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10.ほら、髪が長いから

焼けるバターの香りに誘われるように目が覚めた。眠気を堪えようと頬を摺り寄せた枕は公爵家でよういしたものなので、以前泊まっていた宿の物より肌触りがいい。空腹を意識させるような香りを吸い込み、重い瞼を上げた。

「(ラルフがなにか作ってる…)」

カーテンの閉じられた窓から細く差し込む光は明るく、完全に陽は登っているのだろう。昨日の就寝時間から考えてまだ昼ではないはず、と考えながらガウンを羽織り、扉を開けた。

扉の先はすぐにダイニングがあり、ラルフが小さなキッチンのコンロに乗ったフライパンを覗き込んでいる。


「おはようございます」

小さなキッチンに似合わない長身の背に声をかけた。テーブルの上には新鮮な野菜をざっくりと切って混ぜたサラダと見たことのない中央に穴の開いたパンがすでに乗っていて、フォークが中央にふたつ、秩序もなく置かれていた。

「買い物に行ったんですか?誘ってくれてもよかったのに…」

目覚ましの正体、大きな白身魚のムニエルが浅い鍋に乗ったままテーブルに置かれた。バターと柑橘系のハーブの匂いが強く香り、腹が空腹を訴える。端がこんがりと焼けていて美味しそうだ。

「走って来たんだよ。港通ったら売ってた」

出かける前に火をつけてくれたのか、室内は暖炉が焚かれ暖かかった。ラルフは暑いのか半袖のシャツを1枚だけ羽織り、髪も濡れている。

「着替えてきますね」

ガウンの前を合わせて急いで洗面台に向かおうとすれば、「おい」と不機嫌な声に引き留められた。

「先に食えよ。冷める」

フィリルは思わず立ち止まり、椅子を引き鍋の中の魚に適当にナイフを入れるラルフの旋毛を見つめた。

「どした」

「いえ。朝食を、こんな恰好でというのは…」

ラルフは小さく舌を打ち、「あー」と低く呻いた。短い髪を掻き上げ、鋭い瞳がフィリルを捉える。

「ふたりの時はそれでいい」

「でも…」

「いい」

大きく切った切り身を皿に乗せ、フィリルの席へと置く。自身は鍋に乗ったままの切り身をフォークで切って食べながら、パンを齧った。

「すこし、いけないことをしているようですね」

テーブルの端に置かれていた空の水差しに魔法で水を入れ、コップに注ぐ。顔も洗わずに朝食の席に座るのも、寝間着のまま食べるのも、はじめての体験だった。

「ん、美味しいです」

ラルフの真似をしてナイフを使わずに小さく切って口に入れたムニエルは、近海の海で獲ったのだろう強い磯の香りと、臭み消しの香草がよく合ってとても美味しかった。




観光をしようと誘い、昨夜とは変わって人通りの多い港町を歩く。船で2日南に進んだだけなのに、母国に比べてずいぶんと気候が穏やかで暖かい。乗船時に着ていた厚手のコートをシャツの上に羽織っているだけなのに、歩いていると暑く感じた。


木製の家々の外壁は大半が白く塗られ、屋根はパステルカラーの赤や青、緑で彩られた美しい港町だった。オレンジ色の石畳を歩きながら、左右の建物を見回す。

宿屋のないこの町を訪れるのは顔なじみの商人ばかりで、観光客は滅多に来ないのだろう。住人はみなこちらを遠巻きに見ては、小声で囁き合っている。フィリルは開店準備中の小さな商店の店主に役場の場所を尋ね、鮮やかな緑で壁を塗った大きな建物がそれだと教えてもらった。


厚い木製の2重扉を開けて入れば、中は煌々と暖炉に火が焚かれて暖かかった。

受付だろう小さなカウンターは空だった。広めの空間には別々の場所から調和など考えずに持ち込まれたであろうイスとテーブルが並んでおり、早朝の仕事を終えた漁師が雑談を交わしていた。


職員はいないのだろうかと見回すフィリルに気付いたのか、漁師と話していた赤褐色の髪の小柄な老人が「あぁ、すみませんすみません」と足早に駆けてきた。

「はいはい、どうしなさった」

皺だらけの顔に人好きする笑顔を浮かべる老人に、フィリルも微笑む。


「イエティの方を紹介いただきたいと思って来ました」

「はい?」

「イエティです。北の氷の土地に住む」

「いやいや、それは分かってますよ。ただね、貴族のお嬢さんが行くような場所じゃないですよ」

老人は近くの席を勧めてくれた。雑談をしていた漁師が木のコップにお茶をいれて持ってきてくれる。


「あ、いえ男なんです」

「そうですかそうですか。でもね、宝石の類はないし、食事は肉を焼いただけみたいなのでね、ちょっと行って帰れるほど近くもなんですよ、あそこは」

「はい、わかっていますが、どうしても行きたくて」

「それはまた、どうしてか聞いても?」

老人がお茶をすすり、漁師が置いていった簡素なクッキーのようなものを食べる。フィリルもお茶をひと口飲んだ。

「氷河の洞窟に行きたいんです。オーロラの実と雪の華の花弁が欲しくて」


フィリルの言い分に、老人は短い髪をガシガシと掻いた。

「でもね、あそこは難易度は高くないっつても天然のダンジョンで、魔物も出るし。護衛の坊やがひとりじゃぁ厳しい。イエティは案内はしてくれても守っちゃくれない」

「私も戦えるので、そこは心配しないでください」

老人がフィリルの全身を見る。背凭れを使わずに椅子へと姿勢よく腰かけているが、戦える身体には到底見えない。音もなく木のコップを置いた白く傷のない手を取り、手のひらを検分するように眺めて溜息を吐いた。

「こんな柔い手で何言ってんだ。剣を握ったこともないんだろうに」

横で腕を組んでいたラルフが、床に置いていたバックパックをフィリルへと渡した。フィリルも溜息を吐いて、鞄からラピスラズリのマントを取り出して広げる。

「魔法使いなんです、私」


老人が目を見開いて、資格を示す刺繍とフィリルを見比べた。

「そっちの坊やは?」

「彼は護衛の騎士です」

ラルフが自身のポーチから、騎士の勲章を取り出した。老人はじっくりとそれを眺め、息を吐く。

「なるほど、そうかそうか。すごいね、お嬢さん、星3つの魔法使い様だ」

何度も頷きながら老人が目を閉じた。眠ってしまったのではないかと疑うほどの時間そうしていたが、やがて「わかった」と頷き立ち上がる。

「坊主、手合わせだ」

それ先ほどの人好きするものではなく、低く威圧感のある声だった。瞳は威嚇するようにラルフを睨む。ラルフは無言で立ち上がると、鞄から剣を出して腰へと挿した。


役場の裏手は広めの空地になっていた。普段から剣の稽古にも使われているのか、刀傷のついた丸太が数本立っている。鞘から抜いた剣を脇に下げ、老人とラルフが睨み合う。


「(すごい楽しそうな顔してる)」

騎士の訓練場で見たときよりも、威嚇の度合いが上がっているような気がする。野に放たれた肉食獣が、はじめての狩りに興奮を隠せていないような。鋭い咆哮が聞こえてきそうだった。


「来いよ坊主。お前に姫さん守れんのか、俺が試してやる」

老人は見たことのない波型の剣を片手で持ち、挑発するように指先を曲げた。

「(姫さんっていうのは、性別じゃなくて比喩なのかな)」

男だと伝えたのに、と苦笑する。周りでは室内からイスを持ってやってきた漁師達が口々に野次を飛ばしていた。



老人は強かった。斬りかかるラルフを波型の剣の凹凸を利用して簡単に往なしている。

体格は明らかにラルフの方がいいはずなのに、力を逃がすのがうまいのか、真っすぐに剣が入らない。時折態勢を崩したラルフに蹴りや拳を打ち込んでいるように見える。

「(うーん、ラルフの方が押されてる?正直よくわからない)」


フィリルは首を傾げながら吹いた冷たい風に身を震わせる。その時だった。

パン、と音がして、フィリルの自動魔法障壁が何かを弾いた。続いて、パン、カラン、と数本の短剣が地面に落ちる。

周りの漁師が何が起きたのか分からないとでも言いたげに口をぽかんと開けてフィリルの足元に落ちた短剣へと視線を移した。

「って、めぇ…っ」

ラルフの瞳の色が変わる。感情をすべて剥ぎ落したかのような静かな表情で、ロングソードを大きく振り、老人へと斬りかかった。老人が波型の剣を構える。


「ラルフ」

フィリルが静かに名を呼んだときには、老人の首元に突き立てられたダガーの先から、一筋の血が流れていた。


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