2.旅の前にやることがある
彼らの暮らす国の名はスヴァール王国。12ある国の中で一番小さく、一番北にある平和な国だ。四方を海に囲まれた国の人口はわずか2万人。そのうち貴族は50人にも満たない。
フィリルは公爵家の末っ子で三男。上には歳の離れた兄が2人、姉が2人いる。
跡取りの長男、補佐をしている次男は共に優秀で、両親も危険な旅だと心配しつつも遊学がしたいと強請る末っ子を仕方がないと最終的には許した。
共に旅をするラルフと共に、フィリルは今スヴァールの首都に来ている。公爵家の領地から早朝に馬車を出し夕方には着く距離だと思えば、この国の小ささが分かる。
旅の物資の買い出しと王城での正式な挨拶を済ませるのがこの滞在の目的だ。
公爵家に勤める執事見習いが入念に検討した宿は、愛想のいい女将が取り仕切る小規模な宿だった。表通りに紋章のない馬車を止め、従者が荷物を運び込むのを確認したフィリルは水色の外壁に白で縁取りがされている可愛らしい建物を見上げる。
この宿は決して安宿ではない。裕福な商家や観光客を主なターゲットにした宿で、室内は清潔に整えられ、風呂は共用だが小さいが湯ぶねがあり、朝夕の食事もついてくる。
しかし貴族のフィリルにそんなことは分からない。2階建て木造の民家など、踏み入れたこともない場所だった。
「いい宿だな」
ラルフは瞳を輝かせるフィリルの後ろに静かに立ち、宿と従者を見つめて呟いた。
女将は2人部屋へと案内してくれた。温かみのある木製の壁に囲まれた部屋で、小さなベッドが2台と、真ん中に四角いテーブルと椅子がある。隅に置かれたソファはふんわりと中心が盛り上がり、座り心地が良さそうだった。
貴族かと不安そうに尋ねる女将のことは裕福な家の息子だと丸め込み、とりあえず一月分の宿泊料金を多めに支払った。
フィリルは好奇心を隠すことなく部屋を見回す。
小さな国とはいえ、フィリルは公爵家の息子だ。寮生活を余儀なくされる魔法学院でも生活の世話をする者が数人仕え、部屋には大人4人が寝ても余りあるベッドを設えた寝室とは別に小さな応接室があった。いかにも寝るための部屋、という簡素な作りが珍しい。
「(ベッドが小さい…たぶん寝相は悪くないと思うけど…)」
設えられたひとり用ベッドに触れる。赤みの強い木で作られたベッドフレームに、色鮮やかな羊毛の毛布と厚手の綿布団、枕がひとつ置かれている。
「(なんだが、懐かしい。たぶん前世のベッドも、こんな感じだったかな)」
フィリルには朧げに前世の記憶があった。
自覚したのは6歳の頃に馬車で出かけたときだ。「すごい揺れる。車があればいいのに」と思った瞬間、車の映像がぱっと脳裏に過ぎった。それまで忘れていた「車」という存在に衝撃を受けたが、その後は頻繁に前世を思い出すようになっていった。恐らくこの国より少し文明が発達していた。しかし何歳までの記憶があるのか、仕事はしていたかなど、思い出せないことはいくつもある。
数学等の一般教養のようなものは身体が覚えていたのか、特に前世を意識したことはなかったが、この知識のお陰でフィリルは「公爵家の天才児」として魔法の教育を早くから受け、通常16歳で入学が許される他国の魔法学院への留学を13歳で特別に許された。
ラルフが背負っていた布のバッグを下ろし、扉側のベッドへと腰を掛ける。フィリルも同様に、薄手のコートを脱いで壁にかけた。北にあるこの国は、8月でもそれほど気温は上がらない。空いたベッドの脇の窓からは、夕日が落ちた空に輝く月がよく見えた。
フィリルのベッドの足元には、大きな木箱が5つ置かれている。ラルフはその箱に眉を寄せたが、何も言わなかった。旅に出るのには些か大荷物なので、どうするのか疑問に思っているのだろう。
「夕食の前に、渡したいものがあります」
木箱に結ばれた木札を確認したフィリルが中身を取り出す。黒のウエストポーチとバックパックを備え付けのテーブルへ置いた。どちらも艶のある上等な皮で出来たものだ。
「これが君の分の鞄です。あと、これが登城用の服。時間がなかったので兄の若い頃のものですが、サイズを確認して欲しくて…。旅にでるなら必要かと思ってマントも」
木箱から次々と物資をだしていく。
煌びやかな衣装や靴がサイズ違いで数着。見た目は地味だが上位魔物の皮や魔法付与のされている布で出来ているマントを数枚。宿の寝具より寝心地のよさそうな野営用の寝具。新品の調理器具など。
「これ全部持っていくの」
どう考えても容量オーバーだろうと溜息を吐きながら、テーブルに置かれた鞄をラルフは持ち上げる。全ての物資をテーブルとベッドへと並べたフィリルは、達成感を胸に椅子へと腰を下ろした。
「これはナイショなんですけど」
フィリルは一度言葉を区切り、ラルフを真っすぐに見据えた。澄んだブルーグレーの瞳の奥に隠された何かを暴こうとでもいうように。
「秘密、守れそうですか?」
静かに微笑んだまま、小さく首を傾げてみせる。一瞬でも目線を逸らすようならば、この先は教えないと決めていた。ラルフは灰の瞳を微かに見開いたが、逸らすことなく「あぁ」と深く頷いた。
「(合格、かな)」
フィリルは元の穏やかな空気に戻すように髪を耳に掛け、にっこりと笑う。
「空間収納魔法は私が在学中に開発したものです。今は裕福な平民も使っているので、貴方も見たことがあると思います」
ラルフが頷いた。彼の持っていたものには付与されていないが、恐らく騎士団では使っているはずだ。
「”鞄”にしか付与できない、元の収納量の3倍程にしかならないという条件があるかと思いますが、本当はそんな条件はありません。あの木箱にも付与がされていますし、この鞄はほとんど無限に収納ができます」
整った指先が床に置かれた木箱を指し、机の上のポーチに視線を移した。
「一般の制限は、魔道具の登録時に私が付けました。理由は色々ありますが、もし小さな袋に無限に武器や物資を入れて持ち込まれ、戦争でも仕掛けられればこの国はあっという間に滅びそうですし…」
穏やかな口調で語られる秘密に、ラルフは眉間に皺を寄せて息を吐いた。
「わかった。で、このバックパックはカモフラージュ用ってことか」
「話が早くて助かります」
的確に意図を読み取ったラルフへ、喜びを隠すことなくフィリルは瞳を細めた。
「お前のその、ジャラジャラ付けてる装飾品にもなんかあんの」
「そうですね。ピアスとアンクレット、チョーカーは毒無効化と自動魔力障壁で、腕輪と指輪は魔法補助用です」
話しながら、右手の装飾品にフィリルは微量の魔力を流す。淡く複雑な色合いに光ったのをラルフへと示し、軽く手を振ったと同時に、部屋に置かれていた木箱がひとつを残して消えた。
「あ?」
説明しろと視線で訴えるラルフへ、フィリルは笑いを堪えて立てた人差し指を唇へ添える。
「これはまだ、秘密です」
残した木箱の中身は干し肉などの食料と回復薬なので、ラルフのウェストポーチへと中身を移し替えた。腑に落ちない顔をしつつも、彼は溜息ひとつで全てを諦め、食料係を引き受けてくれる。
その日の夕食は干したトマトのスープと鹿のような魔獣肉のグリルに、宿の主人が仕留めたアザラシの脂肪の刺身が少量振舞われた。
アザラシの刺身は高級品で、ラルフは味わうようにゆっくりと食べていた。
焼きたてのパンは表面がパリッとしていて、領地や学院の寮で食べるものよりも硬いが小麦の味が強く美味しかった。小さく千切って口に入れながら、近くのテーブルを拭いている女将に声をかける。
「このパンって、手作りですか?」
「そうだよ。夕飯は毎回焼きたてを出してるんだ」
「小麦は去年のものを?」
「そうだけど。…なにか気になるかい?」
台拭きを腰の紐に引っかけながら尋ねる女将に、フィリルは微笑む。
「いえ、とても美味しいな、と思いまして」
自慢のパンなのか、女将は「おかわりもあるよ」と笑いながら厨房へ戻っていった。
「硬いならスープに浸して食え」
ラルフがスープにパンを浸し、具と一緒に食べて見せる。真似をして食べれば、濃厚な干しトマトの味が染みて確かに美味しい。
「明日、狩りに行きましょうか」
「あ?別にいいけど」
フィリルがパンをひとつ食べ終わるまでの間に、カゴに盛られていたパンはすべてラルフの胃袋に収まった。
その夜、ラルフは着古した黒の衿のないシャツに緩い綿のズボンを履いて早々に布団へと入った。数分後に聞こえてきた健やかな寝息に、寝つきがいいなとフィリルは微笑む。
誰かと同じ部屋で眠るのは初めてだった。いつもは扉の前の護衛と不寝番の気配を感じながら眠るのだ。
部屋は外から入る月明りでぼんやりと明るく、隣のベッドで眠る彼の輪郭が微かに見える。夕方のラルフの様子を思い出しながら、瞼を閉じた。
「(利用してやろうという気配はなかった。秘密も守ってくれそうだし…)」
フィリルはラルフを完全には信用していない。それはお互い様だろう。
ずっと貴族社会で生きてきた彼にとって信頼する相手というものはなかなか得られないものだった。それを一度会って会話をしただけの相手に求めている自分が、すこし可笑しい。
「(悪い人ではないとおもうけど)」
家臣として家に忠誠を誓うのでもなく、研究仲間として共に利益を共有するのでもない。幼馴染の王子達との信頼関係はあるが、明らかな身分の差には越えられない壁がある。
例えるなら、物語で共に悪役を倒す旅の仲間のような友情の上に成り立つ信頼を、夢物語のようにフィリルはずっと求めていた。
「(学院では、できなかったけど。彼とは利害関係もはっきりしてるし)」
硬いベッドの上で何度も寝返りを打つ。時折頬に当たる毛布がごわごわして少し気になった。
「(利害とか、思ってる時点で、ダメなのかな…)」
長い馬車移動の疲れか、フィリルはそこで意識を手放した。訪れた眠りは心配していた程浅くはなく、翌日はラルフに布団を剥がれるまでぐっすりと眠った。