェリクスの怒りの形相に気おされて、少し後じさり、傍にいた帝国騎士の腕に取りすがった。
「こ、これは私としたことが、少し先走りすぎたようですな、そ、それでは大公閣下、妃殿下、今日のよき日にご尊顔を拝し光栄でございます、会場でまたのちほど」
辞去の意を示しても一向に収まらないフェリクスの迫力に、遠巻きにびくびくと部屋を出て行くオイゲンと騎士二人。一連の騒動を、ただ無言で見つめていたルシルは、思わず吹き出す。
「ぷっ、なんなのあれ」
小声で思わず突っ込んでしまう。両脇の騎士には聞こえたかもしれないが、まあいいか。
「ルシル」
公的な場では『公妃』と呼びかけることが慣例だが、思わずといったように、フェリクスがルシルを名前で呼んで、心配そうに近づく。
「閣下、治めていただきありがとうございます」
心配そうなフェリクスに、何でもないという風に微笑んで、ルシルはさっと敬礼して控えた騎士達を見回す。当然だが、全員顔は真っ青だ。
「恐らく、止める間もなく突入されたのかと思います。あのような事、まさか普通するとは思わないでしょう。あまり騎士達を厳しくとがめないでください」
フェリクスは不満気に、ぐっと歯を食いしばるようなしぐさで浅く頷くと、いつものように手で合図した。
さっとフェリクスに近づいて報告をする騎士一名を残し、その他の後続で部屋にあふれていた騎士達と、騒ぎを聞きつけて飛び込んできた使用人達がぞろぞろと出ていく。
「それで、奴はなんと」
「いえ、ほとんど何もおっしゃる前にフェリクス様がいらっしゃったので、私も一言も話していません、本当に助かりました」
二人きりになった室内で、フェリクスを誘ってもう一度ソファに座りなおすルシル。
長椅子に隣り合わせに座って、ルシルの結い上げた髪の後れ毛にそっと触れるフェリクス。
「この衣装もとても似合っているな。あのような輩にこの姿を見られたことが口惜しい」
ルシルは先程自分も同じことを考えていた事を思い出し、自分の顔が赤くなるのを感じた。
しかも、オイゲンへの憤慨を滲ませたままのフェリクスが、何故か無意識のようにルシルの後れ毛を掬い取ってキスをしてくるので、混乱は最高潮だ。
(こっ、これは何?これはあれか、あの、また別の貴族の挨拶だっけ!?でもなんか、凄く恥ずかしい!)
晩餐会用のドレスは、大公国騎士団の団旗に合わせて、全体をシックな黒でまとめている。フェリクスの礼服とも対になって、所々に金色の意匠がちりばめられている。
漆黒の光沢のある生地がぴったりと身体のラインを引き立たせる上半身と、腰で絞ってそのまま流したようなスカートは、ふんわりと裾が長い。ふんだんに透ける様な生地が重ねられ、歩く際にサラサラと揺れると、その上にあしらった黄金の刺繍が夜空に煌めく星の様に輝く。
ドレスの大きく開いた胸元には、フェリクスの瞳をそのまま映したような紫色の宝石のついた大ぶりの首飾りが付けられた。
そしてフェリクスの首元とマントを繋ぐチェーンの先には、ルシルの瞳の色のエメラルドグリーンの石が輝いている。こうして互いの色を纏うのも習わしなんだとか。
ルシルを見つめながらゆっくりとその髪を元に戻して撫でつけ、今度はルシルの黒いレース手袋の指先に口づけながら、なぜかフェリクスは困ったように眉を下げた。
「君があまりに美しすぎて、このまま夜空に消えてしまうのではないかと不安になる」
(ひえええ)
こういうぎょっとするようなセリフを、フェリクスは時々真面目な顔で言ってくるので、ルシルは対応に困るのだ。
確かに、時代劇の王侯貴族たちはそんな感じに遠回しな言葉を交わしていたような気もするが、ルシルには正解の答え方がさっぱりわからない。
ただ、男性に褒められ慣れていないルシルは、そのたびに顔が真っ赤になってしまうので、フェリクスは察してくれているのか、自分にも詩的な言葉を返してくれとは言ってこない。
「あの、そんなに、ほ、褒めていただいてありがとうございます」
なんだか今日は、とにかく調子が狂う。
いつもよりフェリクスの瞳が潤んで熱っぽく見えるせいか、まるで本当に愛を囁かれているかの様な変な気分になる。
おまけに透けるレースの手袋に口付けられると、生地の合間からフェリクスのしっとりとした柔らかな唇の感触が直接感じられて、心臓がうるさいほど跳ね回ってしまう。ルシルは慌てて脳内で、胸筋に効果的な筋力トレーニングメニューを組み立て、必死で冷静さを保とうとした。
胸筋を鍛えても跳ね回る心臓は抑えられないのだが。
こんなとき普通の女性はどんな風に答えるのか。
うまい言葉が思いつかない自分にがっかりする。
軽く頭を振ると急いで話題を変えるべく、ルシルは真剣な表情を取り繕った。半分はだいぶ照れ隠しだ。
「あの、フェリクス様。あのオイゲンという男、何が狙いだったのでしょうか」
「明確にはわからないが、おそらく皇太后の指示で、君の魔力量や出自を調べようとしたのかもしれない。まさかどこにも触れられてはいないだろうな?」
フェリクスの瞳が再び剣呑な色を宿してギラリと光る。その迫力にルシルは思わず苦笑して答えた。
「ええ、どこにも触れられてないので安心して下さい」
今度は眉を下げてルシルを見つめるフェリクス。
「会場でもなるべく奴には近寄らない方がいい」
「大公妃である女性でも、やはり帝国に連行される可能性があるということですか?」
「いや、表向きそれはない。だが、君という人物の調査次第では、秘密裏に攫ってこいという指示を出さないとも言い切れない」
「私を、秘密裏に、攫う……?」
ルシルは思わず呟いた。
ここに転移する結果になったあの日の襲撃を思い出したのだ。
しかし、主に人族ばかりのこのロトでは、神族に効果のある魔石も、麻酔系の睡眠毒も恐らく認知されていない。むしろ現存するのかさえ怪しい。
その状況で、神族であるルシルを狙うのは、かなり現実的ではない。でも当然、あちらはルシルを人族の貴族令嬢だと考えているので、そういう計画を練らないとは言い切れない。
ルシルは慣れない自分の立場に多少混乱しながらも、フェリクスをまっすぐに見返す。
「そういう計画なら、たぶん成功しないので大丈夫です」
ルシルの至極当然という態度に、フェリクスは思わず破願した。
ドラゴン戦の後から、ルシルはフェリクスにも隠すことなく騎士団の鍛錬に参加するようになった。軍立学園で学んでいた様々な体術なども、請われて時々指南したりしている。
「そうだな。帝国広しと言えど、まさか君ほどのドラゴンキラーをかどわかせる刺客もいまい」
「でも他の人達には、会場でどんな事を聞かれるんでしょうか……」
「会場に入ったら、あちらから身分ごとに祝辞を述べに来るのを、ただ座って頷いていればいい。今回招待に応じた近隣国の王族も、こちらにおもねる小国ばかりだからな」
「そういえば、レイモンドのご家族は」
「エリスモルトは今皇后の体調が悪いとかで欠席だ。レイモンドの件で国内がごたついているのだろう。こちらとしては皇帝と直接談判してもらう様に伝えてあるだけだ」
「そうですか」
「ただあの子は恐らくもうエリスモルトとの縁は切れたと思っていい、皇帝側からの話によればだがな。まあ、この先どうなるかはレイモンドの素質次第だろうが」
物思わしげに眉を寄せて、フェリクスは軽くため息をついた。すでにすっかり自分に懐いているレイモンドの行く末を心配し始めている様だ。
「晩餐会には連れてこれないのですね。きっと珍しい物ばかりで喜ぶでしょうに」
「子供は社交の場には出さないのが慣例だからな。このような茶番はさっさと切り上げて、あとでレイモンドの様子でも見に行こう」
「そうですね、パレードもあったし、あの子も今日は落ち着かないはずです」
フェリクスのその言葉に、ルシルは激しく同意する。
なんなら婚礼の儀式だけで、もういいじゃないか、と思っているのだ。
窮屈なドレスも、歩きにくいヒールも、ぎゅうぎゅうと結い上げた髪も、いますぐに全部取り払って、ベッドの上で四肢を伸ばして眠りたい。すでにもうその考えだけに、全身が埋め尽くされそうなほどになっている。
ただ貴族の慣習は面倒だが、これをやりきれば、晴れて隔絶の森の調査とゴリム砦の再訪を許可されている。ルシルは遠い目をして一人、頷いた。
もうひとふんばり、頑張るしかないのだ。




