9.船に乗るのははじめて
早朝の海風の寒さに首に巻いた毛皮へと鼻までを埋める。気付いたラルフが風を遮る位置にさりげなく移動してくれたがあまり意味はなさそうだった。四方八方から吹く風に長い髪が煽られるので、耳まですっぽりと覆った帽子の上から、目深にフードを被せられてしまった。
目指しているのは港に止まっている小型の魔道船で、マストが3本立ち、自然の風力と魔石の動力で動く。スヴァール王国を拠点にしている商人の船で、近づけばフィリルも何度か会ったことのある、商売は下手だが気のいい商会長が船の上から手を振ってくれた。
隣国のドレケイユへは船で2日ほどだが、スヴァールの港にほとんど客船は止まらない。観光の時期は夏の短い間のみで、今は手配しないと船の出ない時期だった。フィリルの父が船を出す提案をしてくれたが、ちょうど貿易で出向するからと言う商会長の言葉に甘えることにした。
顔見知りの商会員が心配そうに見つめる中、船のタラップを登る。案内されたのは、積荷の上に2つ細かいネット状の布が渡された小さな部屋だ。恐らく船員の寝泊りする場所とは分けてくれたのだろうと礼を言った。
商会員が出て行くと、ラルフは渡された布に手を乗せ、強度を確認しながら鋭く舌を打った。
「お前、寝てる間に転げ落ちんなよ」
「この布って、眠るためのものなんですね」
転げ落ちるほどに不安定なものを船内で使用するだろうかと首を傾げつつハンモックへ触れるフィリルの言葉に、ラルフが舌を打つ。
「(すごく不安定そうだけど、乗れば安定するのかな)」
とりあえず乗ってみようと布に膝を乗せた途端、逃げるように布が揺れた。態勢を崩しかけたフィリルの腹にラルフの腕が伸び、強く抱き寄せられる。
「膝からいくな」
不安定な状態で動けなくなったフィリルを軽く持ち上げて降ろすと、ラルフは布の両端を持って広げてくれる。説明されるままに布へ腰を下ろせば、今度はハンモックが逃げることはなかった。
着こんでいた服を緩めて横になってみれば、すっぽりと布に身体が包み込まれた。波に揺れる船の動きに合わせてハンモックが揺れている。
「絶対に、ひとりで降りんじゃねぇぞ」
ラルフの指が頬を掠め、首に巻いた襟巻を緩めて離れていく。瞼を閉じ、寝不足と心地いい揺れに誘われるままに意識を手放した。
目が覚めたときには、すでに船は出向していた。停泊していたときとは違う水上を進む振動を感じながら身じろぐと、隣のハンモックに揺られて本を読んでいたラルフが「寝すぎ」と笑い、軽く態勢を起こした。
「(降りたいけど…、え、どうやって…)」
腰部分が深く沈む布の上で、身体が思うように動かない。助言を求めて見上げた青灰色の瞳は揶揄するように細まり、口の端が意地悪く持ちあがる。
「本当に降りれねぇの?」
あまり大きく動くと乗ろうとした時のように転がり落ちそうだともぞもぞと態勢を模索するフィリルを覗き込み、ラルフが揶揄うように頬を突いた。
「これ、どうやって…」
「乗ったときと逆」
スムーズにとはいかないが、なんとか床に足を降ろして立ち上がる。降りようとすると動くハンモックから立ち上がるのに、不安定な積荷の上でバランスを取るのが難しかった。
せっかくだからと甲板を覗くと、気付いた商会長が笑顔で手招いてくれた。この船には船員としてクラバウターマンが乗っているらしく、フィリルの腰ほどの背丈の妖精を紹介してくれた。
クラバウターマンは日に焼けた肌が浅黒く、腕の太い筋肉質な男だった。妖精特有の魔力の揺らぎが見えるが、外見はドワーフのようだ。船の無事を感謝し手を差し出せば、返された握手は力強かった。
北国の海は昼間でも黒く、10月の空は曇っていて風が強い。時期であれば大型の魔魚も見れるらしいが、冷たい海には生命の気配がない。
「夜は決して甲板に出ないでくださいね」と商会長に注意され、狭い船室に昼食と共に追い返されるように戻った。
「旅立ちの1日目から暇ですね」
着こんでいた上着を脱ぎ、積荷の木箱を椅子とテーブルにして昼食を食べた。冷える船内ではさっそく羊毛店で買った靴下と羽織が役に立っている。
2日ほどの船旅なので、スヴァールで仕入れたパンとお湯でふやかした乾燥野菜のスープに冷えた燻製肉という、船旅にしては豪華な昼食だった。
ラルフはパンを片手に持ち、器用にナイフで割って燻製肉を挟んだ。フィリルも真似てみるが、ナイフが上手く入らない。「手付きが怖い」とラルフにパンを取り上げられた。
「私たちって、兄弟に見えると思います?」
「どう考えても無理だろうな」
冷えた燻製肉がパンで中和されて美味しいなと思いながら、今後のふたりの設定が必要ではないかと提案した。
「普通に貴族と護衛でいいんじゃねぇの」
「微妙なんですよね。平民ってことにしたいです」
ポーチから1枚の紙を取り出して見せる。ふたりの身分を、スヴァールの公爵家で保証すると書かれている。国際身分証明書のようなものだが、フィリルの貴族の身分は明記されていなかった。
「貴族って名乗りながら歩き回るのはいい顔をされなくて…他国ですし外交問題に発展したら面倒です。不要な疑いもかけられそうですし…」
「首都で引籠ってたのもそれが理由か」
「それだけじゃないですけど…」
呆れ顔で溜息を吐き、サンドイッチの最後のひと口に放り込むラルフを見る。
「(護衛ではなく友人として接してほしいから、なんて。言ったら呆れるかな)」
どのみち旅が終われば、彼とは主従関係になるのだ。自国を護衛もなしに歩くことは出来ないが、今だけはまだ、この気軽な関係を続けて欲しいと思ってしまう。
「じゃあ魔法使いと護衛」
「16歳で入学する学院をこの歳で卒業してますって自慢して周れってことですか」
パンの量が足りなかったのだろう。ラルフがポーチから保存用の硬いパンを出してスープに浸す。いるかと差し出されたが首を横に振った。
「年齢誤魔化せば」
「いくつまでなら誤魔化せると思います?」
眉間に皺を寄せて少し考え、ラルフは指を1本立てた。年齢詐称の意味があまりない。
暇を持て余しながらもカードゲームをしたり読書をしながら、短い船旅は終わった。商会員に呼ばれて甲板に出ると、肉眼で見える距離に隣国ドレケイユの港があった。
何隻もの船が港に停泊し、陸地には働く人々の姿が見える。遠目に見えるのは、船着き場の側にオレンジ色の灯台が立ち、奥に行くに従って緩やかな緑の丘。港の奥には民家だろう、白い外壁に色とりどりの屋根の建物が不規則に並んでいる。美しい港町だった。
乗ってきた船の中で入国手続きを済ませ、気のいい商会長に案内されて宿へと向かった。この港町を訪れるのは船乗りがほとんどで、その場合は自分の船で寝泊りをする。観光客用の宿などなく、たまに来る旅人には空き家を貸しているのだという。
案内されたのは外壁が赤く塗られた小さな家だった。掃除はされており、備え付けのキッチン、食事用の椅子とテーブル、マットの入っていない木枠のみのベッドが用意されていた。
「この町を出るときに、鍵は役所のじいさんに渡してください。料金もその時に請求があると思います」
商会長は丁寧に挨拶をすると、夕食におすすめの店と役所の場所を書き記した地図を差し出し、お礼にと渡そうとした金貨を大げさに辞退しながら出ていった。
フィリルは簡素な室内を見回し、帽子を脱いでポーチへと仕舞った。室内は故郷ほどではないが肌寒い。室内は暗いが明かりの魔道具はなく、暖炉に火どころか薪も入っていなかった。
「どうしましょうか」
「寝床作っとけ」
非常に簡潔な指示に従い、フィリルは真新しい野営用の布団を木製のベッドフレームに敷いていった。
その間にラルフは薪を組み室内を温め、ランタンに明かりを灯し、簡単に夕食まで作ってみせた。
「君って料理上手だったんですね。このパンも作ったんですか?」
塩とハーブの効いた焼きたてのパンに炙った燻製肉、乾燥キノコとジャガイモのスープはスパイスが味に深みを出していて、短時間で作ったとは思えないくらいに美味しかった。
「普通だろ」
作った本人は無表情で食べているが、これなら騎士でなくて料理人として雇ってもよかったのではと思ってしまう。パンの作り方などフィリルは知らない。
「こういうのって、お母様に習ったんですか?」
「まぁ手伝いとかはしたけど。訓練で野営もあるし。腹が減ったら寮の調理場使って作んだよ、貴族と違って」
焼きたてのパンは故郷で食べていたものとは違う。表面も柔らかで、バターではなくオイルを使っているのか植物の香りが強い。
「ラルフのお母様にもいつかお会いしたいですね」
「公爵家子息とか恐れ多くて会いたくねぇっつてたけど」
「え?」
スープを運んでいた手を思わず止める。肉を切り分けるラルフに隠し事をしている気配はなく、彼にとってはあくまで世間話程度なのだろうと悟った。
「なに」
「いえ、お母様って、もしかして首都の近くに住んでいらしたのかと」
「そうだけど」
「ご挨拶をしておきたかったです」
ラルフは可笑しそうに笑い、切り分けた肉をナイフで器用にパンの皿に乗せてくれた。
「貴族来んのは父親だけで十分」
聞けば学院生時代も首都に滞在中も何度か実家には帰っていたようで、旅の話も一応しているという。
「その割り切った感じ、獣人特有の感覚ですか?」
「知らねぇけど、お前もんな家族とべったりじゃねぇだろ」
「私は君を紹介したじゃないですか…」
興味なさげに首を傾げるラルフは本当に気にした様子もない。獣人はスキンシップは多いが、まるで巣立ちのように成人を過ぎると家族とあまり会うことはないと聞いたことがあった。
「(外見の特徴がないのに、ラルフってすごく獣人っぽい)」
普通は外見の特徴が多いほど獣人特有の感覚がでると言われている。法律で規定はあるが、ほとんど特徴のない者は唯人と名乗ることも多い。ラルフも唯人として騎士学院の名簿に載っていた。
夕食の後は風呂を終え、早めに寝床に入った。「お前が落ちたらって思うと寝付けなかった」とラルフは眠そうにしていたので、すぐに聞こえた寝息に笑いながらもフィリルもいつの間にか意識が落ちていた。