第十五話 出立の前に
ルシルは、出立準備を進める騎士団と別れて、レイモンドとデボラに会いに来ていた。
晴れて大公夫妻の子供と認知されているレイモンドは、しばらく前からデボラと共に大公城の本館に移動している。
ルシルが来たことを告げられると、寝室の扉が開いたとたんに、勢いよく飛び出してくるレイモンド。
「はーうえ!」
寝室の続きの間の長椅子に腰掛けていたルシルに気が付くと、満面の笑みで両手を伸ばしてきた。
「レイ、いい子にしてた?」
ルシルは微笑んで、レイモンドを抱き上げると、あやすように揺さぶった。子供特有の体温の高さが、緊張して冷たくなっていたルシルの身体をじんわり温める。
「レイはお昼寝してたのね。母上が起こしちゃったわね」
「レイ、眠くない。はーうえと遊ぶの」
「ルシル様、先ほどお休みになる前に、レイモンド様が風の魔法を使われました。ほんの一瞬でしたが」
傍に控えるデボラが、興奮に少し震える声で言った。
「そう。どの程度の威力だった?」
「恐らく、初級程度かと」
「そうなのね。では、確認してみましょう。レイ、ここに座って」
ルシルは、ふわふわのマットの上にレイモンドを座らせると、少し背の高いテーブルを魔力で引き寄せ、兎のぬいぐるみをその上にのせて床に座ったままのレイモンドに尋ねた。
「はい、これでよし。じゃあ、レイ。あそこのうさちゃん、取れる?」
レイモンドは、不思議そうにルシルを見上げ、そして兎の方も見上げた。
ルシルは、レイモンドの横に座って、じっとレイモンドを見つめた。正確にはレイモンドの魔力の揺らぎを観察する。
遊び程度だった時は、ほんの少し揺らぐだけで、一人で物を動かすほどの風は起こせなかった。もし、物を動かせるほどの風を起こしたら、魔力発現とみなしていいだろう。
レイモンドは、兎をじっと見上げたまま、ぼんやりとしているようにも見える。いつもは、じっと見ていれば、周りにいる誰かが、縫いぐるみを取ってくれるからだろう。
しばらくしても、誰も動かないことに気が付いたのか、レイモンドは再び不思議そうにルシルを振り返った。そのまま、デボラも見る。そして壁際の使用人たちも。
「レイ、あのうさちゃんをとってみせて」
もう一度声をかけたルシルを不思議そうにじっと見た後で、レイモンドは片手を軽く上にあげた。すると、レイモンドの身体の周りの魔力が大きく揺らいだ。
ビュツと音がする程度の、一陣の風が吹き、テーブルの端に置いた兎のぬいぐるみが、コテンと転がり落ちて、下にいるレイモンドの足の上にふんわりと着地した。
「!!!」
誰も声を出さなかったが、静かに室内に衝撃が走った。
まだ三つの子が、魔力を発現したのだ。
これは、驚くべき奇跡だ。
「レイモンド様!!」
感極まったように、デボラがレイモンドに駆けよった。
凍り付いていた室内の空気も一気に弛緩する。
「公子様!!おめでとうございます」
「ルシル様、おめでとうございます!!」
口々に祝いの言葉を発する使用人たち。顔を赤くして、興奮している者も多い。
ルシルは兎を握ったままのレイモンドを抱き上げると、傍で声もなく涙を零しているデボラに笑いかけた。
「レイモンドは天才ね。この歳で魔力を発現するなんて」
「ルシル様のお力あってこそです。本当に、ありがとうございます。そして、おめでとうございます……レイモンド様」
デボラは、中央に戻されてからのレイモンドの行く末を心配し、少しでも早く、ルシルから魔法の手ほどきを受けられるようになってほしいと、日々、願っているようだった。
ルシルが、レイモンドには、もしかすると早めの魔法の発現があるかもしれないと言及してからはなおのことだ。それで、日頃から注意深く見守っていたのだろう。
この子にとっても、これからが本当の修練の始まりなのだが、ひとまずめでたい事である。
「すぐにフェリクス様に知らせましょう。でも、今はスタンピードの件で、すぐにお祝いをするわけにはいかないと思うわ」
「それでも、閣下もお喜びになると思います。すぐに知らせてまいります!」
慌ただしく数人の使用人たちが出ていく。ルシルは室内の興奮が少し収まるのを待って、長椅子に腰掛けると、レイモンドに語り掛けた。
「レイ。よくできたわね」
「レイ、びゅう、できるもん」
「ほんとね、びゅうって出来たら、どうするんだっけ」
「はーうえと、遊ぶの」
「そうよ、新しい遊び、教えてあげるって言ったものね」
ルシルの言葉に、にこにこして、ぎゅうと抱き着いてくるレイモンド。レイモンドを膝の上で抱きしめながら、ポンポンと背中を擦って、成功を労う。
魔力発現が確認出来たら、次は詠唱や魔法の基礎、実践的な魔力の行使を学ぶ事になる。
レイモンドはまだ幼いので、遊び感覚で、まずは魔力制御を覚えていくことになるだろう。
「ただ、父上と母上は、これから少しお出かけしなくちゃならないの。レイモンド、母上たちがお出かけから帰ってくるまで、一緒に遊ぶの、待っていてくれる?」
じっと黙っているレイモンドの、小さな顔を覗き込んでみると、なぜだか仏頂面で涙目になっていた。驚いて、もう一度小さな身体をゆすって名前を呼ぶと、
「だめ!!」
今までルシルといる時は、たいてい機嫌のよかったレイモンドが、突然身をのけぞらして、大きな声で泣き出した。デボラが、慌ててレイモンドを引き受けようと、傍に寄ってくる。
「おれかけ、やだ!!」
わあわあと泣き喚くレイモンドに、呆気にとられる大人たち。こんなに感情を爆発させることは、今までなかったと口々に心配する。
「もしかすると、馬車の事故の事を思い出しているのかもしれません」
デボラが、暴れるレイモンドをあやしながら、ルシルを神妙な顔で見つめた。
「馬車の旅のことを、おでかけ、と伝えていたので」
事故の事を、どれだけ本人が覚えているのか、理解しているのかはわからなかったが、衝撃的であったことは確かだ。デボラの腕の中で眠っているように見えたが、あの時どこまで意識があったのか。
そして、たった一人の知っている大人だったデボラが、息を引き取りそうだった時、この子は何を思っていたのだろう。
ルシルは、泣き叫ぶレイモンドを見ながら、胸が締め付けられるのを感じた。
子供だったから何もわからなかっただろうと周りは決めつけていたけれど、本当は、幼い心に恐ろしい記憶として、残ってしまったのかもしれない。
「レイ、ごめんね。母上も父上もすぐに帰ってくるから大丈夫よ」
デボラに抱かれたまま、ひきつけを起こしたように泣き止まないレイモンドの頭を優しくなでながら、ルシルは穏やかな声で言い聞かせた。
しかし内心は、穏やかではいられなかった。
これから『おでかけ』で向かうのはスタンピードが起きている隔絶の森だ。
ルシル自身は、それほどの脅威があるとは予想していないが、何があるかは蓋をあけてみないと分からない。
そして、ルシルは、本当に、ここに、帰ってくるのか。
砦の向こうの海岸線からなら、故郷に帰れるというめどがついたとしたら?
この子は、フェリクスとデボラ以外、寄る辺もなく。こんなに小さいうちに本当の家族からは切り離されて。嘘でも母だと言った自分も帰ってこなかったら。
それが記憶に残ってしまったら。
泣き止まないレイモンドの汗をかいた額を掌に魔力を送って軽く冷やしながら、答えの出ない自問を続ける。
そもそも私はこの子を置いたまま、故郷に帰りたいのか。
ここにある全てを捨てて、本当に戻りたいのか。
そこまで考えてみて、正直故郷にそれほどの未練があるとは言えない自分に愕然とする。
そう考えてしまうと、自分の足がどこの地にもついていない様な、不安な気持ちになった。
それでも。
学園長や同期の仲間たちは、入軍して立派な隊員になるという約束も果たさず、突然消えた自分を心配しているかもしれない。
父も。それなりに私を探してくれているのだろうか。
帰還が叶わなくても、せめて無事であるとだけでも知らせたい。
そして、ここで見つけた温かいものたちのこと。
知らせたら、父は、何というだろうか。
それでも帰って来いと、言うのだろうか。
ルシルは唇を噛んで、逡巡する想いを抱えながら胸の痛みに耐えていた。




