王舎城の悲劇(7)
同じ頃マガダでは、国を挙げて戦勝を祝っていた。祝宴は幾日も続き、その最中にアジャータシャトル王は、ふと幽閉したビンビサーラ王のことを思い出した。
「父君は、まだ生きておられるか」
王は、牢獄の宮の番をしている者に問うた。
けれども、番人の答えは王の予想外のものであった。
「国の大夫人が、御身にいり麦粉を塗り、瓔珞に漿を盛って大王に捧げ、マウドガリヤーヤナ、プールナなどの仏の弟子達が来て、大王のために法を説いておりますので、どうすることも出来ません」
「なんと」
アジャータシャトルの顔が怒りのために赤く染まった。
「我が母といえども、国法に触れた賊と一つ所にいるならば国の賊である。また悪い出家達は呪術をもって、よくもこの悪王を長い間生かしておいたことだ」
と、彼は剣を抜いて、そば近くにいたヴァイデヒー夫人を斬ろうとした。
祝宴の席が、一瞬で凍りつく。
母后は立ち上がり、冷ややかな眼差しで我が子を見つめた。
そのとき、一の大臣であるチャンドラプラディーパ・バラモンと名医ジーヴァカ[耆婆]が進み出て、王を礼し云った。
「私達はヴェーダの経典の説くところによって、天地開けてこのかた、悪王が位を貪るために、その父を殺した者は一万八千人もあると聞いておりますが、しかし無道にも母を害ねたものは一人もありません。王がこの逆さ事をなさるならば、王族を汚すものと云わねばならず、私は聞くに忍びません。かかる業をなすものは悪魔です。ここに在るべき方ではありませぬ」
二人は剣に手をかけ、後足に退きながら言い切った。
群臣の中から、若いヴァッサカーラ(雨行)大臣が忠義顔で前へ出てきたが、チャンドラプラディーパに一睨みされると、その場に立ち竦んだ。
銀の髪と髭を美しく整えた老大臣には、マガダを大国にしたのはビンビサーラ王と自分であるという強烈な自負があった。
人々は老バラモンの威厳と気迫に圧倒された。身動きするものなどひとりもいない。
重苦しい雰囲気の中、アジャータシャトル王がジーヴァカに云った。
「汝は私のために力を尽くさないのか」
その声には驚きと怖れがあった。
ジーヴァカは、ビンビサーラ王によく似たその面を玉座の方へ向け、決意を秘めた静かな瞳でアジャータシャトルを見据えていた。
王より十五ほど年上の均整のとれた体躯をした宮廷医であったが、彼がアバヤ王子とマガダ国の娼女サーラヴァティーとの間に出来た子であるという事実は公然の秘密であった。腕のよい医師であり、叔父甥の間柄ということもあって、アジャータシャトルは幼い頃から彼に親しみ、深く信頼していた。
その王のすがるような想いを知りつつ、ジーヴァカが答える。
「母后を害い奉ってはなりませぬ」
「汝もか……」
アジャータシャトル王は、周囲のしらじらとした視線を感じた。誰もが心の中では二人と同じ事を思っていた。
「……私が悪かった」
王は剣を捨て、内官に命じて母后を後宮へ押し込めた。そして以後、チャンドラプラディーパ大臣とジーヴァカを遠ざけるようになった。
数日して、ジーヴァカは一の大臣が政務から退き、隠棲したことを知った。
彼が訪ねていくと、老バラモンは寝台に横たわっていた。
「いかがなされました。具合がお悪いのでしたら、すぐに私をお呼び下されば……」
「いや……」
チャンドラプラディーパは侍者の介助で半身を起こしながら、片手を振った。
「気が萎えただけのこと。先日の諫言が、王とこの国に私が出来る最後のことであったようだ」
「お心の弱いことを申されますな。貴方ほどの御方にはまだ、働いていただかねばなりませぬ」
「気休めを」
ふっと、チャンドラプラディーパが微笑む。
「そなたは、この老骨へさらに鞭打てというのか。自らの体は、自身がよく知っておる」
「それは……」
ジーヴァカが口ごもる。会話の間に大臣を診たところ、命の火が残り少ないことは明らかだった。
「アジャータシャトル王が即位されたとき、私も息子に職務を譲るべきであった。実際にそうした者達もいる。しかし臣達は、ビンビサーラ王が幽閉されるのを見て恐れ、口をつぐんでしまった。我が息子は凡庸で、直言などとうてい出来ぬ。それゆえ、職を退かずにおった。機があれば、大王をお救い出来るかもしれぬと思ったからの……」
チャンドラプラディーパは息をつき、陰鬱な表情で眼を閉じた。
「……だが、大臣の中で一番有能とも思い、かつての私とビンビサーラ王のような間柄を期待したヴァッサカーラは、若い王の意向を汲もうとするばかりで当てにならず、王の周囲にはディーヴァダッタとその輩が取り巻いておる。私の出る幕はなかった。ジーヴァカよ」
老大臣が再び眼を開けた。
「私は……我が君が亡くなるところなぞ、見たくない」
暗い絶望を湛えたその瞳に、ジーヴァカは言葉を失った。とっさに云うべきことが思い浮かばなかった。
「私が『我が君』とお呼びするのは、ビンビサーラ王のみ。ああ……私の生涯はいったい何であったのか。現王のような悪逆な者とディーヴァダッタのような愚か者のやつばらに専横を極めさせるため、この国を整え、富ませたのか……」
「いいえ、望みを失うのは早すぎます。世尊がおいでになられます」
大臣の嘆きに、ジーヴァカが云った。
「……そうであったな」
老人の精神に、灯が燈ったかのようだった。
「世尊は仰せられた、世は常ないものであると。この国のことは、すでに私の手を離れたのだ。あとは残された時間を、世尊の御教えに従い、念じながら過ごすとしよう」
チャンドラプラディーパ・バラモンの心が落ち着いてきたのを見て、ジーヴァカは邸を辞した。
「父と子か……」
王宮への帰路、馬上で揺られながら彼は自分の父のことを想った。
(世の中には老いた親を棄てる子もいれば、生まれたばかりの自分の子を棄てる親もいる。私も、棄てられた子であった。赤子の私はアバヤ王子に拾われて、その宮で育った。学問の都タクシャシラーへ留学し、医者としてひとり立ちをした後は、この地を離れるつもりであった……)
ガンダーラ国の都タクシャシラーで修行を積んだジーヴァカは、マガダ国へ戻ってくると、それまで蓄えていた金を養育の礼としてアバヤ王子に渡そうとした。しかし、王子は受け取らず、云った。
『ジーヴァカよ、金などいらぬ。それよりも、どうかこのラージャグリハに……私のそば近くに留まってほしい』
彼は、そのときのアバヤ王子の切なく哀しげな表情を忘れられない。
(父上……)
アバヤ王子はビンビサーラ王が十代の頃生した子で、父王の勇猛さは受け継がず、むしろ雅事の好きな人物であった。ビンビサーラ王が幽閉されたとき、他の諸王子は命惜しさに恐慌をきたしたが、彼は少しもうろたえず、美女と共に音曲を楽しむ日々を送っていた。ニガンダ・ナーガプッタを信仰するアバヤ王子は、思慮深いジーヴァカと違って享楽的な性格の人物であった。
(しかしあのとき、私は確かにこの方が実の父だと知ったのだ。おそらく父母は示し合わせて私を棄て、拾ったのだろう。言葉にせずとも互いに想いあっておれば、親子の情は自然に通じる。……いや、私はそう思いたい。ビンビサーラ王の父としての愛情は悪しき予言をも超えるものであった。アジャータシャトル王は、いつそれに気づかれるのか……)
物思いに沈むうちに、ジーヴァカは王宮の門の前へ到着した。そして馬を降りると、母后ヴァイデヒー夫人を見舞った。
夫人は後宮の一室に閉じ込められていた。そこへジーヴァカは内官と共に入っていった。
彼の姿を見た夫人は、泣きながら訴える。
「ジーヴァカよ、妾はどのような罪の報で、このような悪い子を生み、また世尊はどうした因縁で、あのディーヴァダッタと親戚であらせられるのでしょう。妾がこうしているうちにも、我が君のお命は尽きようとしている……」
「母后さま、どうか御心を静められますよう」
やつれはて床に泣き伏すヴァイデヒー夫人の前へ、ジーヴァカは膝をついた。だが夫人は、すすり泣きながら云う。
「……妾はもう、この浅ましく悪い世の中が嫌になりました」
「お心弱いことを申されますな。いかに悪が強く栄えて見えようとも、それが長く続いたためしはありませぬ。世尊がおいでになられましたときに、御教えを乞われるとよろしいでしょう。それまではどうか、お身体をおいといくださいますように」
「ああ、世尊……」
夫人は一度顔を上げてジーヴァカを見たがすぐに伏せ、むせび泣き始めた。ジーヴァカは、なおも夫人に対して言葉をかけようとした。しかしそのとき、
「もう、これ以上は……」
と、内官が止めた。
「いつもうち沈んで、ときに泣いておられます」
後宮を取り仕切っているその家臣はジーヴァカを部屋の外に連れ出してから云った。
「しかし、大胆なことを申される」
「真実であろう」
ジーヴァカは平然としていた。
「もし誰かの耳に入りでもしたら、ただでは済まされませぬ」
「あなたが告げられるか?」
「いや、私はせぬが……御身、気をつけねばならぬ」
内官は顔色を変え、逃げるようにその場から去っていった。
(恐怖と猜疑と保身が、この王宮を支配している)
彼は、いまいましく思った。頼みとする人達は王のもとから離れ、また自分も今では疎まれている。心ある者たちがいてもこの事態をどうすることも出来ない。
彼は後宮を出て中庭へ向かった。階を降り、明るい陽射しの中に立つ。
(世尊……貴方は今、この空の下の何処を歩いておられるのか……)
ジーヴァカは、天空をまぶしげに見上げた。
そのころ、ビンビサーラ王はヴァイデヒー夫人が押し込められたのち、小さな窓から霊鷲山の緑を仰いで心の慰めとしていた。
ところがそれを聞いたアジャータシャトル王は、窓をふさぎ、足裏を削って立つことが出来ないようにした。
密閉された空間で暑さと飢えに悩まされ、時間の感覚がなくなってゆく。それまで夫人の訪れによってなんとか正気を保っていた王の精神は、しだいに蝕まれていき、幻覚に悩まされるようになった。
同じころアジャータシャトルの子で、やっと歩き始めたばかりのウダーイン王子が指先に瘡をつくり、その痛さで泣いていた。王はそれを見ると幼い息子を抱きかかえ、膿を吸い取ってやった。
このとき傍らにいたヴァイデヒー夫人が、追想にたえず云った。
「王よ……卿の幼い頃、これと同じ瘡をやみ、父君は今の卿のように、その膿を吸われたことがあります」
「父が……」
アジャータシャトルの脳裏には、父王と過ごした楽しく懐かしい日々の思い出が蘇ってきた。
「ああ、父君は確かに私を慈しんでくださっていた……」
これまでビンビサーラ王に対して抱いていた瞋がしだいに愛慕の念へと変わってゆき、彼は家臣たちへ云った。
「もし、父王の生きておられることを告げるものがあるならば、この国の半ばを与えよう」
人々は争って父王のもとへ走った。
ところがビンビサーラ王は騒がしい足音を聞いて驚き、
「とうとう私を殺すもの達が来た」
と、怖れた。そして苦しみ悶えて床に倒れ、そのまま息絶えてしまった。
「王よ、父君が……」
報せを受けて駆けつけたときはすでに遅く、父の骸を前にしたアジャータシャトルは、激しい慙愧に苛まれた。
そして、葬儀の準備もせぬうちに、コーサラ軍がカーシーへ侵攻したとの報がもたらされた。
アジャータシャトル王はすぐに四軍を整え、戦場へと向かった。
その日、シュラーヴァスティーで托鉢を終えた比丘たちは食事の後、祇園精舎に滞在している彼らの師のもとへゆき、コーサラ国に起こった出来事を話した。
「世尊、恐ろしいことです。マガダのアジャータシャトル王と、コーサラのパセーナディ王が再びカーシーをめぐって戦いました。この度はパセーナディ王が勝ち、アジャータシャトル王を生け捕りにしたのです。しかしコーサラの王は、『アジャータシャトルはこの私に敵対したのだが、我が甥である。私は彼からすべての軍を奪って放免しよう』と、マガダの王を生きてその国へ帰らせたとのことです」
比丘たちは皆、前と違って安堵の表情を浮かべていた。大きな戦という不幸があったとはいえ、コーサラ国王の寛大な処置によって、とりあえず憎悪と暴力の連鎖が絶たれたことに、彼らは明るい想いを抱いたのだった。
そして彼らの師は、偈に想いを託した。
「有用なるものを人は奪う。次に他の人々が彼から掠め取るとき、奪った者がまた奪われる。
悪の報いが実らない間、愚か者はそれを当然のことと見做す。
だが、悪の報いが実ったとき、愚か者は苦しみを受ける。
殺す者は殺され、怨む者は怨みをかう。また罵り喚く者は他から罵られ、怒り猛る者は他から怒りを受ける。
業の輪の廻転によって、掠め取られた者が掠め取る」
仏陀は、マガダ国へゆく時が至ったのを知った。