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過変態昆虫

作者: 泉田清

 ドアを開け外へ出る。鉛色の空と熱帯の澱んだ空気、梅雨である。いつになったら晴れるのか。

 駐車場へ出る。マイカーのタイヤに、赤と黒の斑模様の大きなガがへばりついていた。ガといっても翅がほとんどない。腹部がやたらと大きく長い。奇形だ。翅に栄養がいき渡らなかったとみえる。


 何という気色悪さ。このままでは轢き殺してしまう、というより、嫌悪感をもって払い落した。奇形のガは飛べない代わりに健脚らしい。意外なほどのすばやさで再びマイカーのタイヤによじ登った。ますます気色悪い。とはいえ、いくら払い落しても同じことが繰り返されるだけだ。見れば見るほど巨大な腹部、踏み潰したりなぞしたらどうなってしまうのか。

 部屋の奥から使わなくなった水槽を引っ張り出した。水槽に奇形ガを入れ、部屋に置き去りにし、いつものように出かけた。休みだからといってボサッとしてはいられない。独り暮らしは兎角忙しい。


 「ガって何を食べるんだ?」スーパーの野菜売り場で、トマトを手にしてふと思った。調べてみるとチョウと同じく花の蜜や花粉だとのこと。先日、アパート近くの山道で花の群生を見かけた。そこからいくらか失敬するか。

 梅雨空の下の山道は鬱屈としていて薄暗い。鬱蒼とした茂みから、突然、グロテスクなほど艶やかなヤマユリがこちらにむけて花弁を投げかける。これだ。マイカーを降り、近づいてみる。むせかえるほどの甘い香り。よく見ればあそこにもここにも、こちらに向かって大きな花を咲かせている。一株折って手に取る。見れば見るほどグロテスクな花弁を。


 甘い香りで満たされたマイカーで山道を下りる。気が付くと、愛する片思いの彼女、その娘の事を考えていた。

 彼女は同じ街に住んでいる。最後に彼女と会ったのは何年か前。近所のコンビニでだ。「あら、ひさしぶり」そう言った彼女と、隣にいた娘はソックリ同じ顔をしていた。きっと美人になるに違いない、そう確信したものだ。今では高校生くらいになっているか。

 彼女とは高校生のとき出会った。同じ部活に入り、三年間同じクラスだった。「腐れ縁てやつじゃない?」三年に進級し、同じクラスで顔を合わせた彼女は呆れて言った。口下手な私はあまりコミュニケ-ションをとれなかったが、それでも彼女は話しかけてくれた。私が彼女に寄せる思いなぞ、とっくに伝わっていただろう。私はこの好機を逸した。結局思いは伝えられなかったし、別々の大学に進学し、彼女は二十代で結婚、出産した。

 そうして私たちはお互い同じ街に住み、数年に一度は顔を合わせるようになった。私は未だ彼女を愛し続けている。もう永久に思いを伝えることは無いだろう。愛?こんなのが愛といえるだろうか?だとしたら、そうとう歪んだ愛だ。


 数日後。奇形ガは水槽でジッとしていた。時折ヤマユリの蜜を吸っているようではあるが、ほとんど動かない。狭い水槽の中を動き回っても仕方ないのだろう。

 スーパーへ行く前に、洗面所に立ち髭を剃る。鏡には童顔が映っている。「おまえ、全然変わらないな!」十年ぶりに再会した同級生が言った。「何かアイツに似てるな」とも言った。「アイツ」とは地元のプロスポーツ選手の名だ。私の顔はなぜか同性からの評価が高く、海外の俳優とか、ロックバンドのヴォーカルに似ているなどと言われたこともある。彼女の娘、は、あと数年もすれば成人女性になる。もしかしたらあるかもしれない、彼女の娘とのロマンスが。顎からもみあげにかけて剃刀の刃を滑らせる。頭頂部に目がいく。やはり、どうしても、童顔とはいえ、髪の生え際が後退していた。どの角度から眺めても誤魔化しようがなかった。ロマンスは直ちに終わりを迎えたのだった。。

 「あらあら、久しぶり」スーパーの駐車場で彼女に再び会った。2、3の言葉を交わす。隣にはやはり彼女の娘がいて、チラとこちらに目をやったあと、つまらなそうにしていた。「じゃあまたね」と彼女たちは車に乗り込み帰っていった。私は呆然とした。しばらく立ちすくみ、買い物もせずマイカーに戻りスーパーを去った。

 なんてことだ!彼女の娘はもちろん彼女ソックリである。が、何年か前には見られなかった、父親の面影が強く出ていた!グロテクスなほど動物的に。ヒトとは動物そのものだ。彼女と彼女の夫がドロドロに混ぜ合わさり、彼女の娘はこの世に生をうけた。当たり前の事実を今、ようやく理解したのだ・・・


 アパートに戻り、コンビニで買ってきた酒を全て飲み、泥のように眠った。その間、悪夢、というよりは悪夢のような感覚に陥った。明確なビジョンはない。彼女への、彼女への娘の思い、動物的なものへの嫌悪感、無能な自分への失望がわが身の内でドロドロと一体となり、熱病にうなされる。そんな一夜を過ごした。

 明け方目を覚ます。天窓が鉛色、そろそろ夜が明ける。体を起こしてしばらくぼんやりする。覚束ない目が水槽に止まった。入っているのはしおれたヤマユリだけである。いや、脱ぎ捨てた蛹のようなものはある。奇形ガは羽化した。奇形という過ぎた変態から、再び変態を繰り返し、ついに羽化に成功したのだ!


 奇形ガは、いつの間にか開けていた窓から飛び去ったようだ。私独りを取り残して。

 まあいい。それでも私は彼女を愛している。まだ時間はある。コップ一杯の水を飲み、彼女の名を口ずさみ、再び眠りに就いた。



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