王舎城の悲劇(6)
「アジャータシャトルは、次に我等を殺すのではないか」
そのころ宮中では父王が幽閉されたと聞き、異腹の兄弟たちが恐慌状態に陥っていた。怖ろしさのあまりから自殺するもの、あるいは出家するものが相次いだ。
その一方、ビンビサーラ王を深く愛する正妃マッダーは、すでに王の生命は絶たれたものと思い、悲しみのはてに亡くなってしまった。
けれどもビンビサーラ王は、死んでいなかった。母后ヴァイデヒー夫人の知恵によって、生きながらえていた。
夫人は王が捕らえられてから密かに様子を窺っていた。そして警備が緩んだ頃を見計らい、湯浴みして身を浄めたのち、蜜をいり、麦粉に混ぜて体に塗り、人目を忍んで牢獄へと入っていった。
「ああ、我が君……」
ヴァイデヒー夫人が絶句する。王の面はやつれて肉落ち、見る影もないほどに痩せ衰えていた。
「……まことに世尊が説き給うように、栄華も常なく罪の報いが襲ってまいりました」
夫人が涙をぬぐいながら云う。
「食を絶たれてからこのかた、飢え久しく続くので、幾百の虫が腹の中をかき乱すように苦しい。血も肉も失せはてて命も尽きようとしておる」
ビンビサーラ王もまた、絶え入るばかりにむせび泣いた。
そこで夫人が身に塗ったいり麦粉を集めてすすめると、王はむさぼるように食べ終わって、涙とともにはるか霊鷲山の方角へ向かって額づいた。
「世尊が仰せになるように世の栄華は久しく保ちがたく、夢幻のようであります」
そして次に、夫人に向かって云う。
「私が位にあった時は、国は広やかに衣食は意のままに足り、何一つ欠けることもなかったが、今や獄に捕らえられて、飢えに死のうとしている。我が子は邪な師に迷い、世尊の御教えに違うておる。私は死を恐れることはないが、ただ目の当たり世尊の御教えを受けず、またシャーリプトラ、マウドガリヤーヤナ、マハーカーシャパなどの御弟子たちと道の話を語り合うことが出来ないのが残り惜しい。まことに世尊が説き給うように人間の恩愛は、ちょうど群鳥が一夜を木の梢に宿って、暁にはそれぞれ別れ飛び、定めの禍福を受けるようなものである。尊者マウドガリヤーヤナは心の垢が除けられ、神通自在の證を得ていながら、あるバラモンに嫉まれて、撲れたこともある。まして心の垢のある私が、この憂き目に遭うのは普通のことである。災いの人を追うのは、影が身を尋ね、響きが声に答えるようなもの。御仏に遇い奉ることは難く、その御教えを聞くことも難い。また御教えによって仁をしき、民を治めることも難い。私は今、命終わってはるかな所へゆくであろう。しかし夫人よ、いやしくも心あるもので、世尊の御教えを奉ぜぬものはない。汝も慎んで教えを守り、来るべき禍を防ぐがよい」
夫人はかえって王から教戒を受け、身も世もあらず泣き崩れた。
それから毎日、ヴァイデヒー夫人は王のもとを訪れて、いり麦粉を食させた。また、マウドガリヤーヤナとプールナもやって来て道の話を語ったので、ビンビサーラ王は悲惨な状況にありながら、二十一日の間、顔色も穏やかに悦びに満ちていた。
一方、コーサラデーヴィーの死は、アジャータシャトル王の野心に火を点けた。
もう一人の母として自分をかわいがってくれた王妃の死に、さすがの王も心が痛んだが、同時に、
(これは好機やもしれぬ)
と、思った。
妹が亡くなったことでパセーナディ王は、妃の化粧料として与えたカーシーの村を返還するようにと、うるさく云ってきていた。しかし、アジャータシャトル王にもとよりそのつもりはない。
(いずれはコーサラもマガダの領土としたい。しかし今は、豊かなカーシーを我が物と為そう)
王がほくそえむ。
二つの大国コーサラとマガダの間にはさまれたカーシー国、その都のベナレス(ヴァラナシ)は、古くからの聖地であった。また、東西から水路陸路が集まる重要な土地であり、そのため富が集中し、香や布については最高級の品を産した。かつてカーシーは強大な国だったが、今はコーサラ国の支配下にある。そして、ここを治めるものは「一切の諸王の帝王」とみなされ、どの国の王もこの地を切望した。
やがてアジャータシャトル王は、象軍、騎馬隊、戦車隊、歩兵隊の四種の軍を調え、カーシー国へ攻め入った。コーサラ国のパセーナディ王がすぐさま迎え撃ったが、天地が割れるかというほどの激戦の後、コーサラは敗北しアジャータシャトル王がカーシー全土を手中に収めた。
このときシュラーヴァスティーへ托鉢に出かけていた多くの比丘は、祇園精舎に帰ってきて興奮した口調で語り合い、食事を済ませた後に彼らの師の許へ赴いた。
「世尊、恐ろしいことです」
その比丘は、蒼白な顔で話し出した。
(申し上げるのか)
傍らにいたアーナンダが、苦く思う。出家者は俗世のこと、特に政や戦について語ってはならないという規則があった。
(だが、二つの強国がまともにぶつかり合ったのだ。話さずにはおられまい)
アーナンダは、すでに詳細を知っていた。師もおそらくご存知であろうと彼は思っていたが、沈黙を守った。
「……マガダ国のアジャータシャトル王が軍を率いて、カーシーへ攻め入りました。パセーナディ王はその地で迎え撃ったのですが敵わず、単身シュラーヴァスティーへ逃げ帰ったということです」
比丘は身震いした。
彼らの脳裏には、戦場の無残な光景がありありと映っているようだった。殺戮はさらなる恐怖と怒り、悲しみを産み出し、憎悪はまして悪しき循環を繰り返す。作り出された悪業は、蟻地獄へ引き入れるかのように六道輪廻の深みへとますます人を陥れてゆく。
慄く弟子たちへ、彼らの師は静かに語りかけた。
「比丘たちよ、マガダの国王アジャータシャトルは、悪友を持ち、悪い仲間がいて悪人に取り巻かれている。ところが、コーサラ国王パセーナディは善友を持ち、善き仲間がいて善い人々に取り巻かれている。しかしコーサラの王は、今日この夜、敗者として苦く眠るであろう」
(……悪人とは、兄のことだ)
アーナンダの胸が痛んだ。